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平安・鎌倉・南北朝

更新日:2014年4月17日

平安時代末期~鎌倉時代

~深谷の地方豪族~

平安時代末期以降には、畠山氏、岡部氏、榛澤氏、人見氏などの武士団が登場します。
畠山重忠は、鎌倉幕府の成立に多くの貢献を果たしたことで有名で、智仁勇に秀でた、武蔵武士の鑑とうたわれる有力御家人でした。また、源平合戦の際には、榛澤六郎成清、岡部六弥太忠澄、本田次郎親常などともに活躍したことが記されています。また、新開荒次郎実重は、頼朝挙兵時から付き従ったことが知られています。
中世の城館跡は市内各地に30ヵ所あります。鎌倉時代のものは、畠山館跡、伝岡部六弥太館跡などです。人見館跡は、「太平記」にも登場する人見四郎光行の居館跡と考えられています。

畠山重忠墓

人見館跡(人見)

南北朝時代~江戸時代初期

~深谷上杉氏と深谷城~

14世紀後半、関東管領山内上杉憲顕は、北関東の新田氏の勢力や平一揆などを抑えるため、六男の憲英(のりふさ)を深谷に派遣しました。これが深谷上杉氏の始まりです。当初は、庁鼻和(こばなわ、現在の国済寺周辺)に住んだため、庁鼻和上杉氏とも呼ばれます。

上杉憲英墓(国済寺)

管領方の有力武将であった五代目の上杉房憲(ふさのり)の時、古河公方と関東管領との抗争が激しくなり、要害の深谷城(現在の城址公園から深谷小学校周辺)を築きました。1456年のことと考えられます。

深谷城障子掘(第10次調査)

その後、主家の山内上杉氏が没落した後、深谷上杉氏は、北条氏、上杉氏、武田氏の抗争に巻き込まれ、主家を度々変えながら存続を図ります。1573年には、完全に北条氏の傘下に入り、寄居町にある鉢形城の支城として北条氏の領国経営の中に組み込まれていきます。
このころ、市内各地には城館跡や寺院が多く残され、戦乱の時代を生き抜いてきていたことが分かっています。深谷城は、低湿地に築かれ、深い堀と土塁によって守られていました。堀の一部は、障子堀(堀底に障壁などを設けた堀)という特殊な構造であったことが、発掘調査で明らかになっています。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条方であった深谷城は開城し、その後、徳川家康の子や家臣が城主となりましたが、1626年に廃城となりました。現在は、富士浅間神社(智形神社)などの周辺に堀や土塁のこん跡を留めるのみとなっています。

富士浅間神社(智形神社)と深谷城外濠跡

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