伊丹渓斎(いたみけいさい)

更新日:2023年03月27日

生没年

1805(文化2)年-1865(慶応元)年

解説

伊丹渓斎(いたみけいさい)は、文化2(1805)年3月、榛沢郡高島村(現在の深谷市高島)に生まれました。 通称は唯右衛門(ただうえもん)、号を渓斎と称しました。家は代々高島村の名主を務め、渓斎も家を継いで9年間名主を務めて、この間に利根川の堤防修築や土木工事などで大きな功績を残しています。また渓斎は、幼少より学問を好み、詩文や書画、俳諧の道を志していました。渓斎が22歳で描いた『釈迦涅槃図(しゃかねはんず)』は、深谷市指定文化財となっています。 天保2年(1831)年10月、渡辺崋山(わたなべかざん)が伊丹家を訪れ、一晩語り明かしました。これは崋山の紀行文『毛武游記(もうぶゆうき)』十月二十九日の項に書かれ、この中で渓斎が、関西俳諧の重鎮であった桜井梅室(さくらいばいしつ)に師事し、俳諧に傾倒していたことが触れられています。 伊丹家のように経済的に富裕な家では、地方行脚をしている俳匠たちを住まわせ、交流をすることがしばしばありました。また、渓斎が生まれ育った高島村など利根川沿いの地域は河岸場が近く、人の交流が盛んで、江戸の文化に関する情報がいち早く入りました。こうした環境が渓斎に大きな影響を与え、俳諧の道に進むきっかけとなったと考えられます。 天保5(1834)年、渓斎は俳諧への強い思いを抑えきれずに名主を辞め、桜井梅室に本格的に入門します。これは、家業を捨て、職業として俳諧の世界に身を投じるということでした。渓斎は、その後数年間、身を削るような研さんをして、全国を巡る俳想を練る旅に出ました。そして各地の師匠を訪ねては、互いの俳諧をやり取りし、句作に励み、また俳画に精進しました。 こうした修行の末、江戸に居を構えたときには、その名と人望は全国に知られる存在となり、旗本、御家人、豪商、庶民など身分を問わず、多くの門人を育成しました。特に傑出した門人の一人に、深谷市沼尻の出身で、のちに鴫立庵(しぎたつあん)十一世となった大澤壽道(おおさわじゅどう)がいます。 渓斎は慶応元年(1865)5月1日に亡くなりました。(『広報ふかや2016年7月号』より引用)

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