市民がつくり 市民が守り育てる 市民の森

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場内ガイド(2021年8月~)

更新日:2021年9月21日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、ほぼ毎日、緑の王国の今を更新しています。こちらもぜひご覧ください。)

彼らの空─her baby’s sky(9月16日)

(下の写真)オオモクゲンジ スモークツリーガーデン

オオモクゲンジ

ずいぶん前のことだが、「彼らの空」と題して一連の文章を書いた。地上に存在する我々とはかけ離れた場所にあるが、見上げればいつもそこにある空に触発され生まれた表現について書いた。空は誰もが日々目にするものでありながら、それを振り仰ぐ時、人はさまざまな感慨に身を浸している。そして傍らでその姿を見守る誰かの心にも、小さなドラマが起きているのだ。時代も国籍も年齢も越えて、人が空を見る時、飛行機雲のように彼らの心をよぎるかすかな愁いを伴ったある普遍的な感情、そういうものを浮き上がらせたいと思った。これは私にとって持続するテーマとなりそうである。何かの文献で目に触れたその時だけ感銘を覚え、じき忘れてしまうものも多いのだが、今日は最近心に残った「空を見上げる表現」につき、印象が鮮やかなうちに書くことにする。

(下の写真)奥に見えるのはオミナエシ 花仲間ガーデン

オミナエシ

細見綾子の「嬰児の空」

先ごろ加須市にある「サトエ記念21世紀美術館」へ行った。平屋建ての比較的小作りな空間で、最寄りの駅からはやや歩くが、静かで落ち着いた雰囲気がいい。雨の日だったので、なおそう感じたのだろう。展示室を順にめぐり、最後の一室に入る。現代の日本人画家の絵が十枚ほど架けられており、特に気になった一枚を凝視して、さてそろそろ帰るかとその部屋を出ようとした時、そこから右手のやや奥まった空間の突き当たりでスポットライトを浴びている一枚に気づいた。床から天井へ届くほど大きな絵である。

3歳か4歳くらいの少女が、地面にしゃがみ、空を見上げている。石畳か、あるいはコンクリートのような冷たい肌触りを感じさせるその地面には、数枚の枯葉が落ちている。少女はそれまで夢中になっていた一人遊びをやめ、ふと何かに気づいたかのように宙を見つめている。ずっと曇っていた冬空から不意に降りてきた陽光に気づいて顔を上げたのかもしれない。しっかりと唇を結び、やや眩しそうな表情である。制作者は2017年に亡くなった藤井勉という画家。この人は自らの娘をモデルに精緻な人物画を描き続けたことで知られたらしい。室内には他にもこの少女や、姉妹と思われる別の少女を描いた絵も複数展示されていた。なぜこの一枚だけが特に私を立ち留まらせたのか。それは少し前に記憶した、細見綾子の次の句が連想されたからである。

 

白木槿嬰児も空を見ることあり 細見綾子

 

無論この少女は「嬰児」というほど幼くはない。またこの絵には「白木槿」どころか花の一かけらも描かれていない。嬰児とは生まれてきたばかりの子どものことだ。この藤井勉の描いた少女(彼の娘なのだろう)は、嬰児の段階より遥かに成長している。子どもを描いた絵に心惹かれることは稀だが、私はこの絵を忘れがたいものとしてしばらく眺めた。無心に鉛色の冬の空を見つめる娘の姿を見、描いた画家は、何を思っただろう。空を見る時、人は何を考えるのだろうか。自分の横にいるもっとも近しい人が無心に空を眺めている、その心のうちを推し量ることは難しい。人は永遠に一人に過ぎないと感じる瞬間でもある。この人のことはよく理解していると思っている相手でも、そういう時は他人である。まだあどけない小さな娘でさえ、今その姿を描いている父親の目には、遠い存在と写ったのではないか。最後の一色をカンヴァスに添え、絵筆を置いた藤井勉の胸には、言いようのない寂しさが萌したかもしれない。

 

(下の写真)ツルニンジン 山野草ガーデン

ツルニンジン

ステルンベルギア

ステルンベルギア 花仲間ガーデン

シモバシラの花

シモバシラ 山野草ガーデン

冬場に枯れた茎の周りに雪の塊のような結晶をつけるシモバシラ。秋に咲く花がこれです。

  • 紫苑とキンモクセイ

(上の写真) 紫苑(手前右)とキンモクセイ(左奥) 

このキンモクセイは完全に街路樹のような見た目で咲くまではキンモクセイとはなかなか気づきません。

 

細見綾子という俳人に、私は幸田文や茨木のり子に近い「精神の凛とした型」を感じる。周囲がどうあろうとも自分の見て感じたことに忠実に生き、行動し、書く姿勢が彼女たちには見られる。幸田文は本格的な「老い」を迎える前に日本各地の山岳や斜面の崩落地を、時には土木作業員に背負われながら訪ね回り、その光景から彼女が感じ取ったある種の「波」を書き綴った。没後、一群の文章は『崩れ』という一冊となって刊行され、少なからぬ衝撃を世間に与える。  

「自分の感受性くらい自分で守れ」と書いた茨木のり子は、その言葉の通り自らの信じる価値観に沿った生き方を貫いた。あるべき自分と今のそれとの乖離、揺れから目を離すことなく、柔軟で強靭な感性を育んでいった。彼女の集大成として多くの人に受容された詩は、様々な経験を重ね老齢となった今痛感することは、「できあいの思想」にも「いかなる権威」にも頼る気はなく、「よりかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」という気持ちをありのままに綴った「よりかからず」という作品であった(「よりかからず」の「より」の部分はにんべんに奇という字である。変換されなかったので平仮名で表した。一般的には「寄る」で通用すると思うが、茨木のり子としては「人」の存在が明確に組み込まれたこの字を用いたかったのだろう)。

私はこの細見綾子という人のことを未だよく知らないが、彼女にまつわる次のエピソードが好きである。それは綾子の句集『冬薔薇』に序文を寄せた中村草田男が書いているもので、のちに綾子の夫となる澤木欣一が体験した話だ。澤木はまだ綾子と結婚する前のことだが、所用で彼女を訪ねた。会話の最中、綾子はこういうことを言ったという。

「私は人生を浪費したいと思います。」

これを聞いた澤木は、「何たることを言ふ女であろう」と思ったという。しかし清々しいいい言葉である。凛とした覚悟がある。男にはなかなか言い切れない言葉である。自分の信念のためなら、世間で称賛されるような価値観など棄ててもともと、というようなことか。幸田文はともかく茨木のり子に通じる何かがこの発言にはある。独身時代の長かった綾子は、自己の周囲の四季の推移や人々の生活に「豊かなる愛情」を自ら「浪費」と自覚するほどに振り向ける生き方を歩み、そういう日々を「愉しみつづけて悔いなかった」のだろう。そして、その人生の「浪費」の集積こそが彼女の句集の誕生にもつながっているのだと草田男は言う。

