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場内ガイド(2021年2月~7月)

更新日:2021年7月26日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、ほぼ毎日、緑の王国の今を更新しています。こちらもぜひご覧ください。)

道草を食べるひと(上)(7月22日)

(下の写真)ワレモコウ 花仲間ガーデン

ワレモコウ

私は今でも花のことをよくわかっていない。草のことも木のことも同様。花に詳しい人はいつどうやってそれについて覚えたのか。自分が花について知っていることの僅少さを思い知るまで気に留めたこともなかった。しかし、地球には人間以外にも生物が無数に住んでいるし、草花もその一である以上、それ等について何も知らないというのはまさに無知が服を着て歩いているようでつまらないことだ。だからちょっとは覚えようと思った。それにしても花の名前は漢字のように無限である。ささいな見た目の違いが予想もしなかったカタカナ言葉に変換される。なぜそういう名づけになったのかまで知らないと今ひとつ気が済まないので、きりがない(そんな風に努力しても人と同じで特徴が稀薄なのはじき忘れてしまう)。

 緑の王国の正門に、その時期一番見ごろの草花の写真を貼り付ける掲示板を作ることとなった。掲示板そのものを作ったのは私ではないが、それをシュークリームの皮とするなら、中のクリーム作り、すなわち来園者に見てもらうべき草花を写真に撮って掲示するのはいつの間にか私の役になった。そういう事情もあって、私は今にわか草花学徒になったつもりでいる。

 

(下の写真)キレンゲショウマ 山野草ガーデン

花弁全体が開き切ることはなく、たいていはこの程度の開き具合で終わります。それはそれで趣きがあっていいかもしれません。蕾も玉のようできれいです。

キレンゲショウマ

キキョウ

キキョウ 紫 スモークツリーガーデン

キキョウ

キキョウ 斑入り スモークツリーガーデン

「道草を食う」という言葉がある。本来の目的から逸脱して余計な物事にかかずらう、という程の意味で、もともとは、「馬が路傍の草を食って進行が遅くなる」(『広辞苑』)ことから生まれた言葉らしい。舗装全盛となる前の昔の道ばたには馬が喜んで食べたくなる草がたくさん生えてきた。人間の目線から見れば、出てくる必要もないのに勝手に生えてきた草ということにもなろうが、馬の空腹を満たしてくれるその草たちの中には、薬用効果を持つ草、新芽が美味しい草といった、人間に益することの多い草も含まれていたはずだ。

 どの草がそういう性質を持っているかを知るためには、それが回り道だったとしても、「道草を食う」時間が要る。草花について詳しい人は、みんなこの時間を持っている。子どもの時、身近な大人に教えてもらったという人が多いのだろう。

しかし余って廃棄されるほど食環境の充実した現在、道草にかがみこんでその名前や種類を知ろうとする人はともかく、それを馬のように文字通り「食う」人はそうはあるまい。だが、今からほんの80年程前、日本国民の多くが道草でも食わざるをえない状況に立たされたことがあった。太平洋戦争末期のころである。

 草まで食べるしかなかった苦しい時代のことなんて、記憶に蘇ったとしても、そういう経験を持った大半の人々にとっては忍苦と苦渋の日々を振り返らせるよすがとしてしか機能しなかったことだろう。

 しかし、中には草を食べる日々を楽しんでいたように見える人もいた。或いは、日々が殺伐としていたからこそ、その時間だけでもつとめて豊かなものにしようとしていたのかもしれない。その人は詩人、劇作家、小説家、随筆家として活躍し、本業の医学者としても一流で、自らの名前を冠した業績も挙げている。木下杢太郎(きのした・もくたろう)という筆名で知られた彼は、戦時中に自分が食べた「道草」を日々スケッチし、その味までこまめに書き記した画帖を作った。彼はなぜそのようなものを遺したのか。それはどういう性格を持った記録なのか。

 

(下の写真) カライトソウ(唐糸草) 花仲間ガーデン

獣のしっぽのような穂状の花をつける。中国渡来の絹糸の美しさになぞらえてこう呼ばれる。

カライトソウ

若葉

何の若葉だかわからないがかわいかったので撮ってみた。

ポンテデリア

ポンテデリア 花仲間ガーデン池

ある晴れた一日、私は静岡県伊東市へ行った。木下杢太郎はこの街に生まれ、現在その生家は「伊東市立木下杢太郎記念館」として公開されている。その訪問が今回の旅の目的であった。

 私がこの木下杢太郎という人を意識するようになったのは、ごく最近のことである。彼はまず詩人として名高い。早くから文学に目覚め、北原白秋らと「パンの会」という詩の結社を作った杢太郎の代表作と言えば、

 

 Eau-de-vie de Dantzick(オー ド ヴィ ド ダンチック)

 黄金(こがね)浮く酒

 おお、五月、五月、小酒盞(リケエルグラス)

 わが酒鋪(バア)の彩色玻璃(ステエンドグラス)

 街に降る雨の紫

 (後略)

 『現代日本詩集 現代日本漢詩集』より(括弧の中は原文に振られた読み仮名)

 

 と続く、「金粉酒」と題されたこの詩で、ここに鏤められた潤い(酒、雨)の伴った豊かな色彩感(黄金、ステンドグラス、紫)と、小気味良く韻を踏んだリズム感(リケエルグラスとステエンドグラスの対照)は、詩に興味のない私でも惹きつけられるものがあった。つい口ずさみたくなる一種のテンポがその魅力の鍵だろう。(オー ド ヴィ ド ダンチックというのはウイスキーの銘柄の名前らしい)

 杢太郎は北原白秋と並んで「耽美派」と称される詩人であったが、文学に強い関心を持ちながらも、それで身を立てることを家族に許されず、また理知的で明晰な頭脳の所有者であった杢太郎には、白秋のようにひたすら自己の作り出す詩世界に浸る生き方は到底できなかった。「医学者としての(杢太郎の)理性は白秋のような官能享楽への惑溺を許さ」なかったのである。(『ブリタニカ国際大百科事典』)こういう彼独自の人として与えられた条件も私の感性に訴えかけるものがあった。

 

(下の写真)レンゲショウマ 山野草ガーデン

夏場に人気のある山野草。咲いている辺りは蚊がすごいのだが。

レンゲショウマ

私は何らかの点で、対照的な二極へ「引き裂かれている人」に強く惹かれる性向がある。例えば、青年時代に洗礼を受け、一時は熱心なクリスチャンになったものの、やがて離れ、成人後はキリスト教を茶化したり愚弄したりするような発言を続けながらも、無関心になりきることはできず、ついに死の床で再びクリスチャンに回帰した自分の意志を表明してあの世へ行った作家・正宗白鳥。「一冊の本は延期された自殺だ」と言いながら生きることへの嫌悪をこれでもかと言うほど書き綴るが、自分から生への訣別をはかることは最後までできず、84歳まで生きた哲学者E.M.シオラン。経営者として企業利益を追求するかたわら、詩人・小説家としても活動を続けるが、或いはその詩的感性を背景に持つ、時として他人の目には現実離れとしか思えなかった経営理念こそが、自ら築き上げたセゾングループ破綻の因となったのかもしれない実業家・堤清二(筆名は辻井喬)。

白鳥は敬神と涜神の二極を、シオランは生と死の二極を、堤(辻井)は虚業と言われがちな詩世界と、実業世界の二極を往還する人生をそれぞれ送らざるを得なかった。

木下杢太郎もまた、耽美的なものへ惹かれる享楽的、快楽志向の一面と、実証と厳密を重んじる医学者としての相反する一面とを養い続けた人であったのだろう。しかし彼も、ここで挙げた他の三人のように、その条件をあくまで生きたのである。

そしてそういう杢太郎の手がけた散文(随筆)もまた、玄人筋と言える文筆家群から評価が高い。例えばドイツ文学者富士川英郎は、「学識と思索と詩心とが渾然と融合している」(「木下杢太郎のこと」『読書好日』所収)とこれを高く評価しており、この富士川の言葉を通じて私はさらに木下杢太郎に注目したい気持ちになった。私が書き続けている文章の照準点も、できるならこういう地点に置きたいものだ、と夢想したからである。

そんな三本の矢のような、木下杢太郎についての三種の関心点を思い浮かべながら、私は東海道線を走る列車の客となった。

 

(下の写真)ヤブミョウガ 牧場ガーデンあずまや裏

ヤブミョウガはツユクサ科であり、ミョウガとは関係ありません。夏場のこの時期に白い小花を咲かせ、やがて瑠璃色のきれいな実をたくさんつけます。牧場ガーデンの裏手で群落のようになっていて案外きれいです。

ヤブミョウガ

私は熱海へは何度か行ったことがあるが、伊東は今回が初めてであった。熱海と違って街中も坂がほとんどなく、妙な観光地ズレも稀薄で、カフェが多いのも気に入った(でも腹具合と相談して一軒も入らなかった)。木下杢太郎について紹介するプレートがところどころに設置された川に沿って歩くと、いつしか港にたどり着き、目の前には久し振りに見る海が広がっていた。港には「第一あかつき」という死んだような錆びた大きな船が泊まっていて、私の前を歩いていた中年の男性が、船から伸びたはしごをスルスルと上って船中に消えた。  港の突堤には、私、少し離れたところに数人の学生、もっと遠くに犬を連れた人。海を訪れた常例として、私は浜辺の石をひとつ、拾う。薄曇の空からわずかに陽が射している。

私の泊まった宿の部屋の真下からは、ガソリンスタンドが見えた。ふだん自分とは縁のない職業の人がどう働いているのか気になって、ヒマな身空の私は折々窓際に座ってスタンドの店員の行動を見ていた。用のない時は2,3人で寄り集まって何か話している。車やタクシーやバイクが来るとすぐその方へ散っていって、客がいなくなるとまた固まって話を再開している。ああやって一日のうちに何台の車を相手にし、そして何人の人間と口を利くのだろうか、その人たちの面影を夜、寝床に入ってから思い出すことなんてあるのだろうかと何となしに思った。人間関係とまで言えるかわからない、袖触れ合う程度の縁に過ぎなかろうが、それでも働いている以上は他人と関係を持つことの不可避なのは何の職業でも同じことだと改めて感じられた。

