大木晴峯(おおきせいほう)

更新日:2023年03月27日

大木晴峯

生没年

1919(大正8)年―1992(平成4)年

解説

明戸小学校には、一つの『二宮金次郎』木像が残されています。この像は、当時、明戸尋常高等小学校に在学中だった大木晴峯が彫ったもので、後年、陸軍大演習が埼玉県下で挙行された際には、「天才大木少年の作」として昭和天皇にご高覧いただくこととなりました。 大木晴峯、本名は大木仁右エ門(おおきにうえもん)。大正8年、明戸村沼尻(現在の深谷市沼尻)に生を受けました。幼少の頃から、彫刻の才能はいかんなく発揮され、「天才」の名をほしいままにしていたようです。 才能にあふれた少年は、家業の農業に従事しながらも、本格的に彫刻を勉強したいという思いが募り、ついには家族を説得して、東京の高名な仏師に弟子入りしました。晴峯は、弟子入りするとすぐに頭角を現し、師匠は多くの兄弟子たちを差し置いて、重要な仕事を晴峯に任せるようになります。しかし晴峯は、毎日鑿(のみ)を握れるといううれしさの反面、師匠から指示されるままに像を仕上げるだけの日常に、次第にむなしさを感じるようになりました。それは自分を表現できていない、という思いからでした。 折しも、家族から帰郷の催促が来たのを機に、晴峯は郷里に戻る決意をします。沼尻に帰ってからは、昼は鍬(くわ)を持ち、夜は鑿を握る生活に変わりました。農業が生活の中心となり、妻と共にネギ、キュウリ、ホウレンソウなどの栽培に熱心に取り組んだので、周りの人の目には「野菜作りに精を出す仁右エ門さん」としか映らなかったことでしょう。しかし、夜には野菜の出荷準備をする妻の傍らで、彫刻にいそしんでいました。 晴峯が創作活動に重点を置くようになったのは、50歳を過ぎてからでした。えりすぐったケヤキの材を前に、ただ一人超然とした鑿さばきで創り出されるその像は、魂が宿っているかのごとく、今にも動き出そうな躍動感がありながら、見るものを安心させる安定感もあります。 晴峯が生涯に生みだした作品数は明らかでなく、市内で確認されているものも十数点にすぎません。作家として世に広く知られることはありませんでしたが、73歳で生涯を閉じる間際までその手から鑿を離さず、創作意欲は衰えませんでした。それも先達の「天才」たちと通じるところです。(『広報ふかや2016年10月号』より引用)

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