 

 

(下の写真)山野草ガーデンの草にとまっていた赤とんぼ

赤とんぼ

ナンバンギセル

ナンバンギセル(白) 花仲間ガーデン

ススキの根元に寄生して育ちます。

ホトトギス

ホトトギス

細見綾子は1907年兵庫県の生まれ。同じく俳人として活動した澤木欣一は、1919年の生まれである。ちょうど一回り違いの夫婦であった。もっとも綾子は1929年、22歳で当時東大医学部助手であった青年と最初の結婚をしているが、翌年夫が他界。その後彼女は肋膜炎を発症し長い闘病生活を送る。年下の青年との出会いは彼女に何を与えたか。心の潤い、遅れてきた青春、長い孤独な半生からの脱却。しかしそれ以上に、必然的な流れとして起こり得る「母になること」への期待と覚悟は交錯する様々な思いの中の大きな部分を占めていたことだろう。

澤木との結婚は1947年のことである。「澤木欣一と結婚」と前書が付された、

 

見得るだけの鶏頭の紅うべなへり

 

という句がある。鶏頭は綾子にとって特別な花だったのか、「鶏頭を三尺離れもの思ふ」というよく知られた句もあるが、ここに掲げた句は目に写るどの鶏頭の花も差別なくその色の濃淡や美醜を肯定しようということになろうか。一人きりで営んできたこだわりを捨て、全く別の価値観を持つ赤の他人と築いてゆく新たな生活へ順応しようと努める心の動きが感じられる。時経て綾子は懐妊を知る。

 

 

(下の写真)ヒガンバナ 南門付近

昨年の10月に新しく植えた株も咲き始めました。

ヒガンバナ

  • シロバナヒガンバナ

ヒガンバナ(白花) スモークツリーガーデン

 

句集「冬薔薇」には胎児を宿した後に詠まれた句もいくつか収められているが、私は

 

母となるか枯草堤行きたりき

 

が好きである。晩秋の夕景であろうか。綾子は一人で歩いている。いや、正確には一人とは言えまい。その腹の中には新しい命がいる。全ての花が咲き終わり末枯れた草の広がる土手の堤を綾子は行く。その表情は固い。自分の身が未知の経験へ踏み出していくことへの不安、緊張の表れか。不惑の年を過ぎて、10歳以上年の離れた夫との間に子をもうけることには、世間の好奇の混ざった視線もあったことだろう。しかし、彼女にはそれを跳ね返して進んでいく勇気がある。「母となるか」と自らへ問いかけるその言葉の響きには、勇気と覚悟のほどを確かめる重さと強さがある。しかし、一人の細見綾子という女性自身の姿が先行している点で、まだ母になりきれていない段階の作品とも言えよう。 

未知の新たな生命(それは時に異物とも感じられただろうか)を自らの体内に宿すというのはどういう感覚か。男にはついぞわからない。だから例えば細見綾子のこういう句作品を通じてなぞってみようとする。季節はめぐり、春となる。お腹の中の子も順調に大きくなる。最初あったかもしれない異物感も、次第に温かみのある感情へと推移していったのだろう。この一句が生まれた。

 

木蓮の一片を身の内に持つ

 

肉厚でくっきりとした造形、かつ青空を背景に目に鮮やかな花弁を持つ木蓮。そのひとかけらを自身の内に持っている。胎児に例えているのだ。しかし花弁一枚だけではそれは未だ何ものでもない。周りの一枚、一枚とつながって花となる。母である自分、夫である澤木、そして彼らを取り巻くそれぞれの父や母を始めとする係累。そうして形作られた一つの花が、「家族」と呼ばれるのだ。ここには穏やかで安定した感情がある。母となることへの気後れと覚悟が、待ちきれないほどの期待と切望へと移った気持ちの余裕が生ませた句である。

そして1950年、綾子は男の子の母となる。名前は「太郎」。その直後に詠まれた

 

子と並び寝てゐるや杏時置き落つ

 

は、研ぎ澄まされた感覚の句である。出産という信じがたいほどの苦労を終えた後の脱力感が、五感を鋭敏に働かせるのだろうか。普段であれば、実った杏の落ちる間隔など気にも留めなかっただろうに、今日はそれがやたらと耳につく。1、2、3、ぼとん、4、5、6、7、ぼとん、と数えていたのだろうか。子はすやすやと寝ているが、綾子の眠りは浅かったのか、ほとんど起きていたのだろう。「金沢内田病院にて太郎出産」という前書がわざわざ付されているにしては、新たな生命を迎えた高揚感とは無縁の素っ気ないような句だ。とは言え、案外こういうものかもしれない。彼女の年齢と性情が、嬉しい、可愛いという率直な感動をあえて詠ませなかったとも言えよう。しかしこの少し後の場面と思われる

 

貰ひ乳子が遠くなる木槿垣

 

からは、ほんの一瞬であっても子どもから引き離される哀しみがありありと伝わってきて、母となり守らなければならない存在を手にした綾子の心の変化が見て取れる。「貰ひ乳」をしてもらわなければならない43歳の身体へのかすかな恨みもそこにはあろうか。

 

(下の写真)ナンバンギセル(赤) スモークツリーガーデン

オオモクゲンジの手前にあるススキの中でひっそりと咲いています。

ナンバンギセル赤

キツリフネ

キツリフネ 山野草ガーデン

アサマフウロ

アサマフウロ 花仲間ガーデン

  • オオモクゲンジ

(上の写真)オオモクゲンジ スモークツリーガーデン

 

太郎はじき綾子の元へ返される。母乳をたくさん飲み、充たされたのか、赤子は言葉にならない声を出して、まだそうとは認識していないだろう母親に笑いかける。表現者とは誰かの親となり、父・母と呼ばれるようになっても根はあくまで表現者である。綾子も可愛さ愛しさだけではない視点で太郎を見つめていたことだろう。この子は自分の子どもでありながら、いつか私の知らない側面を持つことになる。それは親としての宿命なのだ。そういう細見綾子の我が子であろうとも分け隔てを持たない冷静な視点が、冒頭に取り上げたあの句の基盤にあるのだろうと私には思われる。

 

白木槿嬰児も空を見ることあり

 

