設計者について

更新日:2023年03月27日

誠之堂~田辺淳吉(たなべじゅんきち)~(1879-1926)

田辺淳吉の画像

    大正5年頃

  (資料提供:博物館明治村)

 田辺淳吉は、明治36年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、「清水組(現清水建設株式会社)」に入り、当時、技師長として数多くの建築家を育てる一方、晩香廬(1917)、青淵文庫(ともに東京北区、渋沢史料館)など、多くの栄一に関わる建物の設計に携わりました。

 明治42、43年に欧米を視察し、当時の新しい建築界の潮流、特にウィーン・ゼツェッションに強い影響を受けました。

 芸術的志向が強く、繊細な端正な設計を得意とし、大正建築の名手ともゼツェッションの旗手ともいわれました。特に誠之堂などの小規模な作品に本領が見られます。

 田辺自身は、誠之堂の設計にあたって「取りたてていえば、凝らない工夫をした・・・いわゆる上等仕事として歓迎されている技巧のすべてを除いた」という旨を述べています。

 しかし、その言葉とは反対に、誠之堂の各所には細部にまでこだわった「凝った仕事」を見ることができるでしょう。

清風亭~西村好時(にしむらよしとき)~(1886-1961)

西村好時の画像

  (資料提供:清水建設株式会社)

 西村好時は、明治45年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、田辺淳吉の推挙で清水組に入り、田辺の片腕となって活躍した後、第一銀行に移り建築課長に就任しました。

 銀行建築の第一人者として東京丸の内の第一銀行新本店を始め一連の第一銀行の建物、支店長社宅、証券会社建築等の銀行関係施設を手がけました。

 また、東京三田にあった渋沢栄一の孫・敬三らの邸宅の洋館部分も西村の設計によります。

 西村自身は、清風亭の設計にあたって「南欧田園趣味を採用し、これを近代的な手法で建て、清楚な気分を表現することに努力した」という旨を述べています。

 これは、いわゆるスペイン風の様式により、鉄筋コンクリート造の工法で建築した、ということでしょう。

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