倉上明湖(くらかみめいこ)
生没年
1864(元治元)年―1936(昭和11)年
解説
倉上明湖は、元治元(1864)年8月15日、幡羅郡明戸村(現深谷市明戸)に、父安吉の長男として生まれました。名は丑蔵(うしぞう)、通称は明湖、別号は観月堂(かんげつどう)としました。 幼年より画を志し、幡羅郡東方村(現深谷市東方)の日本画家江森天淵(えもりてんえん)に師事し、花鳥、人物、仏画などを巧みに描きました。 明湖は、さまざまな画題を描いていますが、山水画を最も得意としました。明湖の描いた山水画は、奥行きのある構図で力強い描線により、山の峰や木々などの一つ一つが丁寧に描かれています。 一方、神仏や仙人を描いた仏画や人物画には内に迫力を秘めたものや、動物画や花鳥画には太い輪郭線による奔放な作品が多くあります。また、画賛が添えられているものも多く、画風に呼応するかのように自由闊達な書体が見られます。 明湖は、古今東西の画法を研究し、墨色を主とする南画で独自の画境に達した奥原晴湖(おくはらせいこ)や、構図に秀でた山水画や、精密な花鳥画などを得意とした南画家田崎草雲(たざきそううん)に傾倒しました。 また、漢学は儒教と仏教の両方の教典に通じた森東古(もりとうこ)、書は軽妙洒脱なところに特徴がある、滋賀県出身の政治家で明治時代を代表する書家、巌谷一六(いわやいちろく)の風を好みました。 そして、明湖はとても多くの諸名家と交流したと言われています。作画控帳によれば、近隣諸家に千数百点もの揮毫(きごう)をしました。 大正13(1922)年には、深谷市に初めて、美術研究団体「雑麗社(ざつれいしゃ)」が発足しました。その際には団体に参加し、後進の指導に当たりました。 明湖は、昭和11(1936)年5月27日、73歳で亡くなりました。(『広報ふかや2015年11月号』より引用)
更新日:2023年03月27日