野口源三郎(のぐちげんざぶろう)

更新日:2017年2月22日

生没年

1888(明治21)年―1967(昭和42)年

解説

 野口源三郎は、明治21(1888)年8月24日、榛沢郡横瀬村(現在の深谷市横瀬)に生まれました。翌年母を亡くし、源三郎が3歳の時、榛沢郡岡部村大字宿根(現在の深谷市宿根)にある母方の親戚の養子となりました。

 埼玉師範学校(現在の埼玉大学)を経て、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)へ入学しました。校長であった嘉納治五郎(かのうじごろう)に認められ、陸上競技に専念します。第5回ストックホルムオリンピック大会マラソン競技選考会に出場。代表選手にはもれましたが、後にフィールド競技に転向し、棒高跳びで頭角を現した源三郎は、大正6(1917)年、第5回日本陸上選手権で日本記録を樹立しました。

 大正9(1920)年、第7回アントワープオリンピック大会に十種競技選手兼主将として参加、入場式では旗主を務め、埼玉県初のオリンピック選手となりました。結果は、12位と及びませんでしたが、この機会に欧米のスポーツ界を視察し、世界的視野から高い水準の知識と技能を日本にもたらしました。また、陸上競技のヘッドコーチとして手腕をふるう傍ら、多数の研究成果を発表し、現在の学校体育の基盤を作り上げました。

 第二次世界大戦後は、東京教育大学兼埼玉大学教授となり、日本に初めて設けられた体育学部の学部長に就任しました。その後、全国の大学に体育学部が設けられたことは、スポーツの精神が国によって公認されたことであり、これにより源三郎の多年の悲願が達成されました。

 昭和8(1933)年、源三郎は、これまでの功績が認められ、日本陸上連盟から第1号の「功労章」を授与されました。また昭和35(1960)年、政府は永年にわたり日本の体育振興に貢献した功労に対し「紫綬褒章」を授与、昭和39(1964)年には、「勲三等瑞宝章」を賜る栄光に輝きました。

 昭和32(1957)年、埼玉県は源三郎からの寄付金を基に「野口記念体育賞」を制定し、埼玉県のスポーツ振興に活躍した人々に贈ることになりました。

 日本陸上競技の草分けであり先駆者である源三郎は、昭和42(1967)年3月16日、80歳で亡くなりました。(『広報ふかや2015年12月号』より引用)

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