城内ガイド(2023年5月~)

更新日:2023年05月22日

ふかや緑の王国では四季様々の草花や樹木が見られます。一番数が多く見ばえがするのは何といっても春ですが、その他の季節も人知れず咲いている植物はあります。日常の小さなスキマのような時間を、このページ上で充たしてはいかかでしょうか。文章は、その時書きたいことを書いています。

俳句という器(2023年5月21日)

デルフィニウム

デルフィニウム フローラガーデン

人間が他人に対して持つ評価には、必ずそこからこぼれ落ちるものがある。「あの人は○○な人だ」という評価は、誰しもが日常関係する誰かに対して抱いているものだが、それはあくまで自分が見たその人の姿というに過ぎない。ソクラテスという人は自分で著作を残さなかったため、いまソクラテスの言動として伝わっているものは皆、弟子のプラトンが記録したものに基づくのだそうだ。そうすると、私たちは「プラトンの見たソクラテス」という観点でしかソクラテスについて知ることができないということになり、さらにプラトンが希代の大噓つきで、ソクラテスについてあることないこと書いていたのだとしたら、本当のソクラテスの姿はまったく違うものだったかもしれないということにもなる。

たぶんそういうことはなかっただろう、ということでソクラテスもプラトンも今に至るまで尊重されているわけだが、人に対する評価は難しい。大体が矛盾の塊である人間を正しく評価することなんてできはしない。絶対的な善も絶対的な悪も存在しない。立場によって善と見なされる側が善であり、逆もまた然り。それを決めるのは一種の政治であり、より強いものが「善」と言えばそれは善として大多数に受容されてしまうのだ。そこで「本当はどうなのか」を見極める能力こそが「教養」というものだが、これを身につけることはもっと難しい。

ガマズミの花

ガマズミの花 山野草ガーデン

カルミア

カルミア 花仲間ガーデン

矛盾を矛盾のままとしておけず、白黒つけようとするから争いが起きる。まあ、白黒つけなければ収まらない場面も多いが、しかしいずれ太陽がどうしようもなく膨張してそれに地球が飲み込まれてしまう日は確実にやってくるのだから、そんなに慌てることないではないか。矛盾を矛盾のままに放って置くのも一つの行き方である。あえて解決を志向しないことである。

16世紀フランスに生きたミシェルおじさんが、そういうことを言っていた。この人は自分の経験をもとに面白い話をたくさん書いた。『随想録』なんて固いタイトルで知られているが、あれは一種の茶飲み話である。ところでミシェルおじさんによれば、答えの出ない問いを答えの出ないままにしておくのも一つの勇気だという。なるほどこのおじさんの生きていた時代は、カトリックかプロテスタントかでフランス中がもめにもめ、無数の人の血が流されていたわけだから、そういう達観に行き着いたのも頷ける。唯一確実な答えを求めてじたばたする姿はいかにも積極的で生命力に充ち溢れているように見えなくもないが、いまのこの不安定な状況に安住できない弱さと脆さの表れとも言えるだろう。全く考え方が違う人たちが対立するから答えが出ないのである。ならばそのまま共存するしかあるまい。フランスは16世紀のおよそ40年間を、宗教をめぐる内乱に費やしたが、結局カトリックもプロテスタントもどちらも存在している。パレスチナだって朝鮮半島だってロシアとアメリカだって、唯一どちらが正しいのかを本気で決めようと思ったら、何人の命を犠牲にしたって足りないに違いない。

ノハナショウブ

花仲間ガーデンの池の周囲には様々な色のノハナショウブが

矛盾を矛盾のままに許容して平然としている。それは俳句の姿であると思う。俳句を読んでいくと、しばしば意味のよく取れないものに出会う。これはどういうことか、作者は何を言いたいのか。

そういう作品には、相反する要素がそのまま投げ込まれて平然としているのだ。矛盾する同士が十七文字の中からこちらを向いているのだ。しかしそれは、生きている私たち人間の姿そのものではないか。

たとえば、こういう句がある。

 

たかの知れし一生叮嚀にレース編む(山田みづえ)

 

レースを編んでいる人がいる。これは初夏の情景だ。この人は、人の一生などたかが知れていると思っているらしい。レースを編みながら、そういうことを考えている。手元の作業に集中している時、ふだんはなりを潜めている考えが、脳裡をよぎることがあって、まさにこの人はいま、そういうさなかにあるのだと見ていい。なるほど、一生などたかが知れている。何年生きるかはわからないが、その中で達成できるものの数などはかないものだ。自分が死んだ後も何かを遺したいと思ったとしても、実際そうなるかどうかなどわかりはしない。

睡蓮

スイレン 山野草ガーデン

クロバナフウロ

クロバナフウロ 花仲間ガーデン

ペレニアルガーデン

多年草や宿根草をメインに植えられている「ペレニアルガーデン」。野原の中の小道を歩くような雰囲気が楽しめる。

そう考えるならば、すべて投げやりになってしまったとしても無理はない。枕詞のように「どうせ」を連発するどうせ人間になっていくのだ。しかしこの作者は、一生がたかが知れているとしても、いま編んでいるこのレースは丁寧に仕上げたいと思っている。私が死ねば、こんなレース、ごみとして捨てられてしまうかもしれない。そう思えば一枚のレースだって無意味なものだ。しかしそう言ってしまえば、全ては「たかの知れし」ことばかりだ。だから、せめてこの無力な一枚のレースを編むこの時間だけは、誰にも譲れない一線として、心行くまで丁寧に過ごしたい。終局に虚無が待ち構えているとわかりきっているからこそ、この時間を豊穣なものとしたい。

矛盾した感情である。しかし矛盾をバネにして、一人の時間を充足させようというしたたかで且つ清々しい心意気とも言える。

バラ

バラ ローズガーデン

バラ

バラ ローズガーデン

石田波郷が俳句の師匠だった。終戦直後に若くして結婚したが、その後離婚し実家に戻る。子どもたちとはその後20年に渡って再会しなかった。父亡き後は母との二人暮らしだったらしい。レナウンに勤めながら、恐らく再婚もせず、次第に老いて崩れてゆく老母の姿を詠んだ作品も多い。

作者山田みづえとは、そういう人だった。「いつか死ぬ話を母と雛の前」の一句も、私には忘れがたい。

俳句は、人間の抱く正反対の感情を許容し、矛盾のままに生かし、無理な解決や結果を強いない世界である。それは懐の深い、独特の奥行きを持った、一つの器のように、私には見える。

スモークツリーガーデン

スモークツリー スモークツリーガーデン

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