尾高ゆう(おだかゆう)

更新日:2017年2月22日

生没年

1858(安政5)年頃―1923(大正12)年

解説

 尾高ゆうは、安政5(1858)年頃、尾高惇忠の長女として榛沢郡下手計村(現深谷市下手計)に生まれました。父の惇忠は、地元でも有名な学者・教育者でいとこの渋沢栄一も惇忠に学びました。明治維新から間もなく、明治政府は経済発展と軍事力の強化を目指した「富国強兵」を合言葉に、外国の技術の導入などで近代工業を盛んにし、外貨獲得の手段としていきました。そのひとつとして、良質な生糸を生産するため官営製糸場の設立を決めます。惇忠はこの当時、民部省で養蚕を勧める役職に就いていましたが、渋沢栄一の推挙を受け、富岡製糸場の設立に奔走し、初代の場長となります。

 惇忠は富岡製糸場の開業に向け、伝習工女を全国から募ります。しかし、当時は外国人に対する忌避感情や、工場のフランス人指導者が若い娘の生き血を飲むといううわさがあり、希望者は現れませんでした。そこで、当時まだ14歳のゆうは、悪いうわさを払拭しようとする父の意をくみ取り、また、新しい技術を身につけることに希望と誇りを抱いて富岡に赴きました。若いゆうの勇気ある行動は近隣に伝わり、感銘を受けた女性たちは連れ立って工女に志願し始めます。こうして製糸場は、必要な工女を集め、操業にこぎつけることができました。

 集まった工女は、豪農・豪商・士族らの娘が多かったようです。彼女たちは寄宿舎に入り、日曜日は休日、夜業は禁止など労働条件に配慮され、習字・裁縫・読書の教室が開かれるなど製糸場での暮らしは、規律規範の正しい豊かなものでした。ゆうをはじめとする工女が作った生糸は、明治6(1873)年にオーストリアのウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞しました。

 富岡製糸場で学んだ工女たちはその後、全国各地に製糸技術を伝え、良質な生糸の生産を支えます。日本の生糸は世界から高い評価を得て、主要な輸出品として大きな役割を果たしました。ゆうの決断が女性たちを後押しし、日本の近代産業の発展に大きな貢献をしました。(『広報ふかや2016年11月号』より引用)

尾高ゆう

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