韮塚理重(にらづかりじゅう)

更新日:2017年2月22日

韮塚理重

生没年

1887(明治20)年―1984(昭和59)年

解説

 韮塚理重は、明治20(1887)年6月9日、明戸村(現在の深谷市明戸)の父直衛と富岡製糸場の建設に貢献した韮塚直次郎の娘である母えいの次男として生まれました。東京蚕糸講習所(現在の東京農工大学)で学んだ理重は、父が設立した大里製糸合名会社の経営を継ぎました。北海道野付牛(現在の北見市)の郊外に農場を開くなど、事業を拡大していきましたが、第一次世界大戦後の不況のあおりを受け、工場と農場を閉鎖することになります。

 実業から離れた理重は、大正6(1917)年4月、明戸村議会議員に当選以来、議員、明戸村助役、明戸村長として、約30年にわたって村の発展に力を注ぎます。村長を退いた後も村の要職を歴任し、昭和30(1955)年、町村合併した深谷市の初代市議会議員として市政に貢献しました。

 その他、備前渠用水普通水利組合議員、深谷史編さん委員などの役職を歴任し、社会教育まで幅広い分野で貢献しました。また、深谷市文化財調査委員であった折には、東京大学の中世文書調査協力員になりました。

 理重は仕事の傍ら、若くから写真や音楽、水墨画、俳句などの世界に傾倒します。青年時代から撮影していた写真の中には、大里製糸合名会社と日本煉瓦製造株式会社を1枚に収めた写真などがあります。音楽では、自ら楽器を購入し、村の愛好者と楽団を立ち上げ、村から出兵する人々をその演奏で送り出したと言われています。水墨画や俳句では、東明(とうめい)と号し、『星屑:句集』などの著作を残しました。また、近隣の人々が煉瓦の材料の粘土を掘った時に見つかった出土品を、韮塚家へ持ってきたため、考古学に詳しくなるなど、その活躍は多岐に渡り、文化人としても地域に強い影響を与えました。

 公職、文化を通じて郷土の発展に大きく貢献した理重は、昭和42(1967)年4月、その功績を称えられ、勲五等瑞宝章を受章した後、昭和59(1984)年8月14日、97歳で亡くなりました。(『広報ふかや2016年5月号』より引用)

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