母にじゃれかかって、言葉以前の声を発して喜んでいた生まれたばかりの我が子。ふと、空を見た。ずっと見つめていたのだろうか。「見ることあり」とその瞬間が限定されていることから、僅かな時間であろうと思われる。しかし綾子の心にはさざなみのような微かな感情が起きたのだ。大人は、何か訳もなく、空を見たいときがある。空の青さを吸い込むように、思いきり振り仰ぎ晴れ晴れとした気持ちになりたいときがある。でもそれは、かなしいこと、上手くいかないことを積み重ねたある程度の年齢になってからのことだ。もちろん大人に限らない。子どもだって、そういう気持ちになるときはあるだろう。しかし生まれたばかりの赤ん坊が空を見るとはどういうことか。自分一人の手には負えないような複雑な感情や思いとはまだ無縁のはずなのに、赤子もこうして空を見ることがあるのだ。血のつながった自分の子どもなのに、もう計り知れないものを持っている。

そうして細見綾子は、自らの腹を痛めた、もっとも近しい存在であるはずの目の前の我が子に、いつか自分から遠く離れてゆくだろう一人の他人を感じるのである。自分の足で立ち巣立っていく未来の青年の姿を、空を見る我が子に透視しているのだ。

幼い太郎の目にした空は、どんな色をしていたのだろうか。鮮やかな青空か、濁った曇り空か。母の思いとしては、子の人生を象徴するような明るく晴れ上がった蒼天を望むことだろうが、この句からそれを読み取ることはできない。ただ、日に日に新たな花をつける白木槿が、楚々とした咲き姿を見せていたのだろう。昭和25年夏、朝鮮戦争の始まった頃のことである。

 

〈参考文献〉

『現代日本文学全集 91 現代俳句集』(筑摩書房)

『現代日本文学大系 95 現代句集』(筑摩書房)

『茨木のり子詩集』谷川俊太郎・選(岩波書店)

道草を食べるひと(下)(2021年8月7日)

(下の写真)ツリガネニンジン 山野草ガーデン

トトキの名でも知られ若葉は食べられる。

ツリガネニンジン

(承前)

私が「伊東市立木下杢太郎記念館」を訪れたとき、ちょうど企画展示として、「百花譜」の図版が並べられていた。「百花譜」は、数ある日本近代の文学者の中でも木下杢太郎ならではと思われるユニークな仕事である。これは、太平洋戦争さなかの1943年3月から、45年7月までの間に断続的に綴られた、植物のスケッチだ。描かれているのは、今も身近でごくふつうに見ることのできる野草、樹木、花であり、およそ2年4ヶ月の間に総計872枚が残された。杢太郎は折々これらの草花を摘み取り、水彩絵具で横に罫の入った用紙にスケッチし、さらにその一部を食したのだ。「百花譜」はただの植物画ではなく、傍らにはそれを描いた日の杢太郎身辺の出来事や、戦争の情勢の伝聞や空襲による被害の模様も添えられ、日記・備忘録としての役も果たしている。一連の叙述に目を通すにつれ痛感されるのは、もはや末期に差し掛かった戦争の行方の頼りなさと、世の中の暗さである。日本を取り巻く立場は日々厳しさを増し、内閣は変われども敗勢の打開につながる手立てはない。枢軸同盟を結ぶイタリアの降伏、政権に楯突いた政治家の非業の死、上野動物園における動物の殺処分、息子の動員。日々物事は移り変わり、杢太郎の周辺も安寧な日常ではない。しかしこれら「百花譜」を見て行くと、平穏とは程遠い状況の中、杢太郎にだけは特別な時間が流れていたかのようである。描かれた植物の姿は静かだ。杢太郎についてほとんど何も知らないまま伊東に来た私は、もちろん「百花譜」の存在も今回初めて知ったのだが、ガラスケースに収められた一枚、一枚を見つめるうちに気づいたのは、色彩の淡さと柔らかさが持つ平穏、それと隣り合わせの老年にさしかかった知的な男性に固有のある種の諦念、そして物も言わずに限られた期間だけ咲く小さないのちへ注がれる、尊さと敬虔の念のあらわれだった。

随筆「すかんぽ」でも認められたような、ただ感性だけに頼ることのない、科学者ならではの精緻な観察眼は「百花譜」のどの一枚からも見て取れる。花びらや葉一枚一枚の造形や、折り取られた茎の末端部分の描写に至るまで、彼の目は正確である。しかし、それだけが偏重されているばかりに、植物図鑑に載っている草花の図譜が、時としてまるでどこにも存在していない造花でも引き写しているかのような冷たく現実味のない印象を与えてしまうあの感覚は全くない。自ら書物の装丁を手がけたデザインセンスを持つ杢太郎らしく、植物がもっとも美しく映える角度・配置にも意を用いて描かれているとも感じられた。また、散文から受ける杢太郎の印象は、いかにも骨の太い男性的な人物という感じが強いのだが、花の輪郭を象る鉛筆の線は、着色したときに目障りにならないよう太さ細さに気が配られ、施された色彩も濃淡の階調がこまやかでほのかな温もりを感じさせ、時にはっきりと憂愁が漂ってさえいる。作者の繊細で襞の多い心をよく伝える仕事だと思われた。文は人なりと言うが、絵もまた人なりである。今考えると、こういうところにも、木下杢太郎特有の理科系的稟質と文科系的稟質とがよく中和されていたのだと言えよう。

キレンゲショウマ

キレンゲショウマ 山野草ガーデン

しばしば「百花譜」を前にする人は、絵筆を手にした杢太郎の姿を想像した上で、一枚一枚の作品からこの人は何かしら信仰的なもの、人智を超えたものを求めていたのではないかと感じるようだ。美術史家で杢太郎の研究でも知られた沢柳大五郎という人は、杢太郎にとっての「百花譜」とは「深夜の祈禱の如きもの」(大貫園「百花譜」)ではなかったかと言う。また木下杢太郎に強く惹かれ、彼についての評論書や『木下杢太郎随筆集』(講談社文芸文庫)の編纂もある作家・岩阪恵子は、「百花譜」をめくるたびロシア正教会の聖画である「イコンという小さな宗教画を見る時にも似た一種敬虔な気持にさせられる」と書く(「杢太郎を読む喜び」より)。

