19.ふるさとを大切にした渋沢栄一

更新日:2023年03月27日

明治39年(1906)のことですが、渋沢栄一が生まれた血洗島(ちあらいじま)の鎮守様(ちんじゅさま)である諏訪神社(すわじんじゃ)の氏子(うじこ)が集まって、「東の家」(ひがしんち)の渋沢誠室(せいしつ)が書いた幟旗(のぼりばた)が古くなってしまったので、この際、新しく大きな幟旗を寄進しようと話しあいました。そして幟旗の字については、渋沢栄一にお願いすることに決まりました。

氏子たちは早速、栄一のところへ幟旗を持ちこみました。

渋沢栄一は「私は若い時に郷里を飛び出し、諏訪神社をはじめ村の人々にごぶさたしていて、心から申し訳ないと思っていた。私に幟旗を書けと命ぜられたのは絶好の機会だ。諏訪神社へのおわびの心で書こうと思う。村の振興のためには鎮守の神様を中心に氏子たちが心を一つにすることが大切だ。」と、神を敬う(うやまう)ことの大切さを説きました。

また、栄一は「24歳で村を出たが、その時は若者頭(わかものがしら)の役をつとめていて、諏訪神社の奥殿の改築をやっていたが、その仕事の途中で村を出てしまったので、諏訪神社に対する罪ほろぼしの意味で神社修理の際には血洗島の氏子と等分に費用を出したい。」と申し出ました。

大正5年(1916)、渋沢栄一により諏訪神社の拝殿が寄進造営されました。氏子たちは渋沢栄一の好意に対し、お金を出し合って境内に「渋沢青淵翁喜寿の碑(せいえんおうきじゅのひ)」を建てました。

それから渋沢栄一は毎年、10月17日の諏訪神社のお祭りの日には村に帰り、村人の演じる獅子舞を楽しみました。アメリカに旅行した時と病気の時のほかは90歳まで20回、欠かさず村に帰って来たのです。そして「村に帰った時は特別扱いしないで村人の一人として扱ってほしい、好物のにぼうとうを頂ければ十分である」と話しました。この言葉に、郷里の人たちを思う栄一の心がこめられているように思うのです。

〔文・清水惣之助さん/平成17年7月号掲載〕

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