20.青淵翁と万葉歌碑

更新日:2023年03月27日

東京都狛江市和泉(こまえしいずみ)の多摩川の岸近くに、渋沢栄一が中心になって再建された万葉歌碑があります。再建といったのは、文化2年(1805)に建てられた最初のものが、文政12年(1829)の多摩川の洪水のために流されて、その所在がわからなくなってしまい建てかえたということです。

この碑の表には、万葉集の東歌(あずまうた)(巻十四)が松平定信によって書かれています。すべて漢字で書かれていますが、これは万葉仮名(まんようがな)といって漢字の音訓をかりて仮名のように使っているのです。今の表記になおすと、

多摩川に曝す手作さらさらに 何そこの児のここだ愛しき

(たまがわにさらすてづくりさらさらに なにそこのこのここだかなしき)

この碑の裏には、栄一が碑を建てかえたいきさつを説明しています。この地にこの歌があるのは、かつてこの地方は蚕糸の産地で、これを朝廷に納めていたからですと、書きおこしています。さらに付け加えれば、この狛江は渡来人の地であったこと、奈良時代に朝廷に納めた布のことを調布(ちょうふ)といったこと、この地方に調布の地名があり、栄一がつくった計画都市を「田園調布」と名づけたことなど、これと無縁ではないと思います。

つぎに、栄一が強調していることは、これは「松平定信のよい業績を伝える」ことにあるといっています。つまり、歌人でもあった定信の書いた万葉歌碑の拓本(たくほん)をもとにした復元をいっているのですが、栄一が定信を慕う理由は、このような文化的事業のほかにもあったのです。定信は、寛政の改革をなしとげた老中でしたが、その改革の一つ七分(しちぶ)積立金を資金として東京府養育院がつくられ、栄一が院長になったことなどもあります。いずれにしても、栄一は大正11年83歳にしてこのような文化的事業にもかかわっていたのです。

〔文・吉橋孝治さん/平成17年8月号掲載〕

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