伊東駅の改札を出て次第に下り坂となっていく目の前の道を直進する。いくつ目かの交差点を左に折れ、少し進むと、左手に見えてくる酒蔵のような建物が木下杢太郎記念館だ。ちなみに、この道をさらに突き進むと海岸へと至る。オレンジビーチと名付けられているらしいその海岸には、ずんぐりと大きく菱形のような形をした石碑が据えつけられていて、そこには杢太郎の詩、「海の入日」が刻されている。

 

浜の真砂に文かけば

また波が来て消しゆきぬ

あはれはるばる我がおもひ

遠き岬に入日する。

 

日の移ろいに変わりゆく空と海を見守り続ける碑の佇まいに、私はその時々の様々な思いを抱いて飽かず海を見つめていただろう若き杢太郎の姿を自ずと重ねた。

木下杢太郎は1885年8月1日、伊東で商家を営む太田家の3男4女の末子として生まれた。本名は正雄。父は彼が3歳の時亡くなったため、杢太郎は長姉とその夫に育てられ、この二人を母・父と呼び習わすようになる。長兄の賢治郎は家業を継ぎ、のち伊東市長となった。次兄の円三は土木技師となり、関東大震災後設置された帝都復興院で橋梁建設の責任者として活躍する。姉たちもこの時代の女性でありながら向学心の強い個性ある人たちで、うち二人は東京の女学校で学び、共に植村正久の洗礼を受けてクリスチャンになっている。三番目の姉は樋口一葉の学友だったそうで、「木下杢太郎記念館」には、彼女と一葉のツーショット写真が展示されていた。その写真の一葉は結髪ではなく、肩まで髪を下ろした姿で写っているが、こういう姿の一葉の写真はこれ一枚しか残っていないそうだ。太田家は、一族の中から輪郭のくっきりとした人生を送り、また信念を持って進んだそれぞれの分野で存在感を放った人物を多く生み出した「優秀家系」と言っていいだろう。杢太郎もそんな家の血を感じさせる人生航路を送ることとなる。ただし彼の場合は、文学と医学という二つの道が行く手に開いており、そのどちらを進むべきか、真面目な彼は煩悶に陥った。前者の道は家族に反対されている。

そんな杢太郎にとって指標となった人物がいた。森鴎外だ。彼もまた軍医として陸軍に奉職するかたわら、当時第一級の文学者として執筆を続けていた。境遇の近い杢太郎は、この二回り近く年長の先輩をしばしば訪れては、自分の進路について相談したという。鴎外は杢太郎に、医学を主として進むことを促し、最終的に杢太郎を皮膚学の世界へと導くこととなる。

こうして杢太郎は皮膚学を専攻する学徒となり、この分野で大きな業績を挙げる医学者となる。額から目の周辺、頬に渡って生じるあざのことを「太田母斑」と呼ぶそうだが、これは彼の名にちなんでいる。医学者として立った杢太郎は満州の「南満医学堂」から名古屋、仙台の東北帝国大学を経て東京帝国大学に着任する。皮膚学者として活動しながら、既に詩人・戯曲家としても名を成していた杢太郎には随筆の依頼も多かったようだ。そして研究の余暇を縫って執筆されたと思われるこれら杢太郎の散文からしばしば垣間見えるのは、庭に生える野草を眺める彼の姿である。

 

(下の写真) ヤマユリ 花仲間ガーデン

ユリは様々な種類があるが、ヤマユリは花弁に赤紫がかった斑点が浮かぶのが特徴。たいていのユリはそうだが、これも花期は長くなく、この写真を撮って数日後には散ってしまった。

なお、本稿「道草を食べるひと(下)」で触れることとなるが、ヤマユリは木下杢太郎の最晩年に少なからぬ意味を持つ花である。

ヤマユリ

港町に生まれ育った彼にとって、懐かしいのは陸のものより海のものではなかったかと思われるが、杢太郎は野草にことのほか興味を抱く人であったらしい。実際読んでみるとその散文は、「詩心」よりも、「学識」を基礎に置いた「思索」の優ったものという印象が強く、誰もが親しんで読めるという気はしないが、筆者の風貌は十分にうかがえるものである。研究室の裏庭に勝手に生えてくる野草、自宅の庭からいつの間にか顔を出した野草へ向ける杢太郎の視線は、博物学的な好奇心と探究心とに満ちており、その底に流れるのはそうした野草の名前を覚えた少年時代への懐旧と、それを教えてくれた大人や一緒に草をとって遊んだ仲間たちへの親愛の念と言えよう。

杢太郎の「野草随筆」の中で、こうした特質をもっともよく読み取れるのは「すかんぽ」という一編だ。

すかんぽ、とはスイバ(酸い葉)のことである(イタドリ=虎杖もこの名で呼ばれる)。これは今でも身近でよく見られる草であり、緑の王国にも生えていた。杢太郎がスイバの存在を強く印象づけられたのは伊東で育った少年の日のことだ。ある日、父(これは先述のとおり義兄にあたる人である)と下男と一緒に山に登った杢太郎は、昼飯時になって自分の弁当に箸がついていないことに気づいた。父はそれを見て、近くに生えていた木を削って即席の箸をこしらえてくれた。父に感謝しながら箸を手にした杢太郎は、少し離れたところで垂直に伸びる草に目をとめる。

 

「お前、あれを知っているか」と父が言って指さした。

水の流れの一方にさわさわと其すかんぽの一群が繁茂していたのである。

それから高まる茎は太く、みずみずしく、いかにも軟らかそうである。折ったらぽかりと音を立てて挫けそうである。

(「すかんぽ」、『木下杢太郎随筆集』より)

 

父は茂みの中から一本のスイバを折り取って、山の食卓の中央に置いた。鮮やかな緑が目に瑞々しい。杢太郎によれば、土地の少年たちはスイバを折って、その口に塩をつけて食べたという。

しかしこの時は塩を持ち合わせていなかったので、味噌をつけて皆で味わったそうだ。しかしその味の感想を、杢太郎は特に書いていない。

昨年、すかんぽのような草を見た気がしたので、私は緑の王国の田んぼ(米づくり体験の時期だけ田んぼになる)へ行き、その傍らに生えていたスイバらしき植物を見つけ、本当に酸っぱい植物なのか、試しに口に含んでみた。

Mmm、、、@×※ww##!!!(注:これは誤植でも文字化けでもなくスイバを口にしたときの素直な感想)。

これはスッパイ。今この文章を書きながらあの時の口中が引き締まる感覚が蘇るようだ。天然の酸味が慣れない口の中を刺すようであった。一度口に入れるだけならまだしも、これをこのまま噛み砕いて嚥下しようという気にはちょっとなれない。そうは言ってもタデ食う虫も好き好きで、ヨーロッパではハーブの一種としてよく食べられるとか。

(と、ここまで書いてきて私の心中には未だ一抹の疑念が燻っているのだが、どうも私がスイバだと思ったのは「ギシギシ」のような気がする。この二種、植物図鑑で見ても生えたてのものは今ひとつ区別がつかない。いや、そんなことはないという人もあろうが、正直私にはよくわからない。スイバは「アカギシギシ」という異名もあるので、やはり似ているのだろう。どちらにせよ酸っぱいことは確かだった。もっとも杢太郎は後述の通りギシギシも食べている)。

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ 山野草ガーデン

知る人ぞ知る若葉が美味しい植物。雄しべも雌しべも花弁になってしまうので実がつかず、地下茎で増殖するらしい。

カンナ

カンナ スモークツリーガーデン

三橋鷹女という俳人が「カンナあの紅食ひなば命灼け死なん」という句を詠んでいる。

講義の合間の気晴らしのためか、杢太郎はよく大学(東京帝国大学)構内を散歩していたようで、そうしては、敷地内の空き地に生えた野草を観察し、時にスケッチしたり食べたりするために持ち帰っていたらしい。「すかんぽ」という文章を手がけ始めたからか、スイバを求める杢太郎はあちこち歩き回るが、残念なことにどうも見当たらない。

 

「所が農学部の裏門からはいる小径のわきの地面に其の聚落(しゅうらく)の有ることをふと見付けたのである」。

 

そこで数日後の帰りがけに何本か家に持って行き、「クロオルカルキ」(漂白剤のことだろう)に漬けた後、油と塩で食べたそうである。そして杢太郎はこう言う。

 

「その酸き味のあとに舌に触れる一種のキョウタク(キョウ、は草かんむりに郷の旧字、タクは「沢」)に邂逅して、忽然としてチュウセキ(チュウ、は躊の足へんを田に変えたもの、セキは「昔」)の情を回想したのである。」

 

一読しただけでは何を言っているのか判然としないが、これが杢太郎の散文の持ち味なので敢えてそのまま引いた(変換されない字を説明したら余計何のことやらわからなくなってしまった)。辞書を引き引き解読してみよう。「キョウタク」という言葉はそのままではわからなかったので「キョウ」だけで調べると、「穀物を煮たときのよい香気」(『新版 漢字源』)とある。これを本文に即して意訳的に読み込むと、野生の植物ならではの刺激を含んだ風味、ということにでもなろうか。「邂逅」は出会うこと。「忽然」は急に、或いはいきなり。「チュウセキ」は昔。(なら平たくそう書けばいいではないかと言いたくなる)「チュウ」だけで「さき」とも読む。

つまりは、スイバのあの独特の風味を舌に受けて、杢太郎の内部では突然過去の情景が立ち上がり、彼一人を観客とした記憶のシネマの上映が始まったのである。恐らくスイバはプルーストに於ける紅茶に浸したマドレーヌのような効果を杢太郎に与えたのだ。そうして呼び覚まされた記憶のスクリーンからは、父と慕った義兄や幼い日の郷里の人々、友たちの面影、そんな彼らの声が次々と解き放たれ、箸を手にひとり食卓にある杢太郎を取り巻いて宙を駆けめぐる。訪れた過去の波に浸り続ける杢太郎の姿は、まるで闇の濃くなりゆく室内に置かれた、一個の塑像のように見えたことだろう。

 

(下の写真)ミソハギ サステナブルガーデン

これも夏場によくみられる花。お盆の時期に仏花として生けられることは多い。そのように祭事に使われるため「ミソギハギ」、溝に生えることから「ミゾハギ」などいくつか名前の由来がある。