こういう感想は「百花譜」を紐解き、丁寧にそれぞれの図譜を凝視するうちに、誰しも自然に感得することだろうと思われる。昼間は東京帝国大学教授としての仕事を持っていた杢太郎が絵筆を取り得たのは、公務を終えた帰宅後の夜に限られていた。当時すでに敷かれていた灯火管制の下である。ついこの間まで海の向こうにいたはずの敵国は、すぐ近くまで迫っていた。時折鳴り響く空襲警報に中断されたこともあっただろう。家へ持ち帰って描くつもりが、いつの間にか摘んだ植物が萎れていたこともあったようだ。それにしても還暦近かった杢太郎にとって、本職以外に集中力を要される時間は肉体的にも精神的にもラクではなかっただろう。加えて「すかんぽ」に於いて読み取れたごとく、食事は質素を通り越して粗末と言ってもいいような日々である。こういう前提条件を重ね合わせていくと、「百花譜」を残した杢太郎の心理からは、何かしら理屈を超えた感覚を見出せそうである。私も、沢柳氏と岩阪氏の感想に重ねるわけではないが、「百花譜」は晩年の杢太郎にとって写経・写仏のようなものだったのではないかと感じた。いずれにせよ、もはや日常では得がたくなっていた心の平穏と集中を、大好きな身近な草花の姿を通して養おうとしていた杢太郎の姿を思い浮かべるのは難しいことではあるまい。

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ 山野草ガーデン

この花について図鑑で調べると、「雄しべや雌しべが花弁の一部になってしまうため結実できない」という意味のことが書かれている。これはどういうことなのかと思ってよく見てみると、この写真でもはっきりわかるが、しべが花弁の縁に癒着し、花弁の輪郭のように変化してしまうのだ。なぜこんなことになってしまうのか。問うだけ野暮というものだろう。

カリガネソウ

カリガネソウ 山野草ガーデン

  • ムクゲ

ムクゲ ヒーリングガーデン

 

(下の写真)キキョウ スモークツリーガーデン

 

キキョウ

「百花譜」の図像そのものを掲載することはできない。従ってここでも随筆「すかんぽ」と同じように、「百花譜」の中から緑の王国でも見ることのできる草花や木々を取り上げていくことにする。杢太郎がいかによく植物の名前を知っていたか、どれだけ身近な草花に慈しみの目を向ける人だったのかを物語ると同時に、改めて凝視することの稀なありふれた植物も、実は美しい作りを宿していることに気づくはずである。

(この「場内ガイド」のページは、本来更新されたその時点で見ごろを向かえている草花の写真を掲示する場だが、今回は通年の植物画集である木下杢太郎「百花譜」に則るため、今この時点で咲いていない・既に咲きごろは終わった草花についても掲載されていることを最初にお断りしておく。本文中、青字で示された部分は「百花譜」本文あるいはその日の木下杢太郎の日記に書かれた杢太郎本人による記述を指す。文字表記は適宜読みやすい現代的表記に改めた。

例:亦→また 食ふ→食う)

木下杢太郎「百花譜」の世界と緑の王国の自然

マンサク

昭和18(1943)年3月10日 まんさく 満作

大学池畔に始めてまんさくの花の開けるを見る。昨夜来気温甚だ低し。寒風袴を透して皮膚にせまる。

ガダルカナル島から日本軍が撤退してまもない1943年3月10日、「百花譜」はマンサクから始まった。マンサクは細く縮れた不思議な形の花を持つ。春のさきがけに咲く花で、「まんず咲く」が転じてマンサクになったと言われている。ところでこれ以降の描写を見ても時たま気づくことだが、杢太郎は植物採集を好む人でありながら、小型の鋏のようなものを携帯していなかったのだろうか。彼が描く植物は、いかにも木の途中から人力でねじ切られたかのようで、枝は二分裂して中の白い肉がのぞき、断ち切れなかった皮が尾を引くように長く伸び、既に乾燥が始まっているためか細く薄い尾の末端部分は反り返っているものさえある。ナイフのようなもので切断を図ったが上手くいかなかったのだろうか。几帳面そうに見えるこの人としては意外と雑である。一種の破調として面白がっていたのかもしれない。しかし彼の神経はこの末端の描写にまで行き通っているのだ。

レンギョウ

昭和18年4月9日 連翹(れんぎょう)

連翹すでに盛りを過ぐ。吉祥寺の墓の三隅に花樹有り、一隅にこれを欠く、この樹これを充たすにもっとも適すと思われる。

レンギョウは私が一番好きな花のひとつだ。あまり一般的に意識されないが、シナレンギョウとチョウセンレンギョウの二種がある。中国原産の前者は直進したままの枝に花が並んでつき、朝鮮半島由来の後者は花がついた枝が次第に大きく湾曲してくる性質を持つ。「百花譜」で杢太郎が描いたレンギョウは枝の形状からシナレンギョウと思われる。レンギョウの見ごろは3月だから、4月ではもう終わりだ。添えられた杢太郎の言葉の背景はよくわからないが、この「吉祥寺の墓」というのは太田家(あるいはその縁者)の菩提寺なのだろうか。たわわに咲く黄金色の花に死者の霊も安らぐだろう。果たして杢太郎の生前にこの試みは果たされたのだろうか。

ソメイヨシノ

昭和18年4月12日 染井吉野(そめいよしの)

わかかった時分桜の花は美しいと思い、そのうちでも染井吉野がもっともあわれ深いと感じた。中春の夕方の気分というものは名状しがたいものであった。今年は春が寒くて花がわるいが、今日伝研でつくづくとこれを眺めて見ても殆ど感興らしいものが涌かない。心にもまた四季が有る。(伝研=伝染病研究所)

桜を見ると何か言いたくなるのが日本人の習性だろうか。杢太郎もまた桜を眺め、それを細かくスケッチして改めて感慨の人となる。しかし今の杢太郎は桜に心動かされない。彼にとっての「春」は過ぎてしまったのだろうか。保育園から小学校低学年にかけて、私はミニカーが大好きだったのだが、確か5年生になった頃、明らかにそれへの興味が煙のように消え失せていくのを実感し、子ども心に不思議に思った。こうして人の気持ちは日々移ろい行方も知れず漂っていくのか。

トサミズキ

昭和18年4月22日 とさみづき

東亜医学会に参列の外国医師と共に箱根強羅に来り一泊す。微熱あり午食後一睡し、のち少しく林間を逍遥せり。

緑の王国の梅園周囲に梅と同じ時期に咲く黄色い花がトサミズキだ。落下傘のような下向きの花がたくさんつく。春の箱根は空気も良く、少し体調を崩した杢太郎には心地いい散策の時間だっただろう。様々な肩書きから解放されたひとりの時間は、貴重な慰安を杢太郎に与えた。彼が「百花譜」を描いたのは、そうした一人きりの時間を得るためだったから、と言う人もある。

