富岡製糸場とゆかりの深い偉人たち

更新日:2023年04月20日

平成26(2014)年、世界文化遺産となった「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、長い間生産量の限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の「技術交流」を示す遺産の集合体です。富岡製糸場は、明治5(1872)年に主要な輸出品であった生糸の品質向上と増産のため、明治政府により官営として設立されました。 深谷市出身の偉人たちは、富岡製糸場の設立に様々な形で尽力しています。

まずは、明治政府で官営製糸場の設立に向けた計画や調整を行った渋沢栄一。そして、工場建設の中心で活躍し、初代の場長となった尾高惇忠。また、煉瓦製造や建築資材調達のまとめ役を担った韮塚直次郎。さらには、尾高惇忠の娘で、富岡製糸場の工女第1号となった尾高ゆう。

富岡製糸場の設立と深谷の偉人たちは深いゆかりがあることから、深谷市と富岡市は友好都市となっています。  

渋沢栄一

明治初期、日本最大の輸出品であった生糸生産のための模範工場を政府自らが、富岡の地に建てることになりました。富岡製糸場の設立にあたっては、当時、明治新政府の大蔵少輔であった伊藤博文や大蔵省租税正の渋沢栄一が担当となり計画が進められました。農家出身で蚕桑や蚕種に詳しかった渋沢栄一は、富岡製糸場設置主任に任命され、工場建設の現場を取り仕切った尾高惇忠、資材調達を任された韮塚直次郎らと共に、官営製糸場の設立に尽力しました。  

尾高惇忠

明治新政府で民部省の役人だった尾高惇忠は、官営富岡製糸場の設置を命じられ、建設用地の選定から携わります。

建築資材の煉瓦や、煉瓦を接着するためのモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでした。煉瓦づくりは地元深谷の韮塚直次郎に依頼して、瓦職人たちにより甘楽町福島の窯で焼き上げ、モルタルは同郷の左官職人である堀田鷲五郎・千代吉親子により日本固有の漆喰を改良して仕上げるなど、苦難の末、富岡製糸場は無事完成しました。富岡製糸場の初代場長となってからは、特に工女の教育に重点を置き、一般教養の向上と場内規律の維持につとめました。

惇忠が掲げた「至誠神の如し」とは、たとえ能力や才能が豊かではなくても、誠意を尽くせば、その姿は神様のようなものだという言葉です。惇忠は明治9(1876)年に場長の職を退くまで、富岡製糸場のために誠意を尽くしました。  

尾高惇忠

尾高惇忠

韮塚直次郎

現在の深谷市明戸出身の直次郎は、富岡製糸場の建設において煉瓦製造や資材調達のまとめ役をつとめた人物です。官営の製糸場は洋式の建物となることが決まっていましたが、明治時代の初めに、主要な建築材料となる煉瓦を大量生産する製造方法は一般的に確立されていなかったため、韮塚直次郎は地元の明戸から瓦職人たちを束ね、外国人技師バスティアン等から煉瓦の素材や性質のアドバイスを受けながら、材料の粘土探しからはじめました。そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現在の甘楽町福島)付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。

その他にも、石材の輸送や瓦製造などの資材調達を請け負った直次郎は、富岡製糸場完成後の明治8(1875)年、笹森稲荷神社の本殿に縦5尺横10尺の大絵馬を奉納し、事業の成功を神に感謝しています。製糸場を東上空から見下ろした構図の大絵馬は、甘楽町指定文化財となっています。

また、直次郎は、明治13(1880)年に永明稲荷神社(深谷市田谷)にも同様の大絵馬を奉納しており、現在、深谷市指定文化財となっています。  

韮塚直次郎

韮塚直次郎

大絵馬

富岡製糸場図大絵馬

尾高ゆう

尾高ゆうは、尾高惇忠の長女として万延元(1860)年に現在の深谷市下手計に生まれました。父の尾高惇忠が苦難を乗り越えて建設した富岡製糸場ですが、フランス人技師の飲む赤ワインが若い娘の血と誤解されたことから、工女の募集は生き血を絞るためという噂が広がり、創業の礎となる工女の募集は困難を極めました。14歳のゆうは、父の辛い気持ちを察すると共に、新たな製糸技術の習得に胸を躍らせて、明治5(1872)年に伝習工女の第1号となりました。

ゆうの決断は近郷の少女たちの気持ちを刺激し、下手計村の松村くら(17歳)をはじめ5人の少女や、くらの祖母わしは62歳の高齢ながら入場を志願し、工女取締役として富岡製糸場の繁栄を支えました。    

尾高ゆう

尾高ゆう

深谷市には、富岡製糸場ゆかりの偉人に関連した文化遺産や施設が多数あり、見学もできます。ぜひお気軽においでください。

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