ミソハギ

ヤブミョウガの花

ヤブミョウガの花

ツリフネソウ

ツリフネソウ 山野草ガーデン

ところで、この随筆「すかんぽ」は、「道草を食べるひと」木下杢太郎の風貌がうかがえる点でも面白い一編だ。これが書かれたのは太平洋戦争の敗色濃い1945年6月。既に東京も何度かの大きな空襲に見舞われている。それに輪をかけた食糧事情の悪化は、何でも手に入ったはずの「帝都」の住み心地を一段と悪くした。そうした中で木下杢太郎の内には密かなる「野草熱」に火が点いたらしい。医学者として満州滞在中、杢太郎は植物採集の魅力に開眼したそうだが、日々の糧食が手に入りづらくなるにつれ、「この乏しい(植物の)知識に、時節柄、実用性を与えようと思い、食べられる野草の実験に指を染めて見た」という訳である。

この後「すかんぽ」本文には、彼が調理して食したという野草が47種列挙されるのだが、その中から私が緑の王国を歩き回って写真に収めることのできたものだけを以下に紹介してみよう。

木下杢太郎が食べた草(随筆「すかんぽ」より、一部のみ

ハコベ

ハコベ

オニタビラコ

オニタビラコ 葉を食べたと書いている。

ハルジオン

ハルジオン

タチツボスミレ

タチツボスミレ

ギボウシ

ギボウシ

ヤブカンゾウ

ヤブカンゾウ 新芽を食べたという。

ツワブキ

ツワブキ 茎を食べたという。

ユキノシタ

ユキノシタ 若葉を食べたと言っている。

オランダミミナグサ

ミミナグサ この写真のものはオランダミミナグサ。日本在来種のミミナグサは外国産のこちらに押されて青色吐息。杢太郎の食べたのが在来種だったかどうかはわからない。

スズメノエンドウ

スズメノエンドウ カラスノエンドウより小さいのでこう呼ばれる。

イタドリ

イタドリ こちらもスイバと並んで「すかんぽ」と呼ばれる。新芽を食べたそうだ。

スイバあるいはギシギシ

スイバ(もしくはギシギシ。というかたぶんギシギシ) 随筆のテーマとなった「すかんぽ」。杢太郎はギシギシも食べており、実際酸味があって食べられる野草だが、これはなぜか「すかんぽ」とは呼ばれない。

ツクシ

ツクシ

アカザ

アカザ 若葉と実を食べたとのこと。

カタバミ」

カタバミ

ヨメナ

ヨメナ 新芽を食べたそうだ。

オオバコ

オオバコ

ツリガネニンジン

トトキ(ツリガネニンジン)

ユズリハ

ユズリハ これは葉の写真だが、杢太郎は新芽を食べたと言っている。

ツユクサ

ツユクサ 若葉を食べたという。

スベリヒユ

スベリヒユ 杢太郎に限らずこれを戦時中に食べた経験のある人は多いそうだ。柳宗民によると、戦後これと同じ仲間の園芸植物が渡来した時、「ハナスベリヒユ」という名前で売り出したところ、食べるスベリヒユの印象が強く全然売れなかったという。そこで「ニューポーチュラカ」と改名したところ、ようやく流通するようになったとのことだ。今では、「ニュー」が取れて「ポーチュラカ」として夏場に花壇でよく見られる植物となった。(『柳宗民の雑草ノオト』より)現在でも山形県では野菜として扱われよく食べられるそうだ。

スミレ

スミレ

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ 莢を食べたとのこと。

この内ツリガネニンジン、ヤブカンゾウ、ギボウシ、ユキノシタは昔から可食の野草として知られており、杢太郎も美味しく堪能したようだ。また「アカザの実のつくだ煮」を杢太郎は「佳品」と言っている。ちなみに古語には「粗末な食物のたとえ」(『広辞苑』)として「あかざのあつもの」という言葉があるが、まさに彼の食生活はそれを地で行ったわけだ。杢太郎はアカザの実にシソとトウガラシの実を加えて朝食にしたらしい。またタチツボスミレを天ぷらにしたところ、「粘液質で、歯当たりが甚だ良」かったと言っている。

それにしても野草の名前をあれからこれと書き並べ、その味を正確に記そうとする杢太郎はとても楽しそうだ。自分だけのコレクションをここぞとばかりに見せびらかしたい少年の面影も見て取れる。しかし、口福への愉楽に流れることを戒めるかのように、すぐ杢太郎の理系の本能が頭をもたげる。

 

「(こういった野草には)量と質とに於て、・・・補助食物としての資格が有るか。栄養価は果たして幾何(いくばく)。いまだ検出せられざる微量の毒物を含有してはいないか。是等の問題はまだ詳しくは研究せられていず、僕としてそういう研究に入り込む余裕を持っているわけではないのである」

 

何もこんなこと生真面目に書かなくたっていいではないか、と思うが、そこは医学者の性なのだろう。こういう箇所を読むと、彼の随筆からは、ともすれば心地よい空想と感覚の世界へ惑溺しかけてしまう文人木下杢太郎を、医学者太田正雄が牽制しつつ峻厳な現実へ引き戻す光景というような独特な内面のドラマを読み取れそうに思える。それはまさに「引き裂かれている人」特有の文体であり、その内なる綱の引き合いに似た緊張感は、稀有にして鮮烈な知性の躍動の姿と私には感じられる。

※(下)に続く。

ムクゲ

ムクゲ ヒーリングガーデン

低血圧と旅(6月13日)

カンパニュラ・ラプンクロイデス(日本名:ハタザオキキョウ)花仲間ガーデン

カンパニュラにはたくさん似たような種類がありますが、これはハタザオキキョウという日本名もあるように日本でも親しまれている一つです。大正時代から見られるとのこと。

ハタザオキキョウ(カンパニュラ・ラプンクロイデス)

私はたびたびアメリカ大統領という変わった職業の人々にこだわっている(232年間で45人しか同業者のいない仕事なんて変わっているではないか)。ある学者は言う。「アメリカの大統領は王侯でも貴族でも大富豪でもない。市井の普通の人が人々に選ばれて就任する。面白いのは、そういった普通の人が一度大統領になると、世界一強大な国の権力を一手に握り、振り回し始めることだ」(日高義樹)。南北戦争の北軍司令官を経て大統領になったユリシーズ・グラントは、軍人になる前は何をやっても失敗ばかりの半生だった。父親は絶望して息子の名前をユースレス(使いものにならない)と呼び始めた。ジミー・カーターはジョージア州知事を一期務めただけでホワイトハウスに入ったが、知事になる前はピーナッツ農家だった。ジョージ・W・ブッシュ(息子)は石油会社を経営したりテキサス州知事の椅子に座ったりしていたらしいが、飲酒運転で白バイにつかまり免許を停止されるというアルコール濃度の高い過去も持っている。そして極めつけは前大統領のドナルド・トランプだ。これは改めて説明する必要もあるまい。

アカンサス

アカンサス ウエルカムガーデン

アヤメ

アヤメ サステナブルガーデン

日本の首相もそれぞれ面白いエピソードを持った人もいないわけでもないが、とてもそのキャラクターの濃さはアメリカ大統領の比ではない。横綱と前頭十二枚目くらいの差だ。国民性の違いであろうし、大体日本の場合「自分たちで選んでいる」という意識がない。その座に就いた後で国民がその人を支持できるかどうかが判断される。考えてみれば不思議な話である。

 アメリカ大統領に関する本も気がつけば10冊ほど本棚に収まっている。寝る前の所在ない時間に一冊を取り出してパラパラ読み流したりしている。そんな中でも「無愛想」ということにかけては双璧と言える二人の存在に気づいた。両者とも日本での知名度は皆無に等しい。無愛想なだけのことはある。

 一人目はベンジャミン・ハリソン。1833年生まれ、1889年56歳で大統領になり、4年間務めた。在任中の特筆すべき業績は特にない。いや、その当時としては何にもなかった訳ではなかろうが、後代にまで語り継がれるほどのことはしていない。つまりはそういう人である。

 

(下の写真)キョウガノコ 花仲間ガーデン

桜でんぶみたいな花は下から上へだんだん上がってきます。たいていの花と同じく、これもまたよく晴れた日にはとてもきれいに見える花です。

キョウガノコ

  • アジサイ

(上の写真)ハナミズキ通り対岸のアジサイ

 

このハリソン大統領は、「ホワイトハウスの氷山」という強烈なあだ名をつけられたことで名高い。「人間氷山」とも呼ばれたらしい。それだけ他人に対して寒々しい、冷え切った態度を取ることで有名だった。なるほど彼の写真を見ると、誰もが親しみを持って近づけそうな人には逆立ちしたって絶対に見えない(ちなみに大統領を最初に氷山呼ばわりしたのは当時の上院議員である)。ハリソンはアメリカ人としては身長168センチと小柄だったらしく、「チビのベン」という政治的に正しくなさそうなニックネームもつけられていた。だから貫禄をつけるためか、立派なアゴヒゲを生やしてやや胸を張ったポーズで写っているようにも見える。それがますます近づきがたい印象を与えているが、そんなことは別に構わなかったのだろう。彼は今のところ、アゴヒゲを生やした最後の大統領だという。

 「ハリソン氷山」はどれだけ冷然とした態度を他人に見せたのか。例えば次のような一コマがある。

  

  無愛想なハリソン、オハイオ州知事がホワイトハウスを訪ねてきたときに、いかにも迷惑そうな顔をして

  「処理しなくてはいけない書類がこんなにあってね。それに2時には魚釣りに行くんだ。」

   (丸山孝男『アメリカの大統領はなぜジョークを言うのか─名句・迷言・ジョーク集』より)

  

 つい笑ってしまう話だが、自分がこんな対応をされたらさぞ興醒めなことだろう。とても一国の元首が人をもてなす態度ではない。しかも相手は一応知事だ。その時大統領の机の上にあった「書類」だって、本当に全部を決裁する必要があったのかどうか。大方客を追い払う口実に使われたのだろう。そしてどう考えても仕事とは関係なさそうな「釣り」である。きっと知事は大統領のアゴヒゲをむしりとってやりたくなったに違いない。

 またハリソンに面会した別の人物は、その時の印象をこんな風に語っている。

 

「馬を繋ぎ止める柱に向かって話しているようだった。」

 (コルマック・オブライエン、平尾圭吾・訳『大統領たちの通信簿』より)

 

 馬耳東風や馬の耳に念仏なんて言葉もあるが、こちらはもはや馬ですらない。それをつないでおく「柱」である。大統領にとっては馬のフリをする価値もない相手だったということか。とはいえハリソンが自分を訪れた客にイスもすすめず、早く帰れとばかりに指で机を叩き続けていたという話もあるくらいだから、何となく誇張も感じられるが、まあ嘘ではあるまい。

