渋沢栄一の紹介
近代日本経済の父 渋沢栄一

「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、天保11(1840)年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門からは学問の手ほどきも受けます。7歳頃からは、隣村に住む従兄の尾高惇忠のもとへ通い、「論語」など四書五経を学びました。
文久3(1863)年、幕府の階級制度や一連の外交施策に不満を募らせた栄一らは尊王攘夷思想の影響を受け、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを企てます(計画は直前で断念)。幕府からの追手を避けるために故郷を出た栄一は、かねてから知遇を得ていた家臣の勧めにより一橋家に仕える機会に恵まれ、財政の改善などに手腕を発揮し、次第にその力を認められていきました。やがて、徳川慶喜の弟・昭武の欧州視察の随行員に抜擢されて渡欧すると、先進的な技術や産業を見聞し、近代的な社会制度を知った事が、その後の栄一の人生に大きな影響を与えました。
欧州から帰国した栄一は、蟄居した慶喜のいる静岡で、商法会所をつくって地域振興に取り組んでいましたが、明治政府に招かれ、新しい国づくりに関わりました。その中の一つには、世界遺産となっている富岡製糸場の設立があります。明治6(1873)年に官僚を辞めた後は、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役(のちに頭取)となり、民間人として経済による近代的な国づくりを目指しました。栄一は、銀行を拠点に企業の創設・育成に力を入れて生涯に約500もの企業に関わり、約600の社会公共事業・教育機関の支援や民間外交に尽力しました。
儲けのみを求めるのではなく、世のため人のために働いて儲ける、つまり公共の利益を追求することで、皆が幸せになり、ひいては国が豊かになると考え、実践した栄一は、多くの人に惜しまれながら昭和6(1931)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。
年表
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
---|---|---|---|---|
1840年 | 天保11年 | 0 | 2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に市郎右衛門、えいの子として生まれる。 | アヘン戦争勃発 |
1858年 | 安政5年 | 18 | 尾高惇忠の妹、ちよ(千代)と結婚。 | 日米修好通商条約・安政の大獄 |
1863年 | 文久3年 | 23 | 高崎城乗っ取り、横浜外国人商館焼き討ちを計画するが、尾高長七郎(惇忠の弟)の説得により中止。幕府の追手を避けるため京都へ。 | 井伊大老暗殺(1860) |
1864年 | 元治1年 | 24 | 一橋家用人平岡円四郎のはからいで渋沢喜作とともに一橋家に仕官する。 | 外国艦隊下関を砲撃 |
1867年 | 慶応3年 | 27 | 将軍徳川慶喜の弟・昭武に従いフランスのパリ万博に随行。 | 大政奉還、王政復古 |
1868年 | 明治1年 | 28 | フランスより帰国。静岡で慶喜に面会。 | 戊辰戦争(1868~1869) |
1869年 | 明治2年 | 29 | 静岡藩に「商法会所」設立。 明治政府に仕え、民部省租税正となり、改正掛掛長を兼務する。 |
東京遷都 東京・横浜間に電信開通 |
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
---|---|---|---|---|
1870年 | 明治3年 | 30 | 官営富岡製糸場設置主任となる。 | 平民に苗字使用許可 |
1872年 | 明治5年 | 32 | 大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。 | 新橋、横浜間鉄道開通 |
1873年 | 明治6年 | 33 | 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役となる。 抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。 |
国立銀行条例発布 |
1875年 | 明治8年 | 35 | 第一国立銀行頭取。商法講習所(現一橋大学)の経営委員となる。 | |
1876年 | 明治9年 | 36 | 東京府養育院事務長(後に院長)。 | 私立三井銀行開業 |
1877年 | 明治10年 | 37 | 択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。 | 西南戦争 |
1878年 | 明治11年 | 38 | 東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。 | |
