11.藍と栄一

更新日:2023年03月27日

江戸時代、染料になる藍は重要な作物でした。藍の産地としては徳島県の吉野川流域(阿波)が最も盛んでしたが、深谷市北部の利根川沿いの村々でも藍をたくさん栽培していました。利根川沿いの地域は、藍の生育に適した肥えた土地です。しかも、良い藍を育てる肥料として必要な〆粕や干鰯が、中瀬河岸を利用することで手に入れることができました。

渋沢栄一が生まれた「中の家」でも藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を紺屋に販売していたのです。

栄一は勉学や剣術に励む一方、家の仕事にも興味をもちました。14歳のとき、父の代わりに近くの村々へ藍の買い付けに出かけました。「肥料が足りない」とか「乾燥が十分でない」など、父の買い付けに同行しながら覚えた藍葉の鑑定を一人で行い、農家の人からも一目を置かれました。栄一の初めての商業活動でした。

16歳の頃には、得意先の長野県や群馬県、秩父地方の紺屋には年に4度回りました。

良い藍を作ろう、阿波の藍に負けない藍にしようと考えていました。その一つに、相撲番付の形を利用して、良い藍を栽培した農家を順番に、大関、関脇、小結…とあてた「武州自慢鑑藍玉力競」の番付表を作りました。文久2年(1862)、22歳の栄一は行司を務めています。大関に選ばれることは農家の名誉です。「来年は一番良い藍を作って大関になろう」と力を入れました。成塚、沼尻、下新戒、中瀬、伊勢島、落合、高島、下手計、上手計、新井、上敷免などの農家が、藍作りを競い合いました。

この番付表は、渋沢栄一記念館に拡大して表示されています。「藍田は家を興す」と言われた藍は、経済人渋沢栄一のルーツと言ってもよいでしょう。

〔文・河田重三さん/平成16年11月号掲載〕

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