 そんなハリソン大統領も、演説はとても上手かったようで、聴衆はうっとりした気持ちになったらしい。ハリソンには目の前の人間がいつもカボチャか何かにしか見えなかったのだろうから、多くの人の前でも緊張しなかったのかもしれない。

 

 

 

(下の写真)山アジサイ 藍姫

1時間くらいずっと眺めていたくなるほどきれいなアジサイ。

山アジサイ 藍姫

二人目はカルヴィン・クーリッジ。1872年生まれ。マサチューセッツ州で副知事や知事を務めたあと1921年にウォレン・ハーディング大統領率いる政権の副大統領になる。副大統領というポストは大統領にもしものことがない限りは上院議長くらいしかやることがないとされ、これは後述するようなクーリッジの性格には似つかわしい職務だったかもしれない。ところが在任中に実写版人生ゲームのようにいろいろあったハーディング大統領が、2年とちょっとで大統領職をほっぽり出してあの世へ行ってしまった。つまり「もしものこと」が起きてしまったので、ヴァーモント州の電気も電話もない実家でイビキをかいていた副大統領は朝の2時47分に叩き起こされ、公証人の父親が捧げ持つローソクの下で就任宣誓を行うハメになったのだ。1923年8月2日のことである。 

カルヴィン・クーリッジはとにかく無口なことで有名だった。あだ名はそのものずばり「サイレント・カル」である。1924年の大統領選挙では、彼の与党の共和党は「クールなクーリッジ大統領とともに」というスローガンを掲げたらしい。なるほど、無口や無愛想も「クール」と表現されると急にカッコよく感じられてくるから不思議だ。クーリッジはハリソン大統領と違ってアゴヒゲは生やしていなかったし、何せ彼の在任中はアメリカが一番繁栄していたころだから、その守護者のように見えたクールなクーリッジは国民から愛されていた。そして大統領は「国が自力で栄えているのだから政府は余計なことをしなくていい」という考えだったから、アメリカは膨らみ続ける風船のように富み栄えていった。まさしくバブル時代である。それが例の「暗黒の木曜日」ではじけるのが、クーリッジが退任して半年ちょっと後のことだから、実にタイミングのいい人だったといえよう。

 

(下の写真)ヤブレガサの花 花仲間ガーデン

傷んだ唐傘のような若葉を出していたヤブレガサも、3か月かけて少しずつ成長し、大きくなった葉からしだいに伸びてきた茎の頂点にこんなささやかな花を咲かせました。

ヤブレガサの花

クーリッジは個人的にも政策的にも「省エネ人間」だった(だから「小さな政府」を標榜したレーガン政権時代に、みんなが忘れかけていたクーリッジは再評価された)。彼は一日10時間寝ていたという話もある。よくそれで大統領が務まったと思うが、アメリカの大統領は「自分で必要と考えるだけ働けばいい」(スティーヴン・P・ウィリアムズ、和泉裕子・訳『大統領になったら アメリカ大統領究極マニュアル』)とされているので、ほとんどの国民は気にしなかった。そんなクーリッジの名前が出ると必ず引き合いに出される小話がある。いくつかバージョンがあるが、よく知られているのは、パーティーの席上、クーリッジがある婦人と隣り合わせに座ったという設定だ。

 

 婦人:クーリッジさん、私と、お話をしてね。あなたに三つのことばを話させると、友人と賭けをしたの。

クーリッジ:アナタ 負け。

(丸山孝男『アメリカの大統領はなぜジョークを言うのか─名句・迷言・ジョーク集』より)

 

全然しゃべらないクーリッジも、ユーモアのツボは押えていたらしい。だから彼の寡黙にはユーモラスな面もある。よくある話だが妻のグレース・クーリッジは華やかでおしゃべり好きだったというから、だんまり旦那のクーリッジ家の居間はいつも奥さんの声ばかりが響いていたことだろう。ただ、在任中に16歳の息子を亡くしたショックが、彼の閉鎖的な性格を倍化させたとも言われている。

クーリッジは望もうと思えば出馬できたし、再選もそんなに難しくはなかっただろうが、「1928年の大統領選挙には出馬しない」という誰も文句のつけようのないコメントを発して在職約6年でホワイトハウスを去った。その4年後、60歳で死去。遺書にはわずか23語しか記されていなかったという。無愛想もここまでくれば一種の美徳である。

 

(下の写真)藤棚の下からアジサイとハナミズキ通りを望む

藤棚の下からアジサイとハナミズキ通りを望む

私は血圧が低い。朝はたいていダメである。よく毎日自転車で通勤できているものだと我ながら不思議に思う。他の人を見ても、ああこの人は血圧が低そうだなというのは何となくわかりそうな気がする。しかし気がするだけで「あなた血圧低そうですね」なんて相手の血を湧き立たせるようなことなんて間違っても言わない。血圧が低い人間にはささいな言葉を口から出すのさえ面倒くさいのである。だから時に私がひどく無愛想に見えたとしてもそれは私の血圧のせいなので、諦めてもらいたいと思っている。

 ハリソン大統領とクーリッジ大統領の血圧がどのくらいの数値だったのか、私の持っている文献群にはさすがにそこまでは書いていないが、少なくとも毎日10時間は寝ていたらしい「サイレント・カル」クーリッジはどちらかと言えば低かったのではないかと思う(ちなみにクーリッジは毎晩10時には就寝し、起床は朝6時から8時の間。そして毎日2時間から4時間は昼寝をしたという。つまり最大で14時間の睡眠ということになる。これが本当ならばナマケモノと競合できるレベルと言っても過言ではあるまい。執務室のドアに「大統領は夢の中」という札をさげた気の利く職員がいたかどうか気になるところだ)。私もつい休日は10時まで寝てしまうが、本当は毎日そのくらいの時間まで布団の中にいたいものである。だから私はクーリッジの顔写真を見るにつけ、彼にある親和性を感じる。私もアメリカ人だったらあんな顔をして生まれていたかもしれない。そんなクーリッジ大統領は「もし私たちが、座ったままじっとしていれば、人生の面倒なことの5分の4はなくなってしまうだろうに」という素晴らしい金言も残しているが、これも私に言わせればまさに低血圧人間のセリフだ。できるだけ余計な動きはしたくない。だって体力のムダではないか。一日上へ下へと動き回ったところで、その内の一体何割が本当に必要な動作なのだろうか?

 

バラ

バラ たぶんローズガーデン

ザクロ

ザクロの花 果樹園

そんな私も、旅は好きである。クーリッジ大統領に言わせれば移動に費やす時間さえ「ムダ」ということになってしまったかもしれないが(でも移動時間中寝ていればいいではないか)、自分が行きたいところであれば千里の道を遠しとせずに足を伸ばしている(ただし国内に限る)。そう言えば私がかねて愛読している血圧の低そうな顔をした作家・正宗白鳥も、旅を好んだ人だった。とはいえ正宗白鳥が、ああいう何事につけてもつまらなそうな漬け過ぎたピクルスみたいな顔をしていたのは、血圧よりも生来の胃弱によるところが多かったのだと思われる(私も胃が強い方ではないので100分の1くらい白鳥の気持は分かる、気がする)。だがそれはそれとして、正宗白鳥は83年の生涯でマメに旅をした人だった。まだ海外が今よりずっと遠かった戦前に、奥さんを連れて二度も欧米へ旅している。国内もあちらこちらへとよく出かけた。長生きをすれば何事においても経験を積む。旅もそうだろう。旅の経験を重ねれば、行きたいところは自ずと増える。しかし、そういつも身軽に旅ばかりしていられるものではない。まず時間の余裕がなければ仕方がない。そして資力の問題もある。旅の上では全てが自分の所有物ではないのだから、何事につけても財布やカードの残額を気に留めなければならない。だから木下杢太郎が「クウバ紀行」の中で、

 

 「旅はわたくしの好まぬ所である。旅は人を商人の心にします。常に胸算用をしなければなりません。宿を取る時に、食事する時に、またいろいろの人に物を頼む時に。」(『木下杢太郎随筆集』より)

 

と嘆いているのは、旅慣れた人だからこそ口にできる、逆説的な「旅嫌い」の表明なのだ。

 

 

(下の写真) スモークツリー スモークツリーガーデン

これは意外なことに花ではなく、花が咲いたあとの花がらの状態だそうです。モフモフしていて未確認生物みたいですね。

スモークツリー

タケシマユリ

タケシマユリ 花仲間ガーデン

アジサイ

アジサイ サステナブルガーデン

そうかと言って、心をいつも自分の今あるところに縛りつけておく必要はない。

「私は、余儀なく一つ所に定住していても、心はつねに旅人の心である。」正宗白鳥は「旅人の心」という好随筆で言う。

 

「私は銀座を散歩しながら、或は喫茶店に休息してコーヒーでもすゝりながら、或は夜更けてホテルのロビーの隅っこに身を置きながら、心を現実の外に勝手に遊ばせることが多い。故郷を偲ばずして異郷を夢む。旅行家大町桂月氏が、旅行も究極するところは机上旅行でいゝと云ったことがあったが、私は、白昼机の上に世界地図を置き案内記を置いて、旅費のいらない空想旅行を試みることがある。」(「旅人の心」、『正宗白鳥全集第十巻』より)

 

 今までに行った土地の印象やその風物、気候を組み合わせて、かの国もこんなものかと見当をつけて空想裡の旅行を楽しむ。それも面白い。旅に於いては不快な出来事や想定外のアクシデントはつきものだ。だが自分ひとりの気ままな脳内バケーションなら全てが自分の都合のいいまま進む。バスも電車も滞りなく到着して悠々と座れるし、食事は注文すればたちまち運ばれる。カバンに手を伸ばしてきたこの男はスリではなくて、荷物を運んでくれる親切な地元の人かもしれない。天変地異や疫病の流行やその他もろもろの事情によって移動が困難な時代であれば、「旅行も究極するところは机上旅行でいゝ」ということになっても無理はない。

 そういう空想旅行の手段のひとつとして、時刻表を見て「旅」を思い描く人もあるらしい。あんなただの数字の羅列も電車の旅を好む人からすれば、十分に空想を膨らませることのできるツールとなるのだろう。

 しかし私が好む旅は、時刻表を開いて始まるものではない。私の場合、手ごろな句集を開いては、そこに並んだ俳句に目を走らせ、特に気に入った一句から空想を広げ、その世界を「旅」するのだ。私はそれを「旅」と呼んではばからない。鑑賞もまた、内なる旅なのだ。

