13.戦火に散った渋沢平九郎

更新日:2023年03月27日

「見立て養子これ無くてはあい成らず候につき、平九郎こと養子のつもりにいたし置き候あいだ、さよう御承知成さるべく候」慶応3年、パリの万国博覧会に出席する徳川昭武の随行員になった渋沢栄一翁から届いた一通の手紙によって、尾高平九郎の人生は一変しました。

栄一翁の妻千代の弟である尾高平九郎は弘化4年(1847)下手計に生まれました。父は名主を務めており長兄に惇忠がいます。母は栄一翁の父の姉ですから翁とは従兄弟にもなります。「人と成り長身白皙才文武を兼ね志忠孝に存す」と招魂碑は伝えますが、凛々しい眼とよく通った鼻筋の、現存する平九郎の写真は碑文を証明しています。

栄一翁がパリへ行った後、わが国は内戦状態となり渋沢と苗字を替えた平九郎は、兄の惇忠や従兄弟の渋沢喜作らとともに、振武軍を結成して倒幕軍と戦いました。しかし飯能戦争で破れ逃げる途中、越生の黒山で敵に包囲され割腹自殺をしたのです。時に慶応4年(1868)明治と改元されるまであと四ヵ月、平九郎22歳の5月23日。青葉したたる頃でした。

平九郎の最後の雄姿は彼と戦った倒幕軍の兵士を治療した宮崎通泰が一枚の絵にして残しました。それから数年後この絵を見た中瀬の斎藤喜平は一見して描かれた武士が平九郎と見抜き、尾高惇忠へ知らせたのです。また平九郎が割腹に使用した小刀も、明治26年に倒幕軍参謀だった川合鱗三より渋沢家に返還されました。

平九郎が自刃した越生町黒山三滝にある大岩のすぐ近くに大きなグミの木があります。

「飯能戦争に散った青春像」の著者、宮崎三代治氏は「越生の山里に今なお生きながらえて、人々から愛し慈しまれている一本の老木」と書き、渋沢華子女史も「彰義隊落華」の最後に「平九郎グミ」を書いています。

武士として戦火に散った平九郎でしたが俳句も作りました。

初雁が日本世界を見て通る

平九郎の句です。

〔文・奥田豊さん/平成17年1月号掲載〕

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