油絵で見る渋沢栄一の生涯

更新日:2023年09月27日

この油絵は、深谷の小学校の校長先生であった渋沢敦雄氏の作品で、栄一の生涯を絵により分かりやすく紹介したものです。

このたび、渋沢先生のご厚意によりホームページで公開させていただくことになりました。

作者プロフィール

渋沢敦雄氏

渋沢 敦雄 氏

昭和15年11月16日生まれ

埼玉大学教育学部卒

平成4年4月 深谷市立深谷中学校教頭

平成6年4月 深谷市立八基小学校校長

平成9年4月 深谷市立上柴西小学校校長

1. おえいの羽織

おえいの羽織

この地方は秋から冬にかけて、からっ風の強いところです。栄一の母「えい」は、寒い北風が吹くと栄一に風邪を引かせまいと、羽織を持って栄一の遊び場所を村中さがしまわりました。村人は、こうした「えい」の姿を「おえいの羽織」と呼んでいました。

2.藍香に学ぶ

2.藍香に学ぶ

栄一は5歳になると、父から学問の手ほどきを受けるようになりました。7歳になると、従兄で学者の尾高藍香(らんこう)に学ぶようになりました。夜になると、毎日一人で1キロメートルほど離れた藍香の家に通って、学問に励みました。

3.藍葉の買いつけ

藍葉の買いつけ

栄一は13歳になると、一人であちこちの村へ藍葉の買いつけに行きました。 大人たちは栄一を子どもだと思って最初は相手にしてくれませんでした。しかし栄一の藍葉の知識に驚き村人たちは安く売ってくれるようになりました。

4.岡部の陣屋

4.岡部の陣屋

岡部に代官の陣屋がありました。ある日、栄一の家にも代官から呼び出しがあって、栄一は父の代わりに行きました。栄一は、代官がいばってばかりいるので、腹を立てて最後まで言うことを聞きませんでした。

5.信州を旅する

信州を旅する

栄一は18歳の時、尾高藍香と信州(長野県)の各地を学問のこと、日本の将来のことを話し合いながら意気揚々(いきようよう)と旅をしました。

6.江戸に留学

江戸に留学

栄一は父を説得して、農閑期の二ヶ月だけという約束で、初めて江戸へ留学に出かけました。

7.江戸での栄一

7.江戸での栄一

栄一は2度目の留学をしました。江戸に出た栄一は、海保漁村(かいほぎょそん)の塾生となり学問を学び、千葉道場で剣法を学びました。

そこで多くの志士(国のために力を尽くそうとする人)や剣客と交友を深めました。

8.暴挙計画

暴挙計画

  江戸から帰った栄一は、夜になると若者たちと倒幕(幕府を倒すこと)の計画に明け暮れました。しかし、この無茶な(結果がどうなるかよく考えないで行動すること)計画は、従兄の尾高長七郎に止められてしまいました。

9.一橋家に仕える

一橋家に仕える

倒幕計画によって幕府に追われた栄一たちは京都に逃れました。そこで、一橋家の重臣(位の高い侍)平岡円四郎は栄一の才能を見込んで、一橋家に仕えることをすすめました。

10.徳川慶喜に内おめみえ

10.徳川慶喜に内お目見え

一橋家に仕えるについて、慶喜に覚えてもらうために、円四郎の計らいで、洋式騎兵の訓練のため遠乗りをする時を見計らって慶喜の乗馬の前を走ることになりました。

11.農兵の募集

農兵の募集

一橋家に仕えた栄一は、一橋家の領地のある関西に農兵(農民の兵隊)を募集するために代官所に着きました。はじめは誰も農兵になる人はいませんでしたが、知恵をしぼり苦労して目的を果たしました。

12.新選組と栄一

12.新撰組と栄一

幕臣(幕府の役人)となった栄一は、京都の陸軍奉行の詰め所に出ていました。ある時奉行の配下にある大沢という侍が倒幕を企てているとの通報がありました。そこで新撰組に頼むことになりましたが、奉行所からも人を出さなければなりません。そこで栄一は土方歳三らと大沢の捕ばくに向かいました。土方は自分たちが大沢をしばるので、そこで奉行からの命を申しわたせという。しかし、それでは本末転倒。申しわたした後でなければ名目が立たないと、栄一はひとりで大沢の宿所に入って行き、奉行の命により捕ばくする旨を述べた。大沢は神妙に縄を受けて何ごともなく済んだが、土方は後でこの栄一の振る舞いを、論も立ち勇気もあるとほめたという。(歴史をつくった先人たち・日本の100人より)

