生沢クノ(いくさわくの)

更新日:2017年3月10日

生沢クノ

生没年

1864(元治元)年―1945(昭和20)年

解説

 生沢クノは、元治元(1864)年、榛沢郡深谷宿(現深谷市仲町)に生まれました。医師であった父が働く姿を間近に見て育ったクノは、女性の病苦を癒したいという思いから、医師を志すようになりました。家族はその前途の困難を思い、考え直すように話をしますが、クノの固い決意に負け、上京を許可します。

 明治10(1877)年、高い志を持ち、13歳で上京したクノでしたが、当時は女性が医師になることが認められていなかったため、大変な苦労を強いられます。まず問題になったのは、女性が医学を学べる場所がなかったことでした。そのため、まず女子教育に力を注いでいた松本万年(まつもとまんねん)のもとで学び、その後、病院の見習生や産婦人科医院での研さんを経て、ようやく明治15(1882)年に私立東亜医学校に特別に入学が許可されました。しかし、学校は女人禁制だったため、クノは断髪・男装で毎日別室に出席しました。

 在学中にクノは、女性に医師の門戸を開くことを求め、東京府と埼玉県に医学試験請願書を提出します。いずれも前例がないという理由で却下されましたが、クノらの再三の働きかけにより、受験が正式に認められ、明治17(1884)年9月に、女性を対象にした第1回の医術開業前期国家試験が実施されました。

 クノは過労のあまり体調をくずし、不運にも第1回の試験を受験できませんでしたが、明治18(1885)年に前期試験、翌年には後期試験に合格し、23歳で日本で2番目の女医の資格を得ました。医師となったクノは寄居で父の助手として、また、児玉の分院では出張診療を行いました。

 明治21(1888)年には、川越に婦人科専門の医院を開業しました。その後は、本畠村(現深谷市畠山)、西島、相生町と医院を移し、大正10(1921)年からは足利市で産婦人科医、副院長として勤務するなど、生涯を地域医療にささげました。

 昭和7(1932)年に68歳で退職し、深谷に戻った後は、妹の家寿(やす)の家族に囲まれて平穏に過ごし、昭和20(1945)年6月18日、81歳の長寿を全うしました。

 現在、日本では医師の約2割を女性が占め、約6万人が活躍しています。幾多の困難を乗り越え、決して諦めなかったクノの情熱が後進の道を切り拓いたのです。(『広報ふかや2017年3月号』より引用)

生沢クノ

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