河田菜風(かわたさいふう)

更新日:2017年2月22日

生没年

1821(文政4)年―1880(明治13)年

解説

 文政4(1821)年11月13日、榛沢郡中瀬村(現在の深谷市中瀬)、河田十郎右衛門(かわたじゅうろうえもん)の長男として生まれる。諱を嘉豊(よしとよ)、字を公実(こうじつ)、通称を半内(はんない)、号を菜風と称した。菜風の由来は、生地の中瀬と、おいしい食菜の産地と、名物の赤城颪が吹く土地柄とを巧みに織り交ぜた雅号で、郷里の地名や風土に因んだものとされている。

 幼少の頃からその才能は周囲の子らに比して優れており、また、学を好み、中瀬の天台宗吉祥寺の観海(かんかい)和尚に就いて和漢の学を修めた。吉祥寺は上州(群馬県)世良田長楽寺の末寺で、観海は二十五世であった。人格・識見共に備えた名僧で、上州・武州に多数の門弟があった。これらの門人中、菜風は観海が最もその将来に期待をかけていた高弟であった。青年の頃の菜風は、筑前(福岡県)の宗像蘆屋(むなかたろおく)や越中(富山県)の殿丘神通(とのおかじんつう)らが諸国漫遊の途中に立ち寄ったので、一時これら遊歴の学者に就いて詩文・書画を学修した。

 天保9(1838)年、自邸を教場として塾を開き、近隣の子弟に教授を始めた。この時、菜風は18歳であった。10年後の嘉永2(1849)年、28歳の菜風は塾名を正式に「宣興塾(せんこうじゅく)」と名付け、盛大な命名披露の雅会を催した。当日は福田半香(ふくだはんこう)、中沢雪城(なかざわせつじょう)、桃井可堂(もものいかどう)、代五渡(だいごと)、市川市月(いちかわしげつ)、伊丹渓斎(いたみけいさい)、渋沢誠室(しぶさわせいしつ)、斉藤南々(さいとうなんなん)、金井烏洲(かないうじゅう)ら地元の著名な文人墨客が出席し、席上それぞれ揮毫して当日の記念とした。この後、寺門静軒(てらかどせいけん)も菜風を訪れている。

 明治5(1872)年、学制が発布され、翌6年2月に中瀬小学校が開設された。菜風はこれを契機に35年に及ぶ「宣興塾」を閉じ、村の教育顧問となって後進の育成に協力した。菜風の薫陶を受けた門弟五百数十名には、地元・成塚の書家、正田晴圃(しょうだせいほ)をはじめ県会議員、町長、小学校長として名を成し、地方の枢機に参画した人々が多数輩出した。明治13(1880)年1月3日歿。享年60。後に、多数の門人知友によって「河田菜風翁碑」が菜風ゆかりの地に建立された。

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