藤田貞資(ふじたさだすけ)

更新日:2017年2月22日

生没年

1734(享保19)年―1807(文化4)年

解説

 享保19(1734)年9月16日、武蔵国男衾郡本田村(現深谷市本田)の郷士、本田親天(ほんだちかひろ)の三男として生まれる。通称を彦太夫(ひこだゆう)、のちに権平(ごんぺい)、字を子証(ししょう)、号を雄山(ゆうざん)と称した。「さだすけ」の宛字「貞資」は晩年のものであり、それまでは「定資」と名乗っている。

 生家の本田家は、酒造りや質屋も兼業する裕福な家で、親天自身は村名主職や代官職を務めている。宝暦6(1756)年、大和新庄藩永井家の家臣、藤田定之(ふじたさだゆき)の養子となり、「藤田」姓を名乗る。藤田家は江戸詰めであったことから江戸へ向かう。関流算学を山路主住(やまじぬしずみ)、天文・暦学を安倍泰邦(あべのやすくに)に学ぶ。山路は従来の関流算学を大成し、免許制度を導入するなど、後の関流算学隆盛の礎を築いた人物であり、安倍は陰陽師土御門家の出身で、伝統的な天文・暦学を継承する人物である。両人とも、幕府の改暦政策を担った当時一流の算学者であり、天文学者であった。

 明和元(1764)年、算学の師、山路主住が幕府天文方を拝命すると、貞資は山路の助手として天文方へ出仕する。この間も算学の勉強を堅実に進め、明和3(1766)年には、山路より関流算法の印可状(免許)を授けられるまでになる。しかし、この頃眼病を患い、観測作業が困難となったため、明和4(1767)年、やむなく天文方の職を辞した。

 翌年、時の筑後国久留米藩主、有馬頼徸(ありまよりゆき)に算学師範として召抱えられる。頼徸は自らも優れた関流算学者であり、山路主住を師とする点では貞資の同門でもあった。

 その後、有馬氏の庇護のもとで家塾を開き、多くの数学者を輩出した。天明元(1781)年に刊行した『精要算法』は、それまで乱立していた雑多で難解一方になる設問を整理し、実用性や数学的価値の高いものを精選することで、極めて良質の教科書としてその後の算学教育をけん引するものとなった。また、その当時流行していた「奉納算額」に着目し、「算額」に掲示された問題を精選して編んだ『神壁算法』、『続神壁算法』は世における算学の評判をさらに上げるものとなった。

 最上流の算学者、会田安明(あいだやすあき)との間に行われた20年間に及ぶ算学論争は、流派論争の域を超え、算学を志す者にも大きな影響を与えることとなった。文化4(1807)年、病のため藩職を退き、同年歿した。享年74。

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