14.栄一翁と書道

更新日:2023年03月27日

栄一翁を顕彰する事業などにより、その遺墨を目にする機会がふえたことは、喜ばしく思います

翁は後年社会的名望を得てからは、人々に請われて揮毫することが多かったようです。若い頃の書よりも老境に入ってからの書の方が、より多く今に伝わっています。昭和6年、すなわち歿することとなる年の書まで伝わっていますから、翁は終生筆をとったことがわかります。

手習いの初めはどうであったかというに、まず父である市郎右衛門の文字を手本とし、さらにおじに当たる渋沢誠室の教えを受けました。当時教場を開いていた誠室から、「栄さんはなかなかうまい。おれの後が継げるよ。」とほめられたといいます。いわゆる手筋がよかったのかもしれませんが、加えて大いに努力したに違いありません。長じてからは、宋の蘇東坡や元の趙子昂の書を好んだようで、それをまねた墨蹟も伝わっています。

そうして筆にするところは、自作の詩歌はもとより、論語をはじめとする中国の古典の中にあることば、また格言などさまざまです。書技が上達するとともに、学問も進んだことがわかります。

一体、翁の生きた時代の傾向として、篤学と能書とは別物ではありませんでした。すなわち、学識や教養の広い人は書もよくしたのです。字のじょうずな人は、取りもなおさず学問もよくできたのです。学書一如とでも言いましょうか、あるいは学書不離とでも言いましょうか。それは当時の人にとっては、一つの目標であったのでしょう。もちろん翁は学問を専一にして世を渡った人ではありません。書家でもありません。しかし、今日翁の遺墨を見るたびに、翁こそこの傾向を実によく具現した人であると思われてなりません。

〔文・増田泰之さん/平成17年2月号掲載〕

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