7.新撰組と渋沢栄一

更新日:2023年04月24日

現在、NHKの大河ドラマ「新選組!」が放映されています。私はこの新選組の近藤勇と渋沢栄一の幕末での行動が似ているなと常々思っていました。

最近出版された岩波新書「新選組」の著者・松浦玲氏が同じ考えなので、意を強くしました。その一節を引用します。

「近藤勇や土方歳三が浪士組の一員として上京した文久3年春は日本中に攘夷の熱が充満していた。近藤勇も熱烈な尊皇攘夷論者で、多摩にはそれを受け入れる基盤があった。明治の日本資本主義をリードした渋沢栄一は多摩より少し北で同じ武蔵国だった榛沢郡血洗島村の出身だが、文久3年には横浜を襲撃して異人を斬るという計画を親戚や友人数十名と共に本気で立てている。強烈な攘夷思想の度合いにおいて近藤勇と渋沢栄一には差が認められない。基盤も共通する。」

近藤勇と渋沢栄一が似ている点を時代と共に追ってみると、栄一は近藤より6歳下、同じ武蔵国の農民の出、当時武蔵国は武芸が盛んで、どちらも田舎道場で武芸に励みました。両者とも尊皇攘夷の考えが強く、近藤は門人と浪士組に入り上洛、一方栄一は同志と高崎城と異人館の襲撃を計画しました。

その後、近藤は会津藩お抱えの新選組に、栄一は一橋家に、どちらも幕府に仕えました。栄一は新選組と京都の治安維持、長州征伐など、近藤は武芸で、渋沢は経理能力をもって幕府につくしました。

幕府崩壊後、新選組は幕府のため、近藤・土方共に死にました。その頃栄一はパリへ、留守の尾高惇忠らは振武軍を結成、最後まで戦い、養子の平九郎は戦死、栄一も日本にいたら、もしや戦死したかも知れません。どちらも最後まで幕府につくす節義をつらぬく心の持ち主でした。

近藤らは多摩の千人同心の心が、栄一らは遠く南北朝時代の新海・中瀬氏の勤皇の心、及び中瀬河岸場を通じての水戸学の精神が、冒頭の引用文「基盤も共通する」に基づいています。

〔文・持田勉さん/平成16年7月号掲載〕

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