北川千代

更新日:2016年8月9日

北川千代(1894-1965)

北川千代の写真

北川千代は、大正から昭和期を代表する児童文学作家です。明治27年(1894)に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)の日本煉瓦工場内の社宅で生まれました。
父の北川俊は日本煉瓦工場の初代工場長で、千代は工場に暮らし大寄小学校へ通うなど、深谷で少女時代を過ごしました。
その後、東京の私立三輪田高等女学校へ入学し、このころから「少女世界」などに投稿するようになり、文学活動を始めます。
大正4年に、周囲の反対を押し切って江口渙と結婚しますが、考え方の不一致などから離婚しました。この間、社会主義婦人団体の「赤瀾会(せきらんかい)」に参加するなど、女性の自立を求めて活動を始めます。
やがて、労働運動家の高野松太郎と結ばれ、娼妓解放支援などの社会運動に参加する中で、社会的矛盾を直視した作品を数多く発表します。
晩年は千葉県の蓮沼村に邸宅を購入し、夫亡き後はこの地に永住を決意しました。
昭和40年に71歳の生涯を終えます。葬儀は、市川房枝が葬儀委員長となり告別式が催されました。
また、その業績を記念して、昭和44年に日本児童文学者協会により「北川千代賞」が創設されました。
煉瓦工場や小山川の土手などを舞台とした「雪の日」「らっきょう」「汽車の婆の話」には、自叙伝としての深谷の思い出が描かれています。

「汽車の婆の話」

(抜粋)
「きしゃご」という貝のおはじきをごぞんじでしょうか。(略)それをわたしは小さいとき、汽車の中に落ちているから「きしゃご」というのだと思っていました。
お父さんが工場長をしていたれんが工場の、貨物列車のそうじをする女人夫が、石炭をとり去ったあとに落ちているのだといって、七つのわたしに、このおはじきを持ってきてくれたからです。わたしはこのばあやのことを「汽車のばあ」とよんでいました。(略)

「汽車の婆の話」は、父が工場長を努める煉瓦工場の貨物列車の掃除を担当する女性労働者の姿を、素直な子供の視点を通して描いた北川千代の自叙伝的な作品です

「愛蔵版 県別ふるさと童話館11 埼玉の童話」 リブリオ出版
編集 社団法人日本児童文学者協会『県別ふるさと童話館』編集委員会から

千代の作品

千代は、甘く感傷的で、お涙ちょうだいの少女文学ではなく、少女に本当に読ませたい小説、つまり子供のうちからしっかりと現実を把握できるようになれる作品を作りたいと思っていました。
千代は少女小説について次のように語っています。

「少女小説とは、少女のための小説-少女に読ますべき小説であります。たとえ少女を取り扱っていても、読むものの対照が大人であったら、純粋の少女小説とは云われないと思います。現在の日本では、少女小説といえば甘い安価な感傷と涙としかもたないものの謂として、多少の軽侮をもって扱われていますが、しかし少女小説の本来は、決してそのようなあなどりを受くべきものではなく、少女小説という言葉を、かくも安っぽく甘いものに思わせるようになったのは、実に日本の今までの少女小説作家の罪であると思っています。
(略)自分の仕事に尊敬と愛情とを持たないところに、好い作品の生まれる筈がありません。少女小説を書くべき人は、まずその仕事に対して、この二つを持つべきです。事実、その作品が、一番心の動揺し易い、一番多感な時代の人たちの心に吸収されて、やがては、その心の土台によって、次の社会が、建設されるのであることを自覚したら、自分の仕事が、どのように高く、どのように重いものであるかを、気がつく筈でありましょう。」
(引用:『日本現代文学文章講座-技術編-』北川千代 昭和9年 厚生閣発行)

千代は、自分の書いた作品が一番心の動揺しやすい、多感な世代の人たちの心に吸収され、やがては、その心が次の社会を築く土台となることを自覚して仕事をしていたことが分かります。千代作品に、ヒューマニズム溢れる内容のものが多いのはこのためでしょうか。千代は自分の仕事に対して、尊敬と愛情を持っていたといえます。

深谷と千代

千代は大寄村の日本煉瓦工場の社宅に生まれ、工場長の娘として物質的にも恵まれた子供時代を過ごしました。大寄小学校に通い、工場の職工の子弟の多くと一緒であったためその中で「小さき女王」のごとくであったといいます。
しかし、千代の作品の多くには、子供の目から見た社会構造の不平等が描き出されています。千代の貧しい者への視点は、幼いころに深谷や煉瓦工場で出会ったさまざまな人々との出会いの体験からといわれています。千代作品には深谷が題材になっている作品が多数見られます。
例えば『汽車の婆の話』『雪の日』『らっきょう』『巣立ちの歌』には、煉瓦工場や貨物用引き込み線、そして、小山川など、深谷が題材となった懐かしい田舎の思い出が多数見られます。

千代作品を味わう場所案内

深谷市立図書館

北川千代の作品集「日本児童文学大系 22巻」(ほるぷ出版)
住所:深谷市仲町19番3号
電話:048-571-8210
開館時間:午前9時~
休館日:月曜日、国民の祝日・休日(この日が月曜のときはその翌日)、月末(この日が日・月曜のときは翌火曜日)、年末年始(12月29日~1月3日)、特別整理期間(年2回事前に広報します)

