大瓦堂明竹(たいがどうめいちく)

更新日:2017年2月22日

大瓦堂明竹

生没年

1889(明治22)年―1956(昭和31)年

解説

 大瓦堂明竹(たいがどうめいちく)は、明治22(1889)年6月12日、幡羅郡明戸村字新井(現在の深谷市新井)で瓦製造業を営む通称「大瓦屋(おおがわらや)」の長男に生まれ、本名は植竹隆之といいました。

 幼少の頃は絵画を好み、フランスでの絵画修行を夢見て、当時、フランス語の授業が行われていた東京暁星中学校で学びました。その後、日本簿記専修学校を卒業し、フランスへの渡航を志しました。しかし、父の死去によりその志はかなわず、家業の瓦製造業を継ぎ、後に埼玉県瓦業組合連合会長を務めました。

 明竹は、家業の傍ら、文墨を愛好し、俳聖茂木秋香(もてぎしゅうこう)に俳諧を学び、生涯を通して文芸を愛し、多くの作品を世に出しました。軽快な筆遣いで書かれた文字や淡彩に描かれた絵には軽妙さとユーモアが感じられます。少年時代にはフランスでの絵画修業を目指し、いったんは夢破れた明竹でしたが、文芸への情熱が消えることはなかったのでしょう。55歳の時、明竹は、「あけと俳句研究会」を創設し、句誌『あけと』を創刊しました。また、65歳のときには、俳画300点を広く配り、俳句の振興に努めました。

 一方で、明竹は明戸郵便局(現深谷新井郵便局)の設立に奔走しました。当時、明戸村新井とその隣の上敷免にあった日本煉瓦製造株式会社では、レンガの製造が盛んに行われ、にぎわいをみせていました。同時に、通信や金融の重要性も高まったことから明竹が依頼を受けて大正9(1920)年に明戸郵便局を開局しました。その他、戦後まで30年間村会議員を務めるなど、地域の発展に大きく貢献しました。

 昭和31(1956)年11月4日に亡くなった明竹は、公職、文化を通じて郷土の発展に大きく貢献した功績をたたえられ、従六位勲六等瑞宝章を賜りました。昭和33(1958)年には、明竹が創設した「あけと俳句研究会」の会員らにより、句誌あけと百号記念『あしあと』が刊行され、多くの人に偲ばれました。(『広報ふかや2016年8月号』より引用)

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