江森天淵(えもりてんえん)

更新日:2023年03月27日

生没年

1857(安政4)年―1921(大正10)年

解説

江森天淵は、安政4(1857)年1月26日、榛沢郡用土村(現在の寄居町用土)に朝比奈錦香(あさひなきんこう)の次男として、生まれました。本名は鵬助(ぼうすけ)といいます。 朝比奈氏は、鎌倉時代の武将として知られる和田義盛(わだよしもり)を父にもつ、朝比奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)が祖と伝えられる家系で、代々医業を継承しました。 天淵の父錦香も、医業の傍ら絵事を学びました。天淵は家業の医学には関心がなく、幼い頃から父に絵を学び、熱中していきました。さらに、画家として生きる決意を固め、東京に出て、山水画を得意とする福島柳圃(ふくしまりゅうほ)に学びました。 明治14(1881)年24歳の時、幡羅郡東方村(現在の深谷市東方)の江森たまと結婚、江森家を継ぎ、これを期に東京での修業に区切りをつけ帰郷しました。すでに画家として一人立ちできる技量を身に付けていた天淵は、師の柳圃の流れを継ぐ、山水画と花鳥画を得意としました。濃墨で険しい深山の風景を描く一方で、軽妙な筆で民衆の暮らしを伝える作品も描いています。また、風景画の色を抑えた静かで落ち着いた表現の作品に対し、仏画などでは、鮮やかな朱色を用いるなど、あふれるような色彩の作品もあります。 天淵は、子の江森天壽(えもりてんじゅ)の幼少時代から優れた絵の才能を認め、手ほどきし、天壽が画家として成長する上で強い影響を与えました。 明治43(1910)年、日本美術協会から多年にわたる優作出品により、功労者として表彰されました。 天淵は、大正10(1921)年、64歳で亡くなりました。昭和2(1927)年5月、菩提寺である弥勒院境内(東方地内)に「天淵天壽父子之碑」が建立され、天淵・天壽父子の画業がたたえられました。(『広報ふかや2016年1月号』より引用)

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