笹井万太郎(ささいまんたろう)

更新日:2023年03月27日

生没年

1823(文政6)年頃―1892(明治25)年

解説

笹井万太郎は、文政6(1823)年頃、武州高島村(現在の深谷市高島)に生まれました。名は敏捷(としかつ)、万太郎は通称で、石洲(せきしゅう)と号しました。家は、代々農業を営み、名主を務める家でした。 万太郎は、若い頃から学問を好み、儒教の教えと歴史に通じていました。常々、「国益のことを考えない者は優れた人物ではない」と語り、江戸時代の末期、奮い立つように郷里を離れ、江戸へ出ました。 当時の日本にはアメリカの黒船が来航し、幕府は開国を求められていました。安政5(1858)年の日米修好通商条約で、「神奈川」を開港することが定められましたが、幕府は、東海道に直結していた「神奈川湊」を避け、対岸の横浜村を開港地と決定します。翌年には、横浜港が開港されましたが、漁村だった横浜に国際港を整備することがいかに大事業であったかは容易に想像できます。万太郎は、この横浜港の建設に関わり、波止場の造成工事を16,080両(現在の34~35億円)で請け負いました。 波止場と運上所(うんじょうしょ)は、港の心臓部といえる施設で、東西2本の波止場が運上所の正面に築かれ、それぞれ長さ110m、幅18m、高さ1.5mの石垣組だったと伝えられています。この波止場は、横浜港の発展とともに「象の鼻」と呼ばれる曲線形の防波堤に姿を変え、今日の大桟橋埠頭の基部となっています。幕府は、波止場の完成を賞して、万太郎に港の近くの土地を与えました。 万太郎が、どのような経緯や思いでこの工事を請け負ったかは明らかになっていませんが、開国への熱い思いを持っていたことや、晩年、私利を捨て公益を選ぶこと、富ある者は社会に対する責任を心得るべきことを述べており、そのような考えに基づいたことが想像されます。 開港した横浜港は、主力輸出品であった生糸の中心的貿易港となり、時代が進むと京浜工業地帯の国際貿易港として拡大し、日本の発展と近代化に寄与します。また横浜は、鎖国から転換した日本の国際化を象徴する街として発展していきました。 万太郎は、明治維新後、深谷に戻りましたが、横浜港を築港した知識や経験を買われ、広く地元も管轄する岩鼻県(現在の群馬県から埼玉県の一部)の堤防取締役を務めたほか蚕種業組合の頭取を歴任し、明治25(1892)年、70歳で亡くなりました。(『広報ふかや2016年6月号』より引用)

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