オニタビラコ

昭和18年4月25日、昭和19(1944)年5月27日 おにたびらこ

あひるのひよこ三羽とり小屋のうちに飼われてあり、始は五羽なりしが宿知らぬ猫の為めにうしなわれたりという。鰹の臓腑を投げ与うるに、恐れてついばまず。(昭和18年4月25日)

(前略)この花午前に開き夕は萎む。今まで食い試みし数種の雑草中この葉もっともうまし(昭和19年5月27日)

700枚以上も描いたというからダブりは当然あるだろう。オニタビラコについては少なくとも2回杢太郎は描いているようだ。この草は一時期園内のあちこちに生え、終わりの頃には一斉に綿毛になっていた。大きいものは100センチ以上に育つので結構目立つ。前にも書いたとおり杢太郎はオニタビラコの葉を食べている。どういう味付けをしたのかはわからないが、「この葉もっともうまし」という感想は率直なものだろう。

ハナニラ

昭和18年4月29日 ハナニラ 花韮

天長節祝賀式おわりてのち高橋教授、市川助教とともに多磨なる土肥先生の墳えいに詣づ。午後三時家に帰り庭にこの花をつみて写生す。

土肥慶蔵は東京帝国大学皮膚学教室の教授で、杢太郎(医学者としての太田正雄)の恩師であった。天皇誕生日である天長節にあわせ、同僚と墓参をしたようだ。「えい」の字は一般的ではなかったのでひらがなにしたが、「墓」という意味がある。ハナニラも一時期花仲間ガーデンを中心によく咲いていた。白が多いが、紫、赤系統のものも見られた。学生章や校章を思わせる端整な造形の花である。亡き師への手向けの花としては、すっきりしていていい。

ワスレナグサ

昭和18年4月29日 わすれなぐさ

天長節、朝、新聞に某大佐のガダルカナアル戦闘に関する談話の筆記を読む。

ハナニラと同じ日に描かれたワスレナグサ。杢太郎は一日一枚と決めていたわけではなく、興の乗るまま二枚、三枚と描いたこともあったようで、この日は他にスズメノカタビラの写生もしている。一枚に複数の植物が描かれていることもあり、そうした様々なバリエーションも魅力のひとつである。さて、杢太郎が百花譜をスタートさせたころ日本軍が撤退を完了したガダルカナル島での戦いは、後方からの補給が行き届かなかったため2万人を超える戦死者を出す悲惨な作戦となった。この時期になると、新聞紙上でもその詳細(もちろん真実全てを公表したわけではなかっただろう)が明らかにされてくる。こういう戦争の行方に関する記述を、軍国主義に対する杢太郎の怒りの表明と受け取る人もいるようだが、それは不思議な感想である。怒りを感じているのはその記述に触発された当の本人だろう。むしろその客観的な叙述から漂ってくるのは、もはや何が起きようとも驚くことはないという杢太郎のある種の諦念である。この人は周囲がどうあろうとも、内なる自己の完成を目指す人ではなかったか。公表を前提としたとは思えない「百花譜」を描き続けた彼の姿勢は、それを何よりも物語る。写真のワスレナグサはフローラガーデンの木陰に咲いていたもの。

スズメノエンドウ

昭和18年5月8日 スズメノエンドウ 雀の豌豆

莢中種子二個ならば然り 数個ならばかすまぐさ也

カラスノエンドウは誰もが知っているが、スズメノエンドウはそうでもないかもしれない。植物界ではよく、小型のものを通称して「スズメ」(や「ヒメ」)と呼ぶようで、スズメノテッポウ、スズメノヤリもこれと同様であろう。カラスノエンドウと比べて全体的に小さく、莢に入る実が大抵二つのものがスズメノエンドウだ。因みにこの両種の中間くらいの大きさのものを、「カラス」と「スズメ」の間をとって「かす間草」と呼ぶ。さすが「道草を食べるひと」木下杢太郎は、そこもしっかりと押えている。

シャガ

昭和18年5月12日 胡蝶花 しゃが

大学池畔のしゃが漸く衰え始む。午後気温盛夏の如し。

たびたび登場する「大学池畔」とは三四郎池のことだろうか。水辺に咲く花を見るために後ろ手を組んで池に佇む杢太郎の姿が思い浮かぶ。しゃがは必ずしも湿地を好んで咲く花ではなく、緑の王国では正門付近に群生していた。学名は「Iris japonica」というが中国原産で、「胡蝶花」は漢語名だが誤称との説もある。花弁には独特な斑点があるが、杢太郎はそれも余すところなく写し取っている。

ザクロ

昭和18年6月16日 ざくろ 石榴

Punica Granatum,L.

手掌レントゲン火傷整形手術。午後四時南方科学研究会医薬部に於て徳川頼貞侯フイリツピン島に於ける文化政策に就て講演す。食後小野茂良来話。

「百花譜」には草花の学名も流暢な筆記体で記されているものが多い。これはザクロの学名。この日の記述はまさに日記のようで、大学教授として、公人として様々に活動する杢太郎の姿が垣間見える。メスを握り、客人と握手したその手が、深夜に絵筆を取っていたのだ。

クチナシ

昭和18年6月22日 くちなし 梔子

学士界館に於て谷川徹三主催懇談会。天陰気冷(二十一度)

このクチナシの図譜は珍しく背景が薄茶色に塗られているため、花はあたかも地面を這っているかに見える。葉が地面に落とす影や、少しめくれ上がった花弁の縁から花の内側に差し込む僅かな陰影も丹念に描きこまれている。そして白い花弁自体は一切着色されず、元の白紙部分がそのまま生かされているために、紙のほぼ中央に位置する花全体が輝いているように見えるのだ。何気ない描写だがよく練られている。谷川徹三は哲学者。法政大学総長を務めた。彼の息子は学校に馴染めず、家で詩のようなものばかり書いていたので、困った徹三は友人の三好達治にそれを見せたところ、達治は絶賛。こうして詩人・谷川俊太郎が誕生した。杢太郎が世を去って7年後のことである。

ムラサキエノコロ

昭和18年7月20日 むらさきえのころ(原文ではむらさきゑ乃ころ) 紫犬児

「大学構内」とのみ添え書きされたムラサキエノコロは、花穂の一本一本までが丹念に描写されている。中央に花穂が描かれ、やや右下から葉が長く伸びている。開いたコンパスを引っくり返したようだ(この写真とはちょうど鏡写しに逆向きに描かれている)。簡潔でバランスの良い描写で、私はこの一枚が殊に好きである。それにしても厳めし顔の木下杢太郎がエノコログサ片手に歩いている姿を想像すると、何だか微笑ましい。