 

(下の写真) クレマチス フローラガーデン

クレマチス

そこで私は本棚に立てかけてある一冊を手に取る。『飯田龍太全句集』。昨年買って以来、私は何度もこの本を旅している。現実の旅にも持っていって、新幹線の車内やホテルの自室で開いている。「全句集」とある如く、収められた句は膨大な数に登るが、とりわけ私が何度もその世界へ空想の羽を伸ばした一句は次のもの。

 

田に女佇つ人生に前後なく (「佇つ」で「たつ」と読ませている)

 

これはどういう世界だろうか。私は新幹線に乗っている自分を夢想する。車窓を眺めると青田が広がっていて、中に一人の女性がいる。それはほんの一瞬目に映った姿に過ぎないが、私の網膜に焼き付けられる。周囲の風景は糖蜜のように流れ去り、青めいた残映と化す。しかし女性の立ち姿だけが永遠のように残り続ける。そしてその姿を目にする私も、その一瞬にいつまでも留まっている。

 なぜ、田に「佇つ」女は人生に前後がなくなるのか。これは農婦の一年を考えてみればおのずと想像がつこう。春には種を播き、夏には草を刈り、秋には収穫、冬はまた春への準備。作物の種類や周期は違えども、一度農家に嫁げばその繰り返しである。なるほど「人生に前後」はなくなるだろう。あとは子を育てたり親を看取ったりという家庭内の変化があるくらいだ。だから飯田龍太の詠んだこの「女」とは特定の一人ではなく、そういう立場の人全員を集約した象徴的な農婦なのかもしれない。そしてこれを作句した時の龍太も、想像裡の私のように、遠くからチラと田中に佇む一人の女性の姿を目にしただけではないかと思うのだ。それにしても、この「田」とはどこにあるのだろうか。多分どこにもなく、どこでもない。私はこの句を音読する度に、地に足がつかず浮遊しているような感覚に見舞われる。「タニオンナタツ」という濁点のない発音は、日本語としての意味は通じているのだが、どこか無関係に並べられた無国籍な言葉のような響きがあり、あたかも宙空を漂う草のわたのような頼りない感覚を与える。この「田」はこの世のどこにも属していない。そこに一人佇つ女も、幻影のような存在である。だとしたらこの句を前にしている私はどこにいるのだろうか。ふと周りを見回して、私は時空を彷徨っているようなあてどもなさが身内に忍び入ってくるのを感じる。窓の外へ目を向けると、相変わらず流れてゆく遠景の中で、こちらに背を向け一人立ちつくす白手ぬぐいの農婦の輪郭がまたたいている。彼女の体は次第に横尾忠則の絵画のような極彩色に染まっていく。ここはどこなのだろう。判然としないまま、私は句集を閉じ、別の一冊を適当に開く。

 

 

(下の写真) ラクウショウの気根

この草葉の陰で獲物を狙う小動物のような物体は、ラクウショウの「気根」と呼ばれるものです。

この気根でラクウショウは呼吸をしているそうです。

ラクウショウの気根

アジサイ

アジサイ サステナブルガーデン

アヤメ

アヤメ 牧場ガーデン

永田耕衣の句。

 

 コーヒ店永遠に在り秋の雨 (『現代俳句の世界 13 永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』より)

 

 時空を走る車内から引き戻された私は、シトシト降る秋雨の中、流行おくれの服しか置いていないブティックのように世間から取り残された喫茶店の前にいる。ちょうど、ベルギー象徴派の画家、クノップフの「廃市」に描かれたレンガ造りの見捨てられた邸宅のように、重々しさのある外壁の、でもこじんまりとしたその店は入る者を拒むかのようにドアが閉まっている。私は中に入ることをためらう。店内には誰がいるのだろう。街灯に明るく照らし出された「コーヒ店」は、必ずしも人を拒む雰囲気ではないのだが、外から眺めているだけで十分、という気にさせるのだ。ひょっとしたら中には誰もいないのかもしれない。ここは喫茶店ではなく、ただの廃屋なのかもしれない。しかし深く煎った豆特有の、あの焦げついた香りが鼻をかすめて流れていく。この永遠のコーヒー店も、今ではないいつか、ここではないどこかにひらける、想像の旅でしか訪れることのできない記憶のスキマのような場所なのだ。

 もう一冊別の句集を開いて旅を続けようかと思った私は、思わず知らず経ってしまった時間の早さに気づく。そう言えば私はこの文章の最初でアメリカ大統領の話をしていたような気がしたが、ずいぶんかけ離れたところまで来てしまったようだ。これもあてどもない旅の醍醐味とも言えようか。しかし私は現実の旅においては、無計画な旅をしたくはないのである。そこは無用な動きを慎む低血圧人間らしさと言えないことはない。とはいえ生きることそのものに予定や計画を立てることは多分不可能である。こればっかりは血圧どうこうの問題でない。クーリッジ大統領のように、とりあえずベッドかソファに横たわってやり過ごすのだ。

  • ホタルブクロ

ホタルブクロ サクラソウガーデン周縁部

少年やホタルブクロは頬の色

まだ見ぬ未来の人々へ・5(5月4日)

(下の写真)タイツリソウ 花仲間ガーデン

英語では「ブリーディング・ハート」とも言います。白花のものは珍しいとか。

タイツリソウ

(承前)

自分に遺せるものは何もないのだろうか。ここまでおとなしく内村の話を聞いてきた人は、いつしかそんな無力感に捕われてくるかもしれない。しかし安心してほしい。内村自身も「たびたびそれがために失望に陥ることがある」と言っているのだから。今日内村鑑三は、日本に独自のキリスト教信仰を移植するために生涯をかけて尽力した「無教会主義」の創始者として、多くの人に認識されている。そしてその著作の多くは今なお熱心な読者に読まれ続けている。これだけでも十分すぎるほど大きな「遺物」を遺した人と思いがちであるが、1894年の内村は、まだ模索と発展の時期にあったのだ。だからこそこの講演は、何者かに成りかけている段階の彼の姿が読み取れて共感を持つことができる。

内村はこれまで取り上げてきた「遺物」を振り返り、一連の話のまとめにかかる。一つ目に「金」、二つ目に「事業」、三つ目に「思想」。どれも優れたものである。しかし、この全てが「最大遺物」と言えるほど重要かつ普遍的なものではない。なぜなら、誰もがこれらを遺せるわけではなく、遺した(遺そうとした)結果、「害」が生じる場面もあるからだ、そう内村は指摘する。

「金」については既に言及した。それを持つ皆が渋沢栄一のように、公共の利益のためにお金を使えればいいが、そういうことを考えない人の蓄財は貧富の差を生み、拡大しかねないというわけだ。

「事業」にまつわるマイナス面について、内村ははっきりと述べていない。そこで次は私なりの解釈である。例えば彼が「事業」を遺した人物として名を挙げた英国人リビングストンは、アフリカ探検中一時遭難し、行方不明となっている。彼の行方を追うために米国人のスタンリーという人がアフリカに入り、お陰で無事発見されるのだが、率直な見方をすると、リビングストンは自分の意志で入ったアフリカ奥地で迷子になり、わざわざ人を送らせ捜索させるというお騒がせな事態を引き起こしたとも言えるから、これは「事業」が必ずしもいいことずくめではない理由となるだろう。

「思想」も、頼山陽やロックのそれのように、いつも現実をあるべき方向に変革しうるものばかりではない。そしてものを書く人が増える状況を内村が歓迎しているわけでもない。彼に言わせれば、「文学」や「教育」は一個人の力量がものを言う世界だ。彼は他者とつながりを持った上で遺せるものに重きを置いているらしい。だから基本的に一人でできる文筆に携わる人を「文学に逃げた」などとあげつらっている。しかしそういう彼自身も学校を転々とした果てに京都で物書きになったようなものだから、これは自嘲の言葉とも言えるだろう。

「それならば最大遺物とは何であるか」。誰にでも遺すことができて、利益ばかりで害となることのない遺物とは何なのだろう?

 

「それは・・・勇ましい高尚な生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。」

 

 

(下の写真) こいのぼり ふかや村

 昨年度までに市民の皆さんに寄贈していただいたこいのぼりが現在ふかや村(田んぼの周辺)やハナミズキ通りの池の周囲に翻っています。8メートル級の大きさのものもあり、青空を背に元気に風に乗る光景が日本の初夏の風物詩という感じがしてとてもいいです。

鯉のぼり

クレマチス

クレマチス フローラガーデンフェンス

これが、内村鑑三が一番言いたいことだった。「勇ましい高尚な生涯」、それこそが、誰もが遺していける可能性を持つ「後世への最大遺物」なのだ。しかし、聞こえはいいが、具体的にはどういうことか。内村は説明する。一つには、「この世の中は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中」だと信じること。だがこれはいかにも宗教的な言い分である。YMCAの学生には納得がいったかもしれないが、クリスチャンでない私には微妙である。内村はさらに噛み砕いて説明する。この世を「失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずること」、「悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中」であると信じることだと。これならばいくらか理解しやすくなった。そうしてこういう考え方を実行に移して、その生涯を「贈物」として世を去ることだ。これなら誰にでも遺すことができると内村は言うのである。

とはいえ何だかややこしくてハードルの高そうな話だ。ひょっとしたらお金儲けの方がラクなのでは?いやいや、まずはどうすればそんな「贈物」ができるのか、内村の話を聞こう。

 

(下の写真)サステナブルガーデンの装飾

サステナブルガーデン担当の王国ボランティアさんが、発泡スチロールで愉快な仲間たちを作ってくださいました!左から、アマビエ、聖火台、ふっかちゃんです。すべて発泡スチロールをくりぬいて制作し着色をほどこしてあります。アマビエと聖火台には花を配置し、見た目にも華やかで豪華な感じがしますね!!「完全に趣味」で作ったとおっしゃっていましたが、手作りの温かみが伝わってきてほっこりした気持ちになれます。素晴らしいです。緑の王国にはこんなものづくり精神あふれる素敵なボランティアさんたちがいらっしゃいます!!

