榛沢六郎成清(はんざわろくろうなりきよ)
生没年
不詳-1205
解説
鎌倉時代初期の武蔵武士。畠山重忠の郎党。
榛沢氏は、武蔵七党のひとつ丹党の新里成房が榛沢に住み「榛沢」を名乗ったのが始まりで、子の成清は『源平盛衰記』に「畠山の乳母(めのと)の子」と載り、畠山重忠と乳兄弟であったといわれている。この時代、乳兄弟は実の兄弟よりも絆が深く、成清は常に畠山重忠の補佐役として仕えた。
成清は、はじめ源義朝に従い保元の乱(1156年)に出陣し、その3年後の平治の乱(1159年)では、重忠の父・重能に従い義朝の配下として参加している。
源頼朝が挙兵すると、平氏方として追討に参加した畠山重忠の従軍の1人として成清の名がみえる。その後、勢いを増す頼朝に対し、重忠は源平のいずれにつくべきか成清に意見を求め、その意見を聞き入れて頼朝に従うことを決めた。成清は、重忠が頼朝に従って以降の数々の合戦でも重忠に従った。
源頼朝の没後、北条氏の謀略によって二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で鎌倉方の大軍に囲まれた畠山重忠勢百余騎の中に成清もおり、この多勢に無勢の戦いの中で重忠と共に討死した。
このとき、従者が成清の遺骨を持ち帰り、深谷市後榛沢の榛沢氏館に埋葬したといわれる。
深谷市後榛沢の成清の館跡といわれる地には、成清の遺徳を偲ぶ領民によって成清塚が築かれ供養塔が建立されている。
埼玉県指定旧跡「榛沢六郎成清の供養塔」について
更新日:2023年03月27日