岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)

更新日:2023年03月27日

生没年

生没年不詳(一説には没年1197年)

解説

平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士。

岡部氏は、武蔵七党のひとつ猪俣党に属し、祖父の猪俣六太夫忠綱が岡部に居住して岡部を称したことにはじまる。

忠澄は、源義朝の家臣として保元・平治の乱で活躍。

義朝の子・源頼朝が伊豆で挙兵した際に参陣し、以降の平家との争いのなか元暦元年(1184)、一の谷の合戦で平家の名将・平忠度(たいらのただのり)を討ち取ったことで一躍有名となった。

忠澄は、歌人としても優れていた平忠度の菩提を弔うため、領地内で見晴らしの良い地にその供養塔を建立したといわれ、深谷市萱場の清心寺の一角に鎌倉期の五輪塔と板碑が残されている。

建久元年(1190)と建久6年(1195)の源頼朝の上洛に際しては、隋兵として従った。

忠澄が創建したといわれる普済寺によれば、忠澄は建久8年(1197)に没したと伝わる。同寺の北西には岡部一族の墓と伝わる五輪塔6基が建っており、特に大きな3基のうち中央が六弥太墓といわれる。

なお、六弥太の妻・玉ノ井は、畠山重忠の妹と伝えられている。

  埼玉県指定史跡「岡部六弥太忠澄墓」について

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