サステナブルガーデンの装飾

ハンカチノキ

ハンカチノキ 牧場ガーデン

今年もたくさん花をつけました。

  • ヒーリングガーデン

(上の写真)ヒーリングガーデン 入り口

 

ここにトーマス・カーライルという人物がいる。19世紀英国の歴史家だ。彼には『フランス革命史』という大著がある。カーライルは「何十年」か費やしてその原稿をようやく書き上げたそうだ。やれやれ、やっとできたぞ。ホッとヒゲを撫で下ろすカーライル。そこへ訪ねてきた友人Aがそれを読みたいと言うので、せっかくだから他人の批評を乞おうと思って貸してあげることにした。持ち帰った友人Aの元へそのまた友人Bがやって来て自分も読みたいと言うので、翌日の朝までに返却してくれるならと念を押してAはBに貸与した。「また貸しはやめましょう」と図書館の本に挟まっているカードにも書いてあるではないか。友人Bは家に持ち帰り、読み始めたが、やがて眠ってしまった。朝が来た。家政婦が主人の部屋に入り、暖炉の火を起こそうと思った。ところが焚きつけにする紙を持ち合わせていない。「オーカミガナイ」と髪をかきむって悔しさを噛みしめようとしたその時、何やら文字でびっしりと埋められた、いかにもよく燃えそうな紙の束が視界に入った。やがて火は起きた。部屋は暖かくなった。そしてカーライルの数十年かけて手がけられた「事業」は、暖炉の灰と化した・・・。チーン、ポクポクポク(木魚の音)。

悲報を聞いたカーライルは、さすがに「十日ばかりぼんやりしていた」という。そのうちヤケを起こして、もう歴史なんかやるもんかという気持ちにもなったらしい。無理もない。しかしやがて考え直した。自分がウン十年の歳月をかけて書いたあの原稿も、実はそうたいしたものではない。もしあの原稿以上に優れたことがあるとするなら、この艱難を耐え忍んで燃えてしまったもの以上の作品を書き上げることだ。そう決心したカーライルは、時間をかけて再び『フランス革命史』を脱稿したそうである。自分の仕事が無残にも焼失したと聞かされたカーライルにとって、世界は「失望」と「悲嘆」に満ちたものと見えたことだろう。しかし時間が経つうちに、彼は困難に打ち克って自分の「事業」を完成させなければならないと思った。どれほどの失敗や不運に遭遇しても、一度遂行すると決めた「事業」を投げ出してはならない。「勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ」。このカーライルの意志の力は、またとない「遺物」である。それは、彼の著作以上に価値あるものなのだと内村は力説する。

内村は二宮金次郎の例も挙げる。彼は苦学に苦学を重ねた人である。それを基に彼が遺した「事業」というのは、それほど規模の大きいものではなかったけれども、彼もまた、伯父の妨害をたびたび受けながらも勉学をやめなかったその生きる姿勢において「贈物」を遺した人だ、内村はそう言う。

カーライルや二宮金次郎のような人でも、困難を前にしていじけることなく、それを超越して自分にできることを見事成し遂げた。彼らのような人ですらできたのだから、「私にもできないことはない」。内村はたびたびそう励まされてきたようである。歴史上の偉人と呼ばれる人と、何者でもない自分をたやすく重ねあわせることには躊躇を覚えなくもない。しかし、偉人と呼ばれる人々だって、やはり一人の人間であった。誰しもと同じように笑い、泣き、そしていつか死を迎える存在であった。そうフラットに考えてみると、個人の素質や才能の程度はさておき、私たちも彼らと同じような「贈物」を遺せるかもしれない。

ここから、内村の講演は佳境に入るのだが、一旦1894年の箱根から、私たちは21世紀の現代へ戻ってみることにしたい。舞台は2019年5月1日の読売新聞朝刊、「人生案内」のコーナー。令和、という時代が幕を明けたまさにその日、和歌山県在住の女性から寄せられた投稿が掲載された。

 

(下の写真) スモークツリーガーデン ポピー

ピエロ、またはレディバード(テントウムシ)と呼ばれる種類です。なるほど言われてみればどちらにも見えます。

スモークツリーガーデン ポピー

ヤマシャクヤク

ヤマシャクヤク 花仲間ガーデン、山野草ガーデンで見ることができました

ナンジャモンジャ

ナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)正門付近

緑の王国のシンボルツリー。5月上旬に細長い白い花をたくさん咲かせます。

「90代 念願の一人暮らしの先」。90代女性からの相談である。この女性は十数年前から一人暮らしを送っているそうだ。それを彼女は「極上の孤独生活」と呼ぶ。特に長い時間をかけて摂る食事の時間を好んでいる。年齢相応の体の不調もあるにはあるが、生活の全てを自分の思うがままに運んでいくことの出来る日々は「至福の極み」だ。空を流れる雲に無数の思いを重ねて時を忘れることもある。これまでの長い長い時間、「よくぞここまで生きながらえた」と思うこともあるが、その時が来たら未練なく旅立ちたいとも考えている。子どももそんな自分の気持ちを理解してくれている。しかし、そう思ってはいても、人は自分の気持ち一つで生きているものではない。「人間としてこの世に生を受けた限りは・・・医療の恩恵にあずかりながら、一日でも長く生きなければならないものでしょうか。」

こういう内容の投稿であった。

これはふつう人生相談と聞いてすぐ思い浮かぶ性質のものではない。「自分に辛くあたる姑とどう向き合ったらいいのか」、「今の会社で働き続けるべきなのか」。こういう相談には、やはり回答の型というべきものがあって、誰が答えてもそれほど違った答えにはならない。しかしこの90代女性の投稿は、まさに究極の問いである。回答者は、直木賞作家で古書店主の、出久根達郎氏であった。

出久根氏はこの投稿を読んで、内村鑑三の「後世への最大遺物」を思い出したそうだ。そして出久根氏は、この女性の生き方こそ、「内村の言う「最大遺物」になりうる」と讃えている。これほどの老齢の女性が一人で生活することには誰しも不安を覚えよう。しかるべき施設へ入るよう奨めた人もいたかもしれない。しかしこの相談者の生活は、他の人には想像もつかないような「平安」なものだ。そして豊かで充実している。女性の家族も母親のこの生き方に共鳴している。だから何もやましさを感じることなく、自分の道を行くべきである。ただ、人は天命に従わなければならない。生を見限るようなことはしてはいけない。「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう、そのような気持ちでこれから日々過ごされることを願っております。」出久根氏はこう締めくくっている。

 

 

高齢社会が一段と進んでいく新たな時代の先頭を切る形で、このような「人生案内」が掲載されたことは何とも象徴的なことであった。そしてその回答として、「後世への最大遺物」が引き合いに出されたことも、深い印象を残した。2年が経つ。今も相談者の女性が、この時と同じように生活しているかどうか、何ら知る手立てはないが、年齢を重ね、一人となった時、その人はどうすれば心身ともに満たされた日々を送ることができるのか。残された時間をどう過ごせば自分の生涯を肯定できるのか。そう考えた時に、出久根達郎氏が「後世への最大遺物」を読み取ったこの90代女性の日々は一つの指標となるだろう。一見孤独で寂しそうであるが、生活の中の一つ一つの動作、例えば食事ひとつとっても、時間をかけて味わい尽くし、豊饒な時間にひたることができるのだ。年齢を重ね、一人にならなければ気づかないことがある。それこそが人生における本当の充実ではないか。彼女のそういう問いかけを、紙面のこちら側の私たちは受け取ったのである。

この女性の毎日を、壮絶な孤独、と言い切ってしまう人もいるかもしれない。だがそう言われることに、女性は躊躇しないだろう。他の人にはわからないかもしれない。自分の日々は頑なな少数派のそれかもしれない。しかし、今自分は充たされている。そう自信を持って言える。一人を恐れていない。自分一人を遥かに上回る何かに、この身を委ねたようなものかもしれない。こういう私の日々が、いつか、今はいい顔をしない人たちの生き方の道しるべになったとしたら。

 

再び、私たちの耳には、内村鑑三の声が聞こえてくる。

 

 

(下の写真) オオデマリ 花仲間ガーデン

スモークツリーガーデンの入り口には、同じオオデマリで花がややピンク色に染まる種類も咲いています。

オオデマリ

フタリシズカ

フタリシズカ 山野草ガーデン

「私は時が長くなりましたからもうしまいにいたしますが、常に私の生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい。」

 

米国の女性教育家にメリー・ライオンという人がいた。女子教育の必要性を痛感し、18世紀半ば、マサチューセッツ州に女子専門の学校を作った。「日本の武士のような・・・義侠心に充ち満ちておった」女性であった。その彼女の言葉である。

 

「他の人の行くことを嫌うところへ行け。他の人の嫌がることをなせ」

 

私はこういう真正面から説教調の言葉にはどうも抵抗がある。人はあくまで自分がしたいから、やってみたいから何かをするのであって、誰もそれをやろうとしないからという理由で何かに手をつけることには、常に一種の自己陶酔が付きまとうと思う。

しかし内村はこの言葉をややソフトに言い換える。一体私たちの生き方というのはどういう姿勢の基に成り立っているのか。他の人が避けて選ぼうとしないことは、自分も嫌だからとやはり敬遠しているのではないのか。

 

「我々の多くは・・・他の人もなすから己もなそうというのではないか。他の人もアアいうことをするから私もソウしようというふうではないか。」

 

これは誰しも否定できないところだろう。付和雷同とかKYとか、日本人の同調性を指す言葉は辞書のあちこちに見つかる。だが、他の人みんながやっているからそれが正しいという保証はどこにもないのだ。「人群がれば考えず」という諺もある。多数派というのはただ数が多いというだけであって、「何も考えていない人たち」と見做すこともできよう。

もちろんこれは内村の理想ではない。引用の巧みな彼は、ここで徳川家康の名を持ち出す。これもよく知られた話であるが、まだ家康が松平竹千代と名乗っていた9歳のころ、近くの安倍川の河原で子供たちが赤白二手に分かれて石投げ合戦をしようとしていた。白は赤の半分しかいない。家康は少数派の白組を助けてやれと家来に命じたそうである。

 

「私の望むのは少数と共に戦うの意地です。その精神です。」

 

ただ他の多くの人も集まっているという理由だけで、その方が安心だという気持ちだけで、多数派につくことが本当に賢明だろうか。それで本当に自分が納得するのだろうか。自分の周りに「少数」しかいなくとも、いや、自分一人であっても、私たちが自分の人生を振り返って採点した時に、心からマルをつけられる道を歩くべきではないだろうか。

「勇ましい高尚な」とは、一人であることを恐れないことだと私は思う。真っすぐ顔をあげて、一人高く自分の信じる道を進む。サムライの子、内村鑑三ならではの心意気だ。

 

