レンガのまち深谷

更新日:2024年10月04日

深谷のまちを歩いていると、レンガ造りの建物が目につきます。赤茶色のザラっとした感触のもたらす温もりの中にも、どこかノスタルジックな哀愁のあるレンガの持ち味は、落ち着いた深谷のまちなみによく似合います。

深谷とレンガ

深谷といえば「ねぎ」というのが一般的に知られているところですが、実はレンガに深いゆかりがあります。深谷市の上敷免にはかつて、明治20年(1887年)に設立された日本煉瓦製造株式会社のレンガ工場がありました。ここは日本で最初の大規模な機械式レンガ工場で、郷土の偉人渋沢栄一翁らにより設立され、明治から大正にかけて、東京駅をはじめとする多くの近代建築物がここで生産されたレンガを使って造られました。 現在は、日本の近代化に大きく貢献したレンガ工場の一部が国指定重要文化財として保存され、今後一般公開して「レンガのまち深谷」をアピールできるよう、保存修理工事を行っているところです。 このように深谷とレンガは歴史的に深い関係を持つことから、「渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり」を推進し、深谷駅など市の代表的な施設は必ずレンガ調にすることで、新しい施設づくりを通じ、レンガの色彩、温もり、美しさが訪れている人や住んでいる人に感動を与えるようなまちづくりを進めるとともに、JR深谷駅北側の一部エリアにおいては、市民が建築物や外構工事にレンガやレンガ調タイルを使用した場合、その規模に応じて補助金を交付する制度を設けております。

深谷のレンガ史

「レンガのまち深谷」のレンガ史は、渋沢栄一翁が明治20年につくった日本煉瓦製造会社(後の日本煉瓦製造株式会社)の工場に始まります。
日本煉瓦製造会社の工場は、ドイツ人技師チーゼを招いて操業を始めました。ホフマン輪窯(わがま)6号窯、旧事務所、旧変電室、備前渠鉄橋が国の重要文化財に指定されています。現在は、市に寄贈され保存されています。
日本煉瓦製造会社でつくられたレンガは、明治から大正時代の代表的レンガ建築である、司法省(現法務省)・日本銀行・旧東京裁判所・旧東京商業会議所・赤坂離宮・旧警視庁・旧三菱第2号館・東京大学・東京駅などに使われました。
また、ここで製造したレンガを輸送するため、工場から深谷駅まで4.2キロメートルにわたって引き込み線が敷設されましたが、途中の福川に架けられた鉄橋はポーナル型プレートガーダー橋として現存する日本最古(明治28年)のもので、現在も大切に移設保存されています。
深谷市では、この日本煉瓦製造会社の設立をはじめ、日本近代産業の指導者であった渋沢栄一翁の功績を顕彰するため、翁の生地に近い、下手計に「渋沢栄一記念館」を設置し、翁の肉声テープをはじめ、多くの資料を展示しています。

郷土の偉人 渋沢栄一

渋沢栄一は、天保11年(1840年)、現在の深谷市血洗島(ちあらいじま)の農家に生まれました。24歳のころ、徳川幕藩体制に疑問を抱き尊皇攘夷運動に加わりましたが、その後、一橋家および幕府に仕え、慶応3年(1867年)、第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡欧。約2年滞在する中で、ヨーロッハ゜の進んだ思想・文化・社会などを目の当たりにし、大きな影響を受けました。
明治元年(1868年)11月に帰国した後、大隈重信の説得により明治新政府の大蔵省に仕え、財政の整備に当たりましたが、大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職。以後は一般社会で実業界の最高指導者として活躍しました。

「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」(どうとくけいざいごういつせつ)を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立に努め、第一国立銀行創立をはじめ設立に関わった企業は500余に及びました。

また、600以上の社会公共事業に関わるとともに、昭和6年(1931年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。