チドメグサ

昭和18年7月23日 ちどめぐさ 血止草

この写真で白くチカチカと光っているように見えるのがチドメグサだ。傷口に貼ると止血効果があるとされこの名で呼ばれているが、それは「血止草」だけに真赤なウソなのでやめた方がいいとものの本には書いてあった(もちろんこんなしょうもないダ洒落は誰も言っていない)。朝日を浴び、魚のうろこのように輝いていてきれいだったので思わず撮ったのだが、近づいてよく見るまでチドメグサとはわからなかった。杢太郎は本郷西片町の道ばたでこれを見つけたようだ。この植物は写真に見るごとく皿を並べたように葉がびっしりと密集する印象が強いが、杢太郎は地面のある一点から四方八方に茎が伸び、その途中途中に葉をつけた姿で描いており、チドメグサと聞いて思い浮かぶイメージがきれいに覆された。それもまた「百花譜」の魅力の一つである。

サルスベリ

昭和18年8月20日 さるすべり 百日紅

薄暮逼る

二時・・・伊東につく。・・・庭見ふるしたる木々なれども、百日紅咲き始めたり。のせんはらん、おいらん草、松葉牡丹、竹を抜きて写す、(前日の日記より)

多忙の合間を縫って帰省した杢太郎。実家の庭の木は「見ふるした」ものばかりだが、赤い花を咲かせ始めた百日紅を写生した。外は薄暗くなっている。この百日紅の描写を見ると、花は微妙に濃淡の違った桃色で塗られているために、紙から浮き上がっているような立体感が出ている。緑の王国には正門入ってすぐ右手にサルスベリが数本植えられている。自宅にもある珍しくもない木なので私は何ら注目していなかったが、かつて池内紀氏が緑の王国に来園されたとき、このサルスベリも収まった写真を撮っているようなので、(池内紀『人と緑の物語』参照)今では「池内さんの見たサルスベリ」という印象が強く一人で親しみを感じている。

ツワブキ

昭和18年11月3日 つはぶき 石蕗

家兄の末女の結婚式に列する為めに出生の地に往く。夕刻山に入らんとして川奈街道を歩むに道砥(と)の如く人家絶えず。ひそかに路傍の小径に外れて辛うじて花実有る草木を見るを得たり。

秋の半ばに丸く黄色い花がたくさん咲くつわぶき。サルスベリを描いて以来の帰省だったのか。用件を果たした杢太郎は、一人になるべく山を歩く。今夜「百花譜」の一枚に加える「ネタ」探しも兼ねての散策だったかもしれない。一人で歩いているのだろうに「ひそかに」などと断りを入れているのが面白いが、分け入った小路で見つけた花の一つがこれだった。杢太郎の描いたつわぶきは、大きな葉の中から一本の茎が直立しており、見つけたとき彼が感じただろう新鮮な気持ちが漲っているような一枚で好感が持てる。茎は「きゃらぶき」として食べられるが、やはり杢太郎もこれを食べている。

ハナミズキの実

昭和18年11月4日 アメリカ山法師(ハナミズキ)

午後二時半伊東より帰り上野駅に着す。精養軒に催されたる明治前科学史編集会議に列し、中座薄暮の上野公園を横ぎり、人影なきを見てこの葉とこの実を盗む。五時半五味山本の結婚披露式に帝国ホテルに列す。帰来ポケットをさぐりしに葉と実と別々になりしをつづり合わせかくなん。

つわぶきを描いた翌日、杢太郎は帰京し、今度は上野の精養軒で会合。忙しい人だ。顔の広い杢太郎はよくいろいろな会合に出ていたようで、きっと中座の達人でもあったことだろう。この日は会議を抜けて公園内をぶらぶら歩き、ふと目に付いた赤い実と葉をポケットに収めている。アメリカ山法師はハナミズキのことだ。秋になると、写真のような赤い実をつける。忙しい人の常で、何か物事に出くわしても、その時はそれが持つ意味を深く吟味することはできない。ようやく帰宅し、花と実を取り出したとき、それはすでにポケットの中でばらばらになっていた。それでも杢太郎は形だけでも元の姿に戻し、写し取った。彼にとっては、自分が生きているということを取り戻すための、かけがえのない時間だったのだ。

ユキヤナギ

昭和19(1944)年4月3日 ゆきやなぎ(原文ではゆきやな記)雪柳

晴 春寒 

午後服部邦光氏来話 児女の採り来りしハコベの葉を夜漬物として食う。風味軽し

ユキヤナギはまさに雪のような真白な花をたくさん咲かせ、見るだけで涼やかな気分にさせる。枝が展開するように大きく育つので、白い触手をたくさん突き出す生命体のようだ。杢太郎も何本もの枝が反時計回りに弧を描くユキヤナギをスケッチしている。だがこの日の記述で面白いのは、夕飯にハコベを漬物にして食べたという部分。娘がどこかから採ってきたということは、太田家では野草食が当たり前だったのだろう。「これはいける」と思ったのだろうか、5日後の4月8日に杢太郎はコマツナを描写しているが、この日の添え書きには「育てて食わんが為」タンポポとアカザとハコベの芽を庭に植えた、と書いてある。

コブシ

昭和19年4月10日 こぶし 辛夷

伝染病研究所

春を感じさせる花のひとつがコブシだ。名の由来は赤ん坊の握りこぶしに似ているからとのこと。ハクモクレンと似ているが、コブシの方が肉薄な花である。ところで杢太郎が「百花譜」を描いた台紙は、ありふれたスケッチブックではなく、横に入った罫線で二十四行に区切られた用箋のようなもの(大学で支給されたのだろうか)だが、このややクリーム色がかった用紙が思いがけず白い花を引き立たせる。このコブシの白もクチナシの時と同じく白色は使われず台紙の白が生かされているが、純白よりも優しい色なので花は見るものを包み込むような安らぎを湛えている。鉛筆で花弁に付された陰影がさらにその効果を増す。

ユスラウメ

昭和19年6月12日 ゆすらうめ

漢字で書くと「梅桃」。春に花が咲き、初夏に実をつける。正門近くにありたくさん結実していたのでためしに食べてみたが、ほのかな甘酸っぱさがあって、喉がかゆくなった。ジャムにするといいかもしれない。「百花譜」のゆすらうめを、杢太郎は右下から左斜め上方向に向かって伸びる一本の枝として描いている。左下部分は大きく余白が生まれ、それがなぜか強い寂寥を感じさせる。この世の全てのものに別れを告げているような切なさが私の胸を締める。