13.パリーを視察する栄一

パリーを視察する栄一

ナポレオン三世からパリー博覧会に招待された慶喜(15代将軍)の弟、昭武のお供で栄一はヨーロッパに行きました。栄一はヨーロッパの人々と交流を深める手段として、フランスで髷を切り、洋装になりフランス語を覚えたり、進んだヨーロッパの文化を積極的に取り入れようと努力しました。

14.パリーの下水道

パリーの下水道

栄一は徳川昭武の信頼も厚く、様々な視察のお供に栄一を連れて行きました。いっしょに行った侍たちが外国の生活になれない中で、栄一はヨーロッパの進んだ文明を次から次へと見学しました。この時の経験が、日本に帰ってからの活躍に役立ちました。そして、日本のために役立てたのです。

15.帰国報告(慶喜に謁見)

帰国報告

栄一が約2年間ヨーロッパで過ごした間に、日本では徳川幕府が倒れて、明治の時代になっていました。栄一は帰国すると、今の静岡のお寺で不自由な生活をしている慶喜をたずねました。そして、慶喜に会った栄一は「このようなお姿でいるとは…」と涙を流しました。

16.商法会所を興す

商法会所を興す

栄一は慶喜のいる静岡で生活しようと思いました。そして、代官屋敷に商法会所(大勢の資本を持ち寄って力を合わせて仕事をする組織)をつくりました。この商法会所のおかげで人々の生活も豊かになりました。

17.明治政府に仕える

明治政府に仕える

あるとき、新政府より「出仕せよ」という召状が来ましたが、栄一は明治政府に仕える気はまったくありませんでした。しかし、大隈重信などに静岡藩内のことなどは日本全体から見れば取るに足りぬことである「今の日本は大切な時である。国のために尽くせ」と説得されて、明治政府に仕えました。

18.家族とくつろぐ

家族とくつろぐ

栄一は、明治政府に仕えて東京に住むようになりました。この頃になると、故郷の血洗島から栄一の父と母が上京することもありました。大変忙しい栄一でしたが、家族と過ごす時間を持ちました。長女、歌子さんが6歳の頃のことです。

19.栄一と富岡製糸場

19.栄一と富岡製糸場

良質な生糸の大量生産の緊急性を感じた明治政府は、模範的な洋式製糸工場の建計を計画しました。富岡製糸場設置主任の栄一の主導のもと、尾高惇忠が創立責任者に任命され、また、フランス人技師ポール・ブリュナを建設技術者に迎え、現在の群馬県富岡市に建設が進められました。また、深谷の在の韮塚直次郎は同郷の多数の職人たちをまとめて建設にあたりました。2年後に富岡製糸場が完成すると、尾高惇忠は初代工場長になりました。

20.父の危篤

父の危篤

栄一の父が重病になりました。栄一は東京から人力車でかけつけ、夜の11時過ぎに血洗島の家に着きました。家のまわりは提灯を灯して明るく照らされ、門前には砂を盛り番手桶がすえてありました。「父上が重病でとりこんでいるのにこんな用意をして、いったい誰がくるというのか」と思わず栄一は声をはりあげた。たとえわが子であっても今は身分の高い人、礼を失ってはならぬと律儀な父の指図によるものでした。栄一は盛砂に黙礼をして、父の待つ家の中に入っていきました。

21.第一国立銀行設立

第一国立銀行設立

栄一は井上馨と一緒に明治政府を辞めました。栄一の本当の人生はここから始まったのです。最初に第一国立銀行をつくりました。この銀行は株式組織による最初の銀行です。英語のバンクを銀行と訳したのも栄一です。

22.日本の産業発展につくす

22.日本の産業発展につくす

栄一は500以上の会社をつくることに関係しました。栄一はお金もうけのことよりも、いつも人々のためになることを考えて仕事をしていたのです。こうした栄一の力が今の日本の発展につながっているのです。

