柳田さくら(やなぎたさくら)

更新日:2017年2月22日

柳田さくら

生没年

1904(明治37)年―1937(昭和12)年

解説

 柳田さくらは、明治37(1904)年3月12日、大里郡榛沢村(現在の深谷市榛沢)に生まれました。父柳田酉五郎(やなぎたとりごろう)は漢学者、母いちは歌人、4歳年上の姉可つ良(かつら)は書道家として活躍するなど、学術・芸術に関して恵まれた家庭環境の中で育ちました。

 姉の可つ良は幼い頃から書道で才能を発揮し、10歳の時皇太子殿下(のちの大正天皇)の御前で揮毫(きごう)するなど華々しい活躍を見せました。その姿を見て、自分も御前で揮毫したいと考えるようになったさくらは、日々努力を重ね、ついに明治45(1912)年9歳の時、皇太子殿下の御前で揮毫する光栄に浴することができました。姉妹揃って御前揮毫をすることは、近隣にも全く例のないことで、村を挙げて祝福されました。

 書道で才能を見せたさくらは、その後、画道を目指すようになり、日本画家である江森天壽(えもりてんじゅ)に入門します。これより、さくらは、書道よりも画道を志し、日本画家としての道を歩んでいくこととなります。

 天壽は頻繁に柳田家を訪れて指導していたので、両親はより画道に精進できる環境を整えるため、画房を建てました。熊谷高等女学校(現在の県立熊谷女子高等学校)を卒業してからは、さらに本格的に絵画修業に励みます。天壽はさくらに非凡な才能を認め、中央の画壇で活躍する荒木十畝(あらきじっぽ)への入門を推薦、さくらは十畝にも師事し、この頃から「櫻花(おうか)」の雅号を称するようになりました。

 さくらは、師匠ゆずりの花鳥画のほか、歴史上の人物や自画像を含め多くの女性像を描き、それらの多くには命の儚さや移ろいなどを象徴的に重ねたさくらの眼差しが感じられます。そして、画房を訪れた多くの近隣の人々に、恵比寿や大黒天、二宮尊徳の画を描き贈ったことから、それらの作品は現在も北武蔵一帯に多く遺されていると言われています。

 将来を嘱望され、いずれは中央画壇に名を連ねることになったと思われるさくらですが、昭和12(1937)年、小田原に滞在しているところで病にかかり、八方手を尽くしましたが、その甲斐なく33歳の若さで亡くなりました。(『広報ふかや2016年3月号』より引用)

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