 

(下の写真) オダマキ 花仲間ガーデン

オダマキ

  • フローラガーデン

「後世の人が我々についてこの人たちは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己の一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってくれたといわれたいではありませんか。」

 

それこそが、誰にでも遺せる「最大遺物」なのだと内村は説く。しかし、どういう形で遺されるのかはわからない。あの90代女性のように、ある日新聞に人生相談として掲載され、それを読んだ人の記憶に、こういう生き方を選んだ女性がいた、という形で遺される。これは一つのパターンであるが、運のいい例と言えるかもしれない。誰にも知られることなく、そもそも自分の生き方を遺したいと思うこともなく、それぞれ立派な生涯を送った人は、数限りなくいたことだろう。それが伝えられることの方が少ないに違いない。しかし、いつも誰かが自分の生き方を見てくれているのではないかという視点が、内村の言葉の底に流れているようにも感じられる。キリスト者である内村にとって、その「誰か」が意味するところは、結局は一つしかないのだろう。

 

「それでその遺物を遺すことができたと思うと実にわれわれは嬉しい、たといわれわれの生涯はドンナ生涯であっても。」

 

この一言には内村の万感の思いが込められている。「ドンナ生涯」というところに、不敬事件後の苦渋に満ちた日々の記憶がにじんでいる。なぜ自分はこんな苦労の多い道を歩くのか、私は自分の信念に従っただけではないか。しかし自分で選んだことだ、悔やむまい、嘆くまい。そうして過去の自分の行為とその結果を、距離を置いて冷静に眺められるようになったからこそ、この講演も生まれたとはいえないだろうか。

 

講演は大団円にさしかかり、内村の言葉は白熱する。二日間、自分の話を聞いてくれた学生たちに、内村は語りかける。今日から一年後、またどこかで会う機会を持った時、その時に私たちは、少しでもいいから「遺物」を手にしていたい。後世のためにこれだけ金を貯めた(やはりこれが一番らしい)、こういう事業をした、自分の思想を雑誌に発表した、みんな結構。しかしそれよりも、自分は後世のために弱いものを助けた、これだけの艱難に打ち克った、これだけ自分の品性を修練した、つまり、自分一人の心をどう鍛えたかという話をしたい。

 

「この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。」

 

明日自分の身がどうなるかもわからないのに、後世のことなどさらにわかるわけがない。しかし、わからないからこそ希望が持てる。わからないということは手に負えないほどの可能性に満ちている。自分の遺した生涯が、未来という暗闇をまっすぐ翔ける一すじの光と成りうるのだとしたら、私たちの人生は、自分一人のものではないということになる。どんな人の生涯も、大きな木に育ちうる一粒の種なのだ。

そしていよいよ、二日間に渡った講演は締めくくりの時を迎える。

 

「われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であると言われるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。」

 

満場から沸き起こった拍手の渦に、内村は包まれた。両手を顔よりも高く挙げ、一心に打ち鳴らす者がいる。感激のあまり涙を浮かべる者もいる。内村は一礼し、会場を去った。この時の夏期学校は、7月26日まで続いたそうだ。しかし、生徒や講師の脳裏を、内村の言葉が去来し続けただろうことは想像に難くない。

やがて箱根を後にし、それぞれの場所へ帰っていく彼らは、どんな思いの中にあっただろうか。車窓を流れる景色をぼんやり眺めながら、自分にも遺せるものとは何なのか、初めて気づかされたそんな問いに、答えを与えることを決めた若者もきっといたことだろう。

 

 

(下の写真) メタセコイアの木

あえて逆光。木の生命力が凄みを発している感じがする。

メタセコイア

矢車草の花

ヤグルマソウの花  山野草ガーデン

アマドコロ

アマドコロ 花仲間ガーデン

「後世への最大遺物」は、箱根での講演から3年後の1897年に便利堂という書店から刊行され、その後も東京独立雑誌社、警醒社書店と版元を変えて発行されている。1925年に寄せた、「改版に附する序」という文章の中で、内村は「この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったこと」を神に感謝すると言っている。「私は今よりさらに三十年生きようとは思いません」、5年後に世を去ることとなる内村はこう述べる。「しかし過去三十年生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。」

真に優れた言葉は、それを発した当人の肉体の寿命を超えた生命を獲得する。内村鑑三は彼の遺した言葉の奥から、あの特徴ある風貌で、時代を凝視し続けている。一体どれだけの人間が、その視線を真正面から見返すことができるだろうか?

 

(おわり)

 

緑の王国正門に「季節の俳句」と題して、その時期に咲く草花と、それに関連した俳句(ときどき詩)を掲示しています。特に深い意味はありません。丹精込めて育てられた花も勝手に生えてきた花も同じように素材にしています。今月は「ハハコグサ」の読み込まれた加藤楸邨のこの句。

鶏の目には鶏の世あらん母子草

 

〈主な参考文献 本文に直接引用したものを中心に〉

 

1、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』内村鑑三、岩波書店、1946年(1976年改版)

2、『近代日本のバイブル─内村鑑三の『後世への最大遺物』はどのように読まれてきたか』鈴木範久、教文館、2011年

3、『内村鑑三』亀井俊介、中央公論社、1977年

4、『内村鑑三』鈴木範久、岩波書店、1984年

5、『内村鑑三の生涯─日本的キリスト教の創造』小原信、PHP研究所、1997年

6、『正宗白鳥全集第九巻』(「内村鑑三」所収)正宗白鳥、新潮社、1965年

7、『東京近郊 日がへりの行楽』松川二郎、金正堂、1934年

8、『西洋思想史の人びと』玉井茂、理論社、1967年

9、『日本の文学32 広津和郎 菊池寛』(菊池寛「恩讐の彼方に」所収)中央公論社、1969年

10、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子、新潮社、2016年

11、『読売新聞』「人生案内 90代 念願の一人暮らしの先」2019年5月1日

 

内村鑑三についての文献は膨大な数にわたるため、今回は私の手元にある3~5を主要な典拠とし、内村の生涯について概括した。

2の文献は『後世への最大遺物』に特化した書物であり、この講演の副読本のような意味を持つ興味深い一冊。前半で講演を行うまでの内村の歩みを述べた後、『後世への最大遺物』から大きな影響を受けた近代日本の著名人について紹介している。取り上げられている人物は大賀一郎(古代ハスの研究で知られる植物学者)、正宗白鳥(作家)、青山士(あおやま・あきら、パナマ運河や荒川放水路の建設や設計に携わった土木技師)、西田幾多郎(哲学者)、天野貞祐(哲学者、文部大臣)、矢内原忠雄(経済学者、東大総長)、森敦(作家)など。

またこうした著名人の他に、ある日著者の元に寄せられた「かつては不登校の時期」を経験したが、ある「教育機関で再起し」勉学の集大成としてアメリカに留学中の32人の学生の書いた『後世への最大遺物』の感想文が面白い。現代を生きる若者が100年以上前のこの講演から何を受け取ったかがよくわかる。後半では講演の全文が収録されているが、岩波版(文庫)よりも文字が大きいため、最近細かい字を見ると目がストライキを起こすという人にはおすすめだ。

本文中の『後世への最大遺物』の引用は、新かなづかいに改められている1の岩波版を使用した。

まだ見ぬ未来の人々へ・4(4月7日)

(下の写真)フローラガーデン チューリップが一気に咲ききれいです。

フローラガーデン

(承前)

お金を貯める才能のない内村だが、何かを遺したいという気持ちに変わりはない。内村は次なる手段として「事業」を挙げる。

「事業」と言われても曖昧でおおざっぱである。出版も教育も福祉もみな「事業」だ。内村は、広く世のために手がけられる何らかの取り組みが「遺物」と成りうると言いたいのだろう。しかし何をするにも先立つものはやっぱりお金である。だが内村はお金がない。無いならある者から借りて「事業」を興せばいいという発想らしい。ずいぶん虫のいい考えである。とはいえ彼がそういう自分の考えに疑問を持っている様子はなさそうなので、ここでも内村は真面目にそう思っているのだと受け取るより他ない。

 しかし広い世の中には他人が新しく始めようという「事業」に気前よく出資してくれる人もいないわけではない。内村は米国人のそうした人間の名を何人か挙げる。そして「事業」の中でもっとも自分が重きを置くのは「土木的の事業」だと話を進める。

 彼がそういうものを一番重視するのは、「誰にもわかる」ものだし、彼自身「土木事業を見ることが非常に好き」だからだそうだ。確かに橋を架けるにしろ、トンネルを掘るにしろ、その必要性や作業の進展の様子は誰もが一目で分かる(トンネルは分かりづらいか)。そして多くの人がたちどころにその恩恵と利便を実感できるのも「土木事業」の素晴らしいところだ。内村はこの日講演までの時間を使い、芦ノ湖の対岸の方へ足を伸ばしてみた。すると、岸からさらに南の方に水門が見える。そこからは山の中を通るトンネルが始まっており、それに乗って湖水の水が沼津まで到達し、田畑の水を潤しているのだという(箱根用水と呼ばれるらしい)。言い伝えでは、ある二人の兄弟が、自分たちでも遺せるものは何かと考えた末に、山の上と下からコツコツと岩をくりぬき土を運び続け、長い歳月をかけてようやくこのトンネルを完成させたのだと内村は聞かされ、いたく感動したそうだ。

 兄弟には周囲の決して温かくはない視線が向けられたこともあっただろう。それでも二人は、「生涯かかって人が見ておらない」中でも偉大な「事業」を成し遂げた。これもまた、手掛けた人間が誰かわからなくなっても、後世の数多の人々が感謝してやまない遺物と言えよう。人を殺めた罪を悔いる心から、二十年を費やして耶馬渓の岩にトンネルを掘った僧侶・了海(菊地寛「恩讐の彼方に」)のように、誰に頼まれなくとも公共の利益のために歳月を捧げた人は昔からいたのである。

 この後内村は、伝道者として、さらに探検家としてアフリカ奥地に分け入り活動したリビングストンの事績に触れ、この夜の講演はお開きとなった。

 

(下の写真)ヒーリングガーデン こちらもチューリップが満開。五感を刺激する様々な草花が楽しめます。

ヒーリングガーデン

ヤマシャクヤク

ヤマシャクヤク 花仲間ガーデン ふんわりした白い花がかわいらしい。

リキュウバイ

リキュウバイ スモークツリーガーデン

  • 山野草ガーデンの桜

(上の写真)山野草ガーデンの桜 3月末まで満開でした。散るのは一瞬です。

 