埼玉県立さいたま文学館
埼玉ゆかりの文学者の紹介を最新の映像と音響と取り入れた展示構成で体験的に学べるようになっている文学館。
北川千代作品は常設展示として観覧することができ、さらに図書室では、北川千代作品を手に取って読むことができます。
住所:桶川市若宮1-5-9(JR高崎線桶川駅西口より徒歩5分)
電話:048-789-1515
開館時間:午前10時~午後5時30分
休館日:毎週月曜日、年末年始、館内整理日(毎月第4火曜日、ただし祝日の場合を除く)
展示観覧料:一般=210円 学生・生徒=100円(中学生以下、65歳以上、障害者は無料)

日本煉瓦史料館
北川千代が生まれ育った場所であり、千代の父が工場長をしていた煉瓦工場の敷地内にある洋風木造建築の史料館です。
千代が過ごした時代を彷佛させる「ホフマン輪窯」(国指定重要文化財)や当時の工場のジオラマが見られたり、煉瓦の製造過程が学べます。
詳しい事は深谷市教育委員会文化振興課へ連絡して下さい。
電話:048-572-9581
ファクス:048-574-5861

父・北川俊と日本煉瓦工場

千代の父である北川俊(1851・嘉永4年生~1917・大正6年没)は明治20年から日本煉瓦工場の工場長を努めます。
俊は、外国語が堪能な建築用煉瓦製造の研究者として有能な人物であり、病気で工場を退いてからも、亡くなるまで会社に顧問として籍を置いていました。
日本煉瓦工場は、明治の近代化において、東京駅や法務省などの主要建築物を造る際に、大量の煉瓦が必要になるため、渋沢栄一が設立した会社でした。
大量の煉瓦を運ぶため、民間では日本最初の貨物用鉄道(引き込み線)を深谷駅と工場間に敷き、その遺構は現在も遊歩道「あかね通り」に見られます。

結婚生活について

江口渙と結婚。渙は帝国大生で、夏目漱石と交流をもつ新進気鋭で、後にプロレタリア文学作家となりました。千代も作家として活躍中でした。
しかし、離婚。性格の不一致を理由として千代が離縁状を渡す形での離婚であり、新聞は有名人夫婦の離婚劇として取り沙汰したといいます。千代は江口夫人としてではなく、自立した一個人の北川千代として社会に認められることを望みましたが叶わなかったこと、また、渙から性病をうつされ治療を強いられた夫婦生活に幻滅、下層階級の解放に最も活動すべき夫のそのような行動に妻として、女性として苦痛に感じたのです。
千代はその後、高野松太郎と同棲し、結婚。高野は足尾銅山のストライキにかかわった労働運動家。特別高等警察(特高)ににらまれ身を隠すことが多く、生活は貧しかったが、2人はいつもお互いを思いやる生活を大切にし、生涯温かい家庭を築きました。

社会運動に参加する

1921年(大正10年)、日本初の社会主義婦人団体の赤瀾会(せきらんかい)が誕生。
この前年には、治安維持法が婦人の政治結社への加入や政談演説の傍聴を禁止するなど、特別の抑圧を差別的に加えたのに対し、平塚らいてう、市川房枝らによる新婦人協会が結成されていました。
千代は赤瀾会で会計を担当しており、第2回メーデーでは赤瀾会の女性20名が旗を掲げて飛び込み、デモ隊に気勢、千代も仲間とともに検束されました。この様子はジャーナリズムに取り上げられ当時の語り草であったといいます。良妻賢母教育が徹底し、女は家庭にいて夫と子どものためだけに奉仕することに疑いを持つ人がいない時代に、女だてらにメーデーに参加することは、社会や女性に大きな波紋を及ぼすことだったのです。
参考:『覚めよ女たち-赤瀾会の人びと』江刺昭子 1980年 大月書店発行

市川房枝

1893(明治26)年~1981(昭和56)年
大正・昭和期の婦人運動家、政治家。愛知県生まれ。
婦人参政権運動を推進し、昭和20年新日本婦人同盟(日本婦人有権者同盟)を結成し公職追放解除後25年会長に就任する。理想選挙を掲げ、28年に参議院議員となる。

文壇の会合のようす

児童文学雑誌「コドモノクニ」発行者の和田古江を囲む会では、中山晋平・竹久夢二・北原白秋など、当時の児童文学界の主要メンバーが揃う会合に北川千代も名を連ねていました。
画家の竹久夢二の人気は高く、夢二の挿し絵の入った文学作品は当時の人気作品といえるバロメーターでした。北川千代作品にも夢二の挿し絵による作品が見られ、これによりこの当時の千代作品の人気度が高かったことが分かります。

竹久夢二

1884(明治17)年~1934(昭和9)年
明治・大正期の画家、詩人。岡山県生まれ。
新聞や雑誌の挿し絵から始め、デザイナーとしても先駆的業績を残し、夢二式を謳われる独特の美人画と叙情詩文で一世を風靡した。

職業人として

晩年、入院した際、千代は見舞いの者に対して「まだ仕事をするよ。だから、右腕に注射はしないんだよ」と語り、生涯ペンを持って作品を書き続ける意志を持っていたといいます。
少女時代から児童文学の世界に身を投じ、作品に対しては常にヒューマニズム溢れる視点を持ち、ペンによって社会の不平等を世に問う姿勢を貫いてきました。また、戦争中に多くの児童文学作家が戦争協力の読み物を書いていた時代に、千代は決して子どもたちを戦争に駆り立てるようなものを書くことはなかったといいます。つねに職業人として前進していた女性でした。

お問い合わせ先

人権政策課
〒366-8501
埼玉県深谷市仲町11-1
電話:048-574-6643
ファクス:048-501-5222
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