23.岩崎弥太郎にことわる

岩崎弥太郎にことわる

岩崎弥太郎は三菱財閥をつくった人です。ある日、栄一は岩崎弥太郎に招待されました。そして、二人で組んで事業を行おうと相談を持ちかけられました。しかし、栄一は国民みんなが豊かになることを目指していたので、きっぱりと断りました。

24.大阪紡績

大阪紡績

大阪紡績は、栄一が中心となり、関西の実業家や華族が出資し、明治16年(1883年)に操業を開始しました。イギリス製のミュール紡績機の採用、火力による発電、夜間に電灯を用いた昼夜2交代制など、当時としては最新・最大の設備を誇る近代的な紡績工場でした。大正3年(1914年)には、三重紡績と合併して東洋紡績となりました。

25.栄一をとりまく人々

栄一を取りまく人々
人名

栄一が関わった多くの人々の中から、一握りの面々を描きました。両親・妻子・尾高家の人々・澁澤喜作・慶喜・明治政府の人々・岩崎弥太郎・ギューリック博士等々です。

26.インドへ出航する広島丸

インドへ出航する広島丸

当時の世界の海運業界はイギリスのピー・オー汽船会社の独占状態にあり、船賃が高くなかなか利益が上がりませんでした。 そこで栄一は、前々からずっとインドの綿花の輸入のためボンベイ定期航路の開設を計画し、インドのタタ商会・大日本紡績連合会・日本郵船との間をとりもち、11月その第一船・広島丸を神戸より出航させました。

27.慶喜の墓前に供える

慶喜の墓前に供える

栄一が中心になって、20年以上かけて慶喜の伝記を書きました。栄一は慶喜の本当のえらさを一番よく知っている人です。そして大変尊敬していました。栄一は慶喜の命日に涙を流して、伝記を墓前に供えました。

28.アメリカで講演を行う栄一

アメリカで講演を行う栄一

栄一は渡米して、ワシントン軍縮会議の成功を願い、日米親善のための講演を行い、米国の財界人に多大な感銘をあたえました。栄一の渡米は、これ以前の明治35年(63歳)、同42年(70歳)、大正4年(76歳)の渡米を含め4回にも及びました。

29.養育院にて

養育園にて

栄一は恵まれない子どもや人々のために明治12年(39歳)の時、東京府養育院長の嘱託を受けて以来、生涯にわたってたくさんの社会福祉の仕事を親身になって行ってきました。 こうした栄一のやさしい心は、論語の教えや母のやさしい心を引きついでいるのです。

30.故郷に帰る

故郷に帰る

栄一は23歳で故郷を去りました。年をとってからは、毎年秋になると、諏訪神社の獅子舞を楽しみに故郷に帰ってきました。

31.栄一をお迎えする小学生たち

31.栄一をお迎えする小学生たち

栄一が故郷に帰るときに、岡部駅を利用することもありました。そうした時には岡部小学校の子どもたちが迎えたこともありました。

32.国際親善1

国際親善

大正13年6月、来日中のタゴール(インドの詩人・思想家・ノーベル文学賞を受賞)を飛鳥山邸に招きました。タゴールは2回来日しています。

33.国際親善2

国際親善

栄一は多くの外国人を家に招待しました。栄一は86歳の時に救世軍ウィリアム・ブース大将を招待しました。

34.青い目の人形

青い目の人形

明治から大正にかけて、日本とアメリカの関係が悪くなり、昭和になっても良くなりませんでした。このことを栄一は大変心配しました。そのとき、ニューヨークのギューリック博士から人形を通して日本とアメリカが仲よくしようと、アメリカから12,739体の人形が贈られてきました。そして、日本の人々の心に大きな感動を与えました。後に日本からも58体の日本人形をお礼としてアメリカに贈りました。

35.巨星落つ

栄一を見送る人々

栄一の葬儀は、11月15日に東京の青山斎場で仏式により営まれました。葬儀当日、飛鳥山の本邸を出る栄一を乗せた車は、多くの人々に見送られました。そして、栄一は、誰からも尊敬されていたため、葬儀に参列した人は数千名を越えました。

お問い合わせ先

渋沢栄一記念館
〒366-0002
埼玉県深谷市下手計1204
電話:048-587-1100
ファクス:048-587-1101

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