岡谷繁実(おかのやしげざね)

更新日:2023年03月27日

生没年

1835(天保6)年―1919(大正8)年

解説

天保6(1835)年3月12日、秋元家家臣、館林藩士岡谷繁正(おかのやしげまさ)の長男として生まれました。通称は鈕吾(ちゅうご)、別名を斯波純一郎(しばじゅんいちろう)または弾正(だんじょう)、号は寒香園(かんこうえん)といいます。幕末維新期の館林藩の出身で、同郷の作家である田山花袋(たやまかたい)と肩を並べる唯一の人物と言われています。 繁実は非常に多難な年少期を過ごしました。3歳の時に天然痘を患ったことで生涯眼病に悩まされ、弘化4(1847)年には父繁正が急逝、わずか13歳で家督300石を相続します。そして、16歳の時には勉学に励むも体を壊し、失明の危機を経験しました。 嘉永5(1852)年、江戸に遊学して西洋砲術を学び、藩から大砲の鋳造を命じられ、藩主秋元志朝(あきもとゆきとも)の御前で大砲の試射を行いました。安政3(1856)年に江戸勤務を終えて帰藩、独礼席の待遇を与えられます。翌年、藩の大目付を辞して、水戸や江戸の昌平坂学問所で学び、帰藩後は取次役に昇進します。その後、尊王志士として活動し、高杉晋作や吉田松陰とも交流を持ったと言われます。 繁実は、対立が深刻化していた幕府と長州藩の衝突を回避するために動きますが、長州藩と共謀したという嫌疑で慶応元(1865)年、幕府から家禄没収と永之暇が命じられ、翌年深谷の地へ移住しました。ここは、先祖の岡谷香丹(おかのやこうたん)が延徳3(1491)年に城を築き、皎心寺(谷之地内)を建てたゆかりのある地でした。しかし、度重なる干渉に遭い、江戸浅草に移りました。 繁実は明治維新後、明治政府の官僚として、退官後は修史家として活躍します。度々の苦難に遭っても屈することなく、足利学校の保存や金沢文庫の再興など多方面にわたる業績と、数多くの著作を残しました。名著『名将言行録』は多くの読者を得て、今も出版され続けています。 栄光と挫折の軌跡を描き、波乱の生涯を送った繁実は、大正8(1919)年12月9日、86歳で亡くなりました。墓は、先祖ゆかりの人々が温かく接してくれた深谷の清心寺(萱場地内)にあります。(『広報ふかや2015年8月号』より引用)

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