生沢クノ

更新日:2023年03月27日

  • 生沢クノ(1864-1945)

生沢クノ(1864-1945)

生沢クノの写真

生沢クノは、元治元年(1864)に武蔵国榛沢郡深谷宿(現在の深谷市仲町)に生まれた、日本で2番目の女医です。当時は, 男性のみに許された医師資格を女性でも取得できるよう請願し、女性へ門戸を開放させました。

クノの父・良安は、当時では珍しい蘭医であり、深谷で開業していました。クノが女医を志しても、良安は女医になることの困難さを知っていたため、初めは反対したといいます。しかし、最後には、クノの固い決意に動かされ、勉学のための上京を許しました。

クノは上京後、九段の止敬塾、芝の東京府病院の見習生などを経たのち、神田の私立東亜医学校に特別に入学し、本格的に医学を学びます。しかし、学校は女人禁制のため、クノは断髪男装のうえ、別室で修学するという苦学を強いられました。

明治16年に東京府に医学試験請願書を提出します。しかし、女性に前例のないことを理由に却下されてしまいます。翌年、埼玉県令(現在の知事)宛てに請願書を出しますが、これも却下されてしまいます。

しかし、クノたちの働きかけにより明治17年には制度が改正されます。

クノは、不幸にも過労のため、最初の試験は見送らざるを得ませんでしたが、その後、明治18年に前期試験、翌19年に後期試験に合格し、日本で第2番目の女医の資格を得て、翌年医籍に登録されました。

医師となったクノは、深谷や寄居など埼玉県近隣各地で、女性と地方の医療に尽くす生涯を送ります。

クノは、各地で草の根医療に携わったのち、深谷に戻り、昭和20年に静かに息を引き取りました。

苦学したクノ

クノが医者を志すにも、当時は女医そのものが認められていなかったために、クノはたいへんな苦労を強いられました。

まず直面したのは、勉強する場所がなかったことでした。女性が医学を学べる場所はなく、はじめは同郷の松本万年の止敬塾で漢学などを学んでいました。

苦心し、神田駿河台の私立東亜医学校に特別に入学を許可された後も、断髪、男装で通学したり、教室の隣室に机を与えられ聴講を余儀なくさせられ「隣室先生」とあだ名をつけられるなど、苦労は絶えませんでした。

しかし、女性が医師試験を受けられるように東京府や埼玉県令に対して請願書を提出するなど、クノの粘り強い努力によって、日本に女医が誕生することとなったのです。

赤ひげだったクノ

クノは、父の助手として寄居や児玉で医療に携わったのをはじめ、川越、川本、深谷、足利と各地で開業・閉鎖を繰り返していました。

当時、医者にかかるのがまだ一般的ではなかったため、医院経営は成り立たなかったといわれています。しかし、父の良安もクノも、報酬をあてにせず、貧しい病人には無料で治療にあたり、費用の代わりに農産物などを受け取ったりもしていました。

児玉の分院の看板には、良安の直筆で「医士生沢」の文字がありました。これは、「医師」ではなく、医のさむらいであろうとする厳格で高い志を表しているといわれています。

クノの顔のあざ

クノの右ほほには、赤子の手ほどの赤いあざがありました。このあざを気にし、消したいと考えたことが、女医を志す動機のひとつだった、とも言われています。

また、女医第2号という輝かしい経歴にもかかわらず、東京に留まらずすぐに郷里へ帰ったことや、生涯独身を通したことの理由もこのあざのためではと、推測されています。

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