ヒメジョオン

昭和19年6月14日 姫女苑(ひめじょおん)

水曜日 雨

蕾垂れざる是れなり。頃日漸く開花し来る。

ヒメジョオンとよく似た花にハルジオンがある。一番わかりやすい見分け方は、茎を折ってみること。中が空洞ならハルジオン、白い綿が詰まっていればヒメジョオンだ。私も、せっかく咲いている花を申し訳なく思いながら時々ポキポキポキポキ折っては中を確かめていたが、6月に入るまではハルジオンばかりだった。また、ハルジオンは蕾の段階では頭を垂れているが、ヒメジョオンは最初から上を向いている。「蕾垂れざる是れなり」という杢太郎のコメントはその辺を踏まえてのものと思われる。写真のヒメジョオンは白花だが、杢太郎の描いたものは桃色の花だ。

ムシトリナデシコ

昭和19年7月22日 むしとりなでしこ

大雨 寒冷

午後七時小磯新総理大臣のラヂオ放送有り。米軍二箇師団大宮島上陸の報。

この4日前の7月18日、太平洋戦争開戦以来その指導を続けてきた東條英機内閣はついに退陣した。強権統治の末、「重臣」と呼ばれた首相経験者たちに引導を渡されての退場だった。新首相は小磯国昭。またも陸軍大将である。結局この内閣はただ戦争を長引かせただけで、在任わずか9ヶ月にして総辞職する無意味かつ弱体な政府だったが、この日の国民(杢太郎もその一人)は、何かしらの局面打開を期待してその演説を聞いたことだろう。

ムシトリナデシコは花がきれいなので(私はそうは思わないが)、道ばたに自然と生えてきても引っこ抜かれることなく種となるまでそのまま咲いているのがよく見られる。「虫取り」の名の通り、茎の途中にベタベタした部分を持っている(この写真も拡大して見ると、茎の下の方、やや黄色がかった部分にクモが引っかかっているのがわかる)。

しかし捕獲した虫を自分の養分にすることはないそうで、一説によると受粉に協力せず花粉や蜜を得るだけで去ってしまう虫から他の花を守るためにこのような機能が備わっているのではないかと考えられているらしい。ボランティア精神旺盛な花である。

ナスの花

昭和19年9月3日 茄子

午後三時「花の書」の会によばれて谷口吉郎氏宅へゆく。野田宇太郎「文藝」編集を主幹することになりたるなり。皆々米菜持参。かぼちゃ棚の下にて夕めしする。(この日の日記より)

ナスもキュウリも次々と実が成るが、つまりそれだけ花もたくさん咲いているわけだ。だがそれを美しいものとして腰を据えて眺める機会はそうはあるまい。「花より団子」なのだろう。この日杢太郎はナスを描いているが、花よりも葉の描写がメインという風に見える。たっぷり水を含ませた絵筆で施された緑の濃淡の違いがとてもきれいだ。日記によればこの日建築家の谷口吉郎の家で食材を持ち寄って会食したとのことだが、ここに野田宇太郎の名が出てくるのが面白い。詩人、編集者として活動した彼がその本領として名を残すのは、戦後のこと。明治以降の文学者ゆかりの地や碑を訪ねまわる「文学散歩」の創始者としてである。杢太郎を師と慕い、その顕彰や研究にも尽力している。

ヒガンバナ

昭和19年9月21日 ひがんばな(まんじゅ志ゃげ) 彼岸花 曼珠沙華

身も心もシンプルで余計な装飾のない私は、いかにも華やかでございという感じのヒガンバナが今ひとつ好きになれないのだが(だからあえて咲き始めの写真を載せた)、この日杢太郎の描いたヒガンバナには、往年の名女優のようなたおやかさと陰りがあって、嫌ではない。この花は墓地に咲く印象が強く、必然的に「死」と結びつく縁起の悪い花と見られがちであるが、最近はその群生地が観光の名所として認知されるようになってきた。とはいえやはり私にとっても、ヒガンバナは「死」の花である。もう20年近く前、田舎の祖母の葬儀の日、家の手前に広がる池のほとりに咲いていた赤い花々が目に浮かぶ。葬列を見送るかのような10本ほどのヒガンバナだった。

ロウバイ

昭和20(1945)年2月4日 ろうばい 蝋梅

立春 日曜日

午食後縁側に日なたぼっこし、ふと瓶の花に雑じりてこの枝を発見せり。今年に入り始めて写生を試む。百機ばかりの敵機神戸を襲えりと。

戦時中の生活が常に緊迫感に満ちていたわけではなかったのかもしれない。確かに「死」はいつやってくるかわからなかっただろうが(それは平時にあっても同じことだが)、時には小春日和のようなこんな穏やかな一日もあった。

立春が休日の日曜日と重なったことは、杢太郎にとって幸福なことだっただろう。彼は一年のところどころに埋められた季節の推移を感じさせるこうした一種の里程標(二十四節気)を大切にする人であっただろうから。家人が咲く前のロウバイの枝を折って活けておいたのだろうか。  

ふと訪れた温暖な陽気に誘われて、花弁が外の世界に向かって開いた。それを見つけた主人も暫く閉じたままだった絵具箱のふたを開け、絵筆を湿らす。浄福のひとときが始まる。

これが木下杢太郎の過ごした、最後の立春となった。

サラサモクレン

昭和20年4月22日 もくれん 木蓮

自宅後庭

庭のはこべを移植して火災の時の為めの壕を作る。ヒマワリを芽ごと路次の両側に移植。・・・白花木母(うめ)、たんぽゝ、紫木蓮を写生する。・・・きょうも雑草で三度三度。(この日の日記より)

ただ単に「モクレン」という時は、紫色の花弁を持つ「シモクレン」を指す。白花は「ハクモクレン」と区別する。わかる人にはわかってしまうので、肉厚の白い花を持つハクモクレンを見て、「あ、モクレンが咲いている」などと口走らないようにしよう。ところでこの写真は「シモクレン」ではなく、「サラサモクレン(あるいはニシキモクレン)」だ。確か緑の王国にもシモクレンがあったと思ったのだが私には見つからなかったので、似た色のこの花で代用させてもらった。もっともシモクレンは花弁の表裏が紫一色だが、こちらのサラサモクレンは内側が白色である。

ついこの間豊かな立春を過ごしたばかりの杢太郎だが、空襲に備えた対策に追われている。東京はこの月も13日、14日と連日B29の襲撃を受けたようで、防空壕づくりは喫緊の仕事とはいえくたびれたことだろう。まして三食が野草食ではフラフラだ(私だったら間違いなく)。そういう過酷な状況下でも彼は植物を描き続けている。そしてその描写の確かさには少しもブレがない。明らかな生命が宿っている。これはやはり、ただごとではないのである。

