深谷ねぎの歴史

更新日:2024年04月18日

はじめに

深谷市はねぎの生産量が全国トップクラスであり、深谷ねぎは全国的なねぎのブランドとして定着している。深谷ねぎは品種名ではなく深谷地方で栽培されたねぎの総称であり、現在ではかなりの多様性を持つようになっている。根深ねぎ・千住群に属し、品種は多数存在する。深谷市外の利根川流域で栽培されたねぎも「深谷ねぎ」の名称で販売されている。

明治時代

深谷でのねぎ栽培は明治30年頃、利根川右岸の北郷と言われる肥沃な沖積地帯から始まった。藍作が衰退して養蚕が盛んになり、併せてねぎ、やまといも、ごぼうなどの野菜類が主力農産物になった。言い伝えでは旧八基村大塚の人が千葉県柏地方より千住赤柄系のねぎを導入して自家用につくったのが深谷ねぎの最初だといわれる。その後、明治末期には最大の生産量になった新会(新戒)のほか八基、中瀬、大寄など深谷ねぎの産地になっていった。当時の生産は新会でさえ米、大麦、養蚕を主とする全価額の7%に過ぎない。

大正時代

大正時代には「深谷葱」の名が生まれた。大正時代にねぎの相場が下がったことがあり、当時の八基村の指導者渋沢治太郎が、乾物屋永徳屋本店の安部彦平(後の初代深谷市長)に相談し、安部が取り引き先の信州、北陸、北海道、東北に深谷駅からねぎを出荷した際に、駅名をとって「深谷葱」の商標をつけたのが最初といわれる。それまで近辺にのみ出荷されていた深谷ねぎが東京デビューしたのは大正5年(1916)、大塚の人によって出荷されている。その3年後には血洗島の人が2トントラックにむきねぎを積んで直接東京へ出荷したのが、当時画期的な出来事として話題になったといわれる。大正の終わりには個人より団体で出荷するメリットが見出され、豊里に相次いで組合が誕生。東京を主な消費地として発展した深谷ねぎの流通は当初「土つき六貫目俵」で輸送され、途中の板橋志村坂では「立ちん棒」と呼ばれる人々が重い荷を押して運ばれたという。

昭和時代

昭和4年(1929)に起こった世界恐慌による海外市場喪失で養蚕業が大きな打撃を受けたこともあり、ねぎ栽培は拡大していく。中心は新戒(しんがい)33地域をはじめとする市北部であった。

昭和に入ってからも、豊里は農業先進地区として周辺ねぎ生産界を牽引した。戦後の消費拡大とともに市北部豊里、明戸地区のねぎ作付面積は増加した。昭和43年(1968)の生産農業所得では、豊里村(当時の平均所得は埼玉県全体の2倍以上であった。その後、交通手段の発達とともに流通も変化した。おもな消費地である京浜地区だけでなく「山出し」と呼ばれる北海道、東北ルートも「野菜移出商人」によって拓かれた。かつては土がやわらかく寄せにくいため、ねぎに不向きとされた南部の藤沢地区櫛引でのねぎ導入は、昭和50年(1975)頃にインスタントラーメンの乾燥野菜用として始まったといわれる。この頃には技術的な向上もあり、また土にとってねぎは新しい作物だったため、南部でも高品質のねぎが生産されるようになり状況は変わっていく。

生産安定への取組

機械化

ねぎ栽培を経営の柱に位置付け、ねぎ栽培面積の拡大を地域目標に掲げ取り組んでいく中で、安定生産が課題となる。こうした中、平成6年、農家の発想で冬ねぎの生理・生態にマッチした「挿し苗定植法」が導入され、肥培管理の試行錯誤を繰り返し、生産が安定、収益向上へつながった。しかし、この頃外国からのねぎ輸入が進み、価格の低迷から産地では危機意識が高まり、更なる安定生産、コスト低減、栽培技術が求められるようになる。また、厳しい真夏の炎天下の植え付け作業の軽減、作業時間の短縮も課題であった。そこで、手作業による植え付け作業から植付機の開発と栽培技術の体系化に向け、埼玉県、農機メーカー(井関農機株式会社、JAふかやの三者と地元農家の協力から「ネギ平床移植機」を利用した高位生産技術を組み立て、これにより周年生産専作経営への道が開かれた。

品種作り

昭和初期に共同出荷組織が定着したところから、品質の向上を図る上で、品種の統一が必要になった。そのため、農政研究会や八基農業研究会が組織され、品種改良に努め、その研究の結果「農研」が生まれ、その後合柄系の分けつ型で耐寒性のある「農研2号」が誕生する。口の中に入れると、とろけるような甘味があり、「深谷葱」の名を高めた。しかし、収量が少なく、型くずれを起こすなどの欠点があった。その後、中瀬の西田正一氏の長年にわたる研究成果である「西田」が「深谷葱」の主流をなし、息子の西田宏太郎氏によって「宏太郎葱」(農水省品種登録第947号、商標登録第4387180号)が生まれた。

特徴

深谷ねぎの特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと、などが挙げられる。特に、糖度は10~15度前後の糖度があるといわれており、その糖度はミカンなどの果物に匹敵する。冬の深谷ねぎは特に甘く、地元では「ネギぬた」という料理で食べられることも多い。

参考

  1. 深谷市史編さん会『深谷市史追補篇』,深谷市役所,1980,p.1534.
  2. 石原政雄『中瀬河岸場』,1975,p.88.
  3. 石原政雄『利根川と深谷ねぎ』,1982,p.144.

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