渋沢 栄一 デジタルミュージアム【shibusawa eiichi digital museum】

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関連人物

更新日:2016年3月31日

富岡製糸場初代場長 尾高惇忠

 天保元年(1830)深谷市下手計に生まれました。栄一のいとこであり、学問の師でもあります。はじめ伯父の渋沢誠室に学び、剣は大川平兵衛に学びました。17歳で自宅に尾高塾を開き、近隣の子どもたちに教えました。
 文久3年(1863)、栄一やいとこの渋沢喜作と共に倒幕を計画しますが、弟の長七郎によって計画は中止されます。明治元年に喜作らと彰義隊を創設、脱退後は振武軍を結成し飯能の戦いで官軍に敗れ敗走しました。
 明治2年の「備前渠取入口事件」では、地元農民の先頭に立って民部省に提訴し、事件を解決へと導きました。これが縁で民部省に招かれ、官営富岡製糸場建設に計画当初から携わり、初代場長を務めました。建設資材の調達に尽力し、工女の募集に至っては自ら範を示すため、娘のゆうを伝習工女第一号として入場させ、工女の教育を熱心に行いました。
明治9年に場長の職を辞した後は国立第一銀行の盛岡・仙台支店に勤務し、同地の経済発展に尽力しつつ製藍の製造と普及に務めました。

惇忠肖像写真

惇忠肖像写真

尾高ゆう

尾高ゆう写真

惇忠墓

下手計地内の尾高家墓地にある惇忠の墓

尾高家墓までの案内図(PDF:500.1KB)

貧にして苦学、一流学者 桃井可堂

 深谷市北阿賀野に生まれました。名は儀八、号は可堂といいます。12歳の時、渋沢仁山に師事しました。22歳で江戸遊学を志し、江戸の東條一堂に学び門下の三傑と称されました。そこで勝海舟、藤田東湖らとの交流があり、水戸、長州藩の影響を大きく受けました。その後、備前庭瀬藩板倉勝資に仕えましたが文久3年に長州に接近。同藩を辞し帰郷し中瀬村で学問を教えながら尊王攘夷の挙兵を計画しました。上武、越後の同士を集め、計画の実行を試みるも仲間の裏切りがあって計画は失敗に終わってしまいます。可堂は川越藩に自首し、絶食して命を落としました。南阿賀野の稲荷神社には、栄一が撰文した碑が建っています。

桃井可堂先生碑

桃井可堂先生碑

「東の家」から出た漢学者 渋沢仁山

 通称を龍輔、雅号は仁山。渋沢一族の「東の家」に生まれ、後に分家して「古新宅の家」を築きました。若い頃から学問の道を志し、江戸の一流の文人・学者と交流し、渋沢一族に学問・芸術の世界に寄せる深い感性を植え付けた人物です。自宅に「王長室」という学塾を開き、『論語』を中心とする儒学の教えを講じました。門下には桃井可堂、甥の渋沢宗助(誠室)・文平(喜作の父)・元助(栄一の父)の3兄弟がいます。栄一は『論語』をもって生涯の指針としましたたが、『論語』を重んじる精神はこの仁山にはじまると言っても過言ではありません。郷土における学問の祖であり郷里で塾を開いた渋沢仁の存在は一族に大きな影響を与えたと思われます。

仁山王長室の跡の碑

仁山王長室の跡の碑

「東の家」三代目宗助 渋沢誠室

 「東の家」に生まれ、伯父の渋沢仁山に学問を学びました。栄一の伯父にあたり、自らが「東の家」の当主となった時に一家は最盛期を迎えます。書・剣ともに優れ、第一級の文化人であるとともに、一族の長として経営の才能もあり、開港間もない横浜に進出して生糸・蚕種の海外貿易にも関わりました。養蚕技術の開発に取り組み、『養蚕手引抄』という技術書を自ら著して、無料で配布するなど社会公共のために尽くしました。栄一の名付け親であり、書の手ほどきをしたのも誠室でした。

彰義隊隊長 渋沢喜作

 天保9年(1838)血洗島に生まれました。父は「東の家」2代目宗助の次男文平で、その弟は栄一の父、元助です。栄一とはいとこにあたります。少年時代は栄一と尾高惇忠のもとで学問を習い、高崎城乗っ取りを断念し、京都へ逃げ一橋家へ仕官するなど、すべて二人は行動を共にしました。慶喜が将軍となったため、幕臣となり、「彰義隊」の隊長を務め、振武軍(しんぶぐん)を結成して官軍と戦い飯能戦争で敗れてからは、榎本武揚の軍に参加し五稜郭に立てこもりました。榎本が降伏し、官軍に捕えられ三年間に及ぶ牢獄生活を送りました。その後は、栄一の推薦で大蔵省に出仕し、辞職後は実業家としての道を歩みます。何度も事業に失敗し、そのたびに栄一の温情によって苦境を切り抜けるなど、栄一と喜作は生涯にわたって友情を貫きました。

渋沢平九郎

 平九郎は惇忠、長七郎の弟で、栄一にとっては義弟にあたります。栄一が慶喜の名代昭武に随行してパリ万博に行く際、見立て養子となりました。平九郎は彰義隊、振武軍に参加しました。飯能戦争で振武軍参謀を務めた平九郎は傷を負い、黒山村(越生市)へ辿り着いた時、官軍の一部に遭遇して勇敢に戦い、討ち死にしました。栄一は、平九郎が自分に代わってその役目を果たしたように考え、平九郎のあまりに早い死を悲しみました。

韮塚直次郎

 文政6年(1823)、深谷市明戸に生まれました。富岡製糸場の建設において資財の調達のまとめ役を務めました。主要な建築材料の煉瓦もまだその製造方法もわかっていない中、直次郎は明戸の瓦職人たちを束ね、試行錯誤の末、煉瓦を焼き上げることに成功しました。また、下手計の堀田鷲五郎も煉瓦を接着するためのモルタルを考案するなど、富岡製糸場の建設においては、深谷の人々が様々なところで活躍しました。

韮塚直次郎が奉納した絵馬

韮塚直次郎が奉納した絵馬

阿弥陀寺にある直次郎の墓(深谷市明戸590)

韮塚直次郎墓までの案内図(PDF:242.4KB)

お問い合わせ先

渋沢栄一記念館
〒366-0002
埼玉県深谷市下手計1204
電話:048-587-1100
ファクス:048-587-1101
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