ハハコグサ

昭和20年5月21日 ははこぐさ 母子草

午後伝研。食足らず、甚だ疲れる。

小花が頭頂部に密集する花は写真に撮りづらい。母子草もその一つ。黄色い花は小さなマイクを寄せ集めたようで、よく見ると面白い。4月から5月ごろにかけてよく見られるが、秋にも咲く花だ。あまり弱音を吐かない杢太郎だが、この日はよくよく疲労の蓄積を実感したのだろう。率直な感想を書きつける。野草食も自分が経験しないのであればヘルシーでちょっとオサレな感じもするが、やはり一日分のエネルギーの供給には「足らず」というのが現実であった。

マロニエ

昭和20年5月22日 マロニエ

きょうは警報ならず、のうのうし。少雨、寒冷。午前8時登院、道にマロニエの花をとり、教室にて写す。そのあと鶏の血液の図譜を模写す。午食後池畔のトチノキにさける花を遠くより見てスケッチす。(この日の日記より)

一日空襲警報のない日はゆったりと過ごせた。この日は特に講義がなかったのか、それとも講義どころではない情勢だったが出勤だけはしたのか、杢太郎は朝からマロニエのスケッチをする。中央にすっくと立ち上がった一本の茎から支流のように細い茎が無数に横に伸び、その先に赤いしべを持った白い花がついて全体が細長い円形のようになる。このような咲き方を「円錐花序」と呼ぶ。清岡卓行の『マロニエの花が言った』に教わった。

ユキノシタ

昭和20年6月19日 ゆきのした(原文では「ゆ記のした」)雪の下

柿沼、大槻両教授の奨めにより豆東の郷家に来り静養す。午後庭前のこの草を抜きて写生す。

「にわか草花学徒」の私が最初にそれと覚えた花の一つがこのユキノシタだった。家にも生えていたし、他に似た形状の花もなさそうですぐに覚えられた。これもまた面白い形の花である。花弁は五枚だが、下の二枚だけスターリンのヒゲのような八の字型に大きく育つ。杢太郎の観察眼は細かく、上の小さな三枚の花弁にはそれぞれ赤い斑点がついている。私はここまで注意して見なかったので、彼の目を信用するしかない。  

これもまた食べられる野草であり、杢太郎も食べているが、花に比べて葉は大きくてしっかりとしていそうなので、少なくとも歯ごたえはありそうだ。

キキョウソウ

昭和20年7月2日 ききょうそう

明日入院するをもて久しぶりに植物園に往く。花を採って松崎氏に誰何せらる。火を被りし樹木の焦れし幹にMohilia sitophila(モニリア シトフィラー)盛んに繁殖す。東京大震災のあとにもかくの如きこと有りしと云う。

6月12日にさつきを写生したとき、杢太郎はここ1ヶ月ほど胃痛が続いていると書いている。その後も痛くなったり回復したりを繰り返していたが、ついに7月に入り入院加療を決めたようだ。その前日に植物園を訪れたというのがとても彼らしい。何か調べたいことがあったのかもしれないが、草花がこの人にとって強いよりどころとなっていたことがよくわかる。ところでここで杢太郎が名前を挙げている「モニリア シトフィラー」だが、さすがに「にわか草花学徒」の私にはよくわからなかった。キキョウソウ(ダンダンギキョウ)は、皿のような丸い葉が段々と重なって伸びた先にキキョウに似た紫の花をつける。段々の途中にも花が咲くが、咲かなくともちゃんと結実する「閉鎖花」というユニークな特徴があるそうだ。ずっと探していたので見つけた時はちょっとした爽快感があった。杢太郎もこういう経験を何度もしたのだろう。

ヤマユリ

昭和20年7月27日  やまゆり 山百合

胃腸の痙攣疼痛なお去らず、家居臥療。安田、比留間この花を持ちて来り、のちこれを写す。運勢たどたどし。

ゆりは様々な種類があるが、これがヤマユリである。花弁に赤い斑点があることが特徴だ。見舞いに来た知人が置いていった花を杢太郎は写生する。力尽きたように、下を向いた大きな花が描かれている。それは彼自身の姿であろうか。

杢太郎にとっての「百花譜」とは何だったのだろうか。私はさきにそれを写経、あるいは写仏のようなものと言ったが、改めてそれぞれの図譜を見つめていくうち、彼は自らの少年時代から晩年を貫く、一本の糸を紡ごうとしたのではないかと思えてきた。

 もちろん、木下杢太郎という多方面にわたって足跡を残した「万能の人」を、植物への愛着という一点でのみくくることは適当ではない。それでも杢太郎は、「私は如何なる人間であったのか」という、人生の最終段階に自らに向けて発した大きな問いへのひとつの答えとして、生涯にわたる草花との親和という要素を選び、それが時を経てこのたぐいまれなる植物図譜に昇華したのだと思わずにはいられない。私は前に、植物にまつわる知識やエピソードが登場する杢太郎随筆の底には、「野草の名前を覚えた少年時代への懐旧と、それを教えてくれた大人や一緒に草をとって遊んだ仲間たちへの親愛の念」が流れていると書いたが、それは「百花譜」にもまた言えることであろう。病高じ、絵筆が取れなくなった後も、宙に指を走らせていた彼の姿を私は空想する。その時杢太郎の心には、もっとも美しく懐かしい花が咲いていたはずである。

 

胃の痛みは彼の死病であった。既に随筆「すかんぽ」を書き上げた頃から痛みは自覚されていた。ガンである。この7月27日を最後として、再び「百花譜」がかかれることはない。そして8月15日、終戦。還暦を迎えて間もない木下杢太郎が世を去るのは、10月15日のことである。「戦後」が始まって、まだ2ヶ月しか経っていなかった。

 

 

〈木下杢太郎に関する参考文献・資料〉

・杢太郎会『木下杢太郎 郷土から世界人へ』(杢太郎会刊)(大貫園「百花譜」)所収

・木下杢太郎 画 前川誠郎 編『新編 百花譜百選』(岩波書店刊)

・岩阪恵子 選『木下杢太郎随筆集』(講談社刊)(「すかんぽ」、岩阪恵子「杢太郎を読む喜び」)所収

・伊東市立木下杢太郎記念館パンフレット

・伊東市立木下杢太郎記念館 第35回特別展「日記」「すかんぽ」「百花譜」に見る杢太郎の雑草食 パンフレット

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