1879年 | 明治12年 | 39 | 大阪紡績会社の設立に尽力する。 グラント将軍(元第18代米国大統領)歓迎会 |
|
1881年 | 明治14年 | 41 | 東京大学文学部講師として「日本財政論」を講義。(以後三ヶ年に及ぶ) | |
1882年 | 明治15年 | 42 | ちよ(千代)夫人死去。翌年、伊藤兼子と再婚する。 | 日本銀行営業開始 |
1884年 | 明治17年 | 44 | 日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。 | 華族令制定 |
1885年 | 明治18年 | 45 | 日本郵船会社創立(後に取締役)。 東京瓦斯会社創立(創立委員長、後に取締役会長) |
内閣制度制定 |
1886年 | 明治19年 | 46 | 「竜門社」創立。 東京電灯会社設立(後に委員)。 | |
1887年 | 明治20年 | 47 | 日本煉瓦製造会社を設立。工場敷地を上敷免村(現在の深谷市上敷免)とする。 | |
1896年 | 明治29年 | 56 | 京釜鉄道会社の設立に尽力する。さらに三年後には京仁鉄道会社合資会社を設立する。 | |
1897年 | 明治30年 | 57 | 澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。 | 金本位制施行 |
1900年 | 明治33年 | 60 | 男爵を授けられる。 | |
1901年 | 明治34年 | 61 | 日本女子大学校開校。会計監督(後に校長)となる。 | |
1902年 | 明治35年 | 62 | 兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。 | 日英同盟協定調印 |
1906年 | 明治39年 | 66 | 東京電力会社創立。 京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。 |
鉄道国有法公布 |
1907年 | 明治40年 | 67 | 社団法人東京慈恵会を設立し、理事・副会長として尽力する。 | 恐慌、株式暴落 |
1908年 | 明治41年 | 68 | 八基小学校にて「一村の興隆と自治的精神」と題し講演を行う。 中央慈善協会(現在の全国社会福祉協議会)が設立され会長となる。 |
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
---|---|---|---|---|
1909年 | 明治42年 | 69 | 古稀を機に多くの企業・団体の役員を辞任。 渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。 |
|
1911年 | 明治44年 | 71 | 勲一等に叙し瑞宝章を授与される。 | |
1912年 | 明治45年 | 72 | 帰一協会成立。 | |
1914年 | 大正3年 | 74 | 日中経済界の提携のため中国訪問。 | 第一次世界大戦勃発 |
1915年 | 大正4年 | 75 | パナマ運河開通博覧会のため渡米。 諏訪神社(深谷市血洗島)に拝殿を寄進する。 |
|
1916年 | 大正5年 | 76 | 喜寿を機に実業界を引退。 「論語と算盤」を刊行する。 |
|
1917年 | 大正6年 | 77 | 日米協会創立・名誉副会長。 | 事実上の金本位停止 |
1918年 | 大正7年 | 78 | 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。 | |
1919年 | 大正8年 | 79 | 協調会創立・副会長。 | ヴェルサイユ条約調印 |
1920年 | 大正9年 | 80 |
国際連盟協会創立・会長。 子爵を授けられる。 |
株式暴落(戦後恐慌) |
1921年 | 大正10年 | 81 | 排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。 | |
1923年 | 大正12年 | 83 | 大震災善後会創立・副会長。 二松学舎の『論語講義』刊行に着手する。 |
関東大震災 |
1926年 | 大正15年 | 86 | 11月11日の平和記念日にラジオ放送を通じて、平和への訴えを行う。(以降恒例となる)ノーベル平和賞候補となる。(翌年も同候補となる) | |
1927年 | 昭和2年 | 87 | 日本国際児童親善会創立・会長。日米親善人形歓迎会を主催。 | 金融恐慌勃発 |
1929年 | 昭和4年 | 89 | 宮中に参内し、御陪食の光栄に浴する。 | 世界大恐慌はじまる |
1931年 | 昭和6年 | 91 | 11月10日正二位に叙せられる。11月11日永眠。 | 満州事変 |
関連リンク
渋沢栄一記念館
〒366-0002
埼玉県深谷市下手計1204
電話:048-587-1100
ファクス:048-598-4331
更新日:2023年04月20日