4.渋沢栄一の「論語の里と論語の道」
10年程前、青淵記念館の展示室で小学校の生徒達に「渋沢さんは何処の大学を出たんですか?」と聞かれました。ケース内の坪内逍遥の東京大学の卒業証書にある数人の教師名の中に、財政学講師澁澤榮一という名を見ての質問に、「未だその頃日本に大学は無かったんですよ」と前置きをして、六歳の時から手習いを始め、人一倍一生懸命勉強してから江戸やパリへ行っても自分から進んで大学生にも負けない知識を身につけたことを順序立てて説明したら、皆さんが目を輝かせて聞いて下さいました。
天保11年(1840)に渋沢栄一が生まれた血洗島村と10歳上の従兄・尾高惇忠が生まれた隣の下手計村の一帯を「論語の里」、そして少年時代の栄一が惇忠の家に論語を習いに通った徒歩約2千歩(約1キロメートル)の道は、何時の間にか「論語の道」と呼ばれるようになりました。
今は昔、弘化・嘉永の頃、栄一は2歳上の従兄の渋沢喜作と一緒に、冬は積雪・空っ風、夏は高温・雷雨の中でも草鞋を履いて論語を口吟みながら毎日この道を往復しました。四書・五経はじめ多くの漢書から日本史まで何十もの書物を通読し十四、五歳頃まで読書・撃剣(剣術)・習字などの稽古を続けました。
その頃より家業に厳しい父の指導で麦作・養蚕や藍玉の生産販売に勤しみ、ソロバンの魂を身につけたことが、後年実業界で活躍する基礎になりました。
少年時代からの直向きな努力と人柄に惹かれて関係のあった人々は、新撰組の近藤勇・土方歳三や坂本龍馬・桂小五郎・西郷隆盛を始め、明治維新以後の政財界・実業界・国際親善・教育慈善事業関係などの人間関係や功績に至っては数え切ることが出来ませんが、総ての原動力と原点は今から164年前の深谷市の「論語の里」の「論語の道」が出発点であります。
フランスの皇帝ナポレオン3世や発明王エジソンはじめ、世界の人達との交流や青い目の人形交換会による日米親善も…。
〔文・安部利平さん/平成16年4月号掲載〕
更新日:2023年03月27日