 

明けて7月17日の朝、内村鑑三は前の日から列挙してきた後世へ遺すことのできる遺物を一つずつ振り返り、その三つ目として、「思想」を取り上げる。

 「事業」に次いでさらに抽象的なものとなってきた。「金」は誰の目にも見える。「事業」も、その内容にもよるがふつう形のあるものである。しかし、「思想」とは何だろうか。

 ここで内村は、再び頼山陽に言及する。覚えているだろうか、少年内村がかつてそれを読んで感激し、自分も歴史に名を遺す人間になりたいと決意を固めるきっかけとなった、「天地無始終 人生有生死」の詩の作者である(そういう意味では、この「後世への最大遺物」講演も頼山陽の遺物の一つと言えるかもしれない)。

 頼山陽は「勤皇論」の祖とされる。「日本を復活するには・・・日本の皇室を尊んでそれで徳川の封建政治をやめて・・・今日いうところの王朝の時代にしなければならぬ」という思想のことだ。しかし、山陽の生きた18世紀後半から19世紀前半は、まだ江戸幕府が盤石の支配を維持していた時期である。こういう思想を公表したところで彼の思う通りの世の中になったとは考えにくい。それくらいのことは山陽にもわかっていた。だから彼は「日本外史」という著作を残し、自分の考えを真に理解してくれるだろう後世を待つことにした。

山陽の死後およそ20年、ペリーの黒船が浦賀に姿を現し、日本は外の世界にも目を向けざるを得ない時代に変わっていく。徳川氏の260年に渡る政権もいよいよ揺らぎ始めてきた。そこで山陽の遺著が、幕末の熱血志士たちに注目され、その思想にインスパイアされたそうした連中の活躍が、やがて幕府崩壊と王政復古を導くわけだ。「山陽はその思想を遺して日本を復活させた」のである。これはまさしく、「思想」が遺物として大きな役割を果たした例ではないか(と、こういう意味のことを内村は言っているが、山陽は封建社会の変革や倒幕の意志を持って「日本外史」を書いたわけではなかったという)。

さらに内村は、17世紀英国の一人の思想家に触れる。彼は「世の人に知られ」ず、「しじゅう貧乏して」、「何もできないような人」であったが、一つの大きな「思想」を持っていた。「一個人というものは国家よりも大切なもの」という主張である。専制君主が絶対的な権力を握っていた時代に、個人の権利を国家に優ると考えていた彼こそ、ジョン・ロックであった。しかし、時代に先駆けたこうした思想を持っていたところで、現に自分の生きている時代にそれが実現するとは思えない。そこで彼も著作の形で自分の思想を遺した。「Human Understanding」という本だ。日本では「人間悟性論」と訳されている。英国ではさほど注目を浴びることのなかったこの本だが、やがて海を渡り、ヨーロッパ大陸にもたらされた。そしてロックがその存在を知る由もない後世の思想家たち(モンテスキューやルソー)がこの本を読み、感激し、ロックを土台にしてさらに彼らの思想を紡ぐのである。やがてフランスでは「一個人というものは国家よりも大切なもの」という思想が浸透し、それを基盤とした怒涛のような変動が起き、ついには王政が倒された。フランス革命である。その余波は米国にも波及し、合衆国の独立へ発展する。ハンガリーでもイタリアでも動乱が起きた。「ジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた」のだ。恐らくロック自身も、同時代の彼を知る人も誰一人想像しなかったような動きが、彼の「遺物」すなわち「思想」によって起こったのである(ロックは、市民の信任を受けて成立した政府がその期待を裏切る挙に出たとき、市民は政府を打倒して構わないという「抵抗権」を唱えており、これがフランス革命やアメリカ独立戦争の原動力になったと言われる)。

 

 

(下の写真) サステナブルガーデン こちらもチューリップが見ごろ。

サステナブルガーデン

ロックガーデン 原種チューリップ

ロックガーデン 原種チューリップ

サクラソウガーデン

サクラソウガーデン 

ブータンルリマツリ

ブータンルリマツリ 花仲間ガーデン ピンクの花が目立つ。

ミツバツツジ

ミツバツツジ 花仲間ガーデン ピンクの花がこっちもきれい。

内村は「思想」を遺す具体的な手段として「著述」と「学生に教える」ことの二つを考えていたようだ。「著述」の項目として頼山陽とジョン・ロックを取り上げたあと、それに関連して内村一流の文学論が展開されるのだが、これは長いので割愛する。ただ簡単にまとめると、内村は、文学というものは現実を変革する力を持たなければ意味がないと考えていたらしい。従って彼の理想とする「文学」は「思想」とあまり区別がなくなる。いずれにしろ、他人の受け売りではなく自分の言葉を使って物を書くことで、それを読む人に、そして現実社会に何らかの影響を及ぼさなければ、それは「遺物」足り得ないというようなことが言いたいようだ。

では後者の「学生を教える」に関わる内村の発言を見てみよう。これは内村の「教師論」とも言うべきユニークな意見である。アマースト大学時代の恩師、例のシーリー先生の言葉だそうだが、「学者」と「教えることのできる人」は違うらしい。ある分野の専門家はいくらでもいる。ただ、その分野を「自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人」というのは、「非常に貴い」のだそうだ。どういうことだろう? 内村はクラーク博士の名を挙げる。彼はもともと科学者であったが、札幌農学校時代には植物学も教えていたそうだ。内村は直接クラークの教えを受けていないはずだから、先輩からその講義の模様を聞かされたのだろう。当時植物学者など北海道にはいない頃である。だからみなクラークを「第一等の植物学者だと思って」いた。しかし渡米した内村がある学者に話を聞くと、クラークは植物学の門外漢だったそうだ。だが、そういうことは問題ではない。なぜならクラークという人は専門家ではなかったけれども、「植物学を青年の頭に注ぎ込んで、植物学という学問のInterestを起す力」を持っていたからだ。そう内村は言う。

「Interestを起す力」とは何だろう?その学問を学びたいという意欲を生徒に起させるパワー、というほどの意味だろうか。私もこのクラークの話を読んで、高校時代のある教師のことを思い出した。

Sというその先生は、私の高校2年、3年の時の担任教師である。いろいろな点でユニークで不思議な人であったが、世界史の先生でありながら、担任生徒に倫理と地学を教えていたことが殊に印象深い。なぜそんなことをしていたのかというと、センター試験にこの2分野が出題されたからである。国・英・数の基本3科目を補うために、生徒に身につけさせようとしたのだろう。S先生は倫理学者でも地学者でもなかったはずだ。しかし、地学はともかく私はこの人の倫理の授業を受けたことを一生の財産だと思っている。自分の担当科目以外を教える先生なんてどこの学校にもそうはあるまい。大体多くの日本人は学業を終えて社会に出ると、もはやろくに本も読まず、新しい知識を取り入れようともしないものだ(学校の先生に意外とこういう人が多い)。だがあの先生は専門科目でもないのにみな一人で勉強して知識を身につけ、自分の中で噛み砕いて生徒に教えていたのである(そして、生徒のためという教育者的精神よりも前に、この人自身が楽しくてこういうことに時間を割いているのだとわかるところが私はなお面白かった)。もちろん本職の世界史の授業もとてもわかりやすかった。今考えると貴重な人だったと言えるだろう。内村さんもS先生のことを聞いたら、あのいかつい顔でにっこり笑って「エクセレント!」と言ってくれただろうか。S先生もまた、「学問のInterestを起す力」を持っていた人だった。だから今思うと、あの先生に教えられたことは、本当は倫理でも地学でもない。一生学ぶことをやめない姿勢というものだったのだ。

 

ヒーリングガーデン

ヒーリングガーデン

2枚ともヒーリングガーデン。チューリップの波のようです。

内村は豊富な事例を自在に引用してくれる。「思想」が「遺物」に結びつく理由も納得がいく。彼の話を聞いていると、抽象的なことについて語るときには、例えを持ち出さなければ聞く人は理解しないということがよくわかる。これはいつの時代の誰を前にしても同じことだろう。

だが、内村の言葉の一つ一つを自分の身に照らし合わせながら真面目に聞いている人が、どれもこれもこの私には手に負えないものだと思い始めたとしても不思議ではない。「金」を貯めることもできず、何か取り組んでみたいという「事業」も思いつかず、まして時代を動かし得るような「思想」など考えたこともない。さて、どうすればよいのやら。こんな自分も「後世への最大遺物」なんて特大の理想と縁があるのかしら?

(つづく)

まだ見ぬ未来の人々へ・3(3月24日)

(下の写真)ヒーリングガーデン ジンチョウゲ(白)が満開

ヒーリングガーデンのジンチョウゲ

ハナニラ

ハナニラ 花仲間ガーデン

(承前)

これから取り上げる講演を味読する上で、やはり内村鑑三の半生を理解しておくことは無意味ではなかろう。そう思って、彼の平坦ならざる歩みを長々と振り返ってみた。今年、2021年は内村が生まれて160年、不敬事件から130年となる。そういう節目を意識したわけでもないが、いずれこの『後世への最大遺物』は読み直そうと思っていた。そろそろ内村の話に耳を傾ける時が来たようである。本文と伴走し、時に端折りながら、内村の言う「後世への最大遺物」とは何なのか、考えてみたい。

 

と、そんな風にやや気負いながら講演本文に入ろうとしているが、それほど固い内容ではない。内村の口調もあくまでざっくばらんである。「満場大笑」という言葉も本文中あちこちに見られる。なにせ内村は、立ったままでは自分の背丈が威圧感を与えてしまうとでも思ったのか、イスに座ったまま話している。そして、「キリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのは多分この講師(こうし)が嚆矢(こうし)であるかも知れない」などとなかなか読解力の試されるギャグを飛ばしている(嚆矢は一番初めということ)。案外と人間味のある人柄がうかがえる。信念一途の近づきがたい人物でなかったことが感得されよう。そして講演を始める際のお約束のセリフだが、自分の話がつまらなかったら勝手に帰って構わないとも言っている。まさか本当に帰った人はいなかっただろうが。

 

(下の写真)カタクリ 山野草ガーデン

カタクリ 山野草ガーデン

フッキソウ

フッキソウ(富貴草)アジサイ園の東

一年中葉が茂っていることから、「富貴」を連想させこの名前があります。先端が茶色く染まった白い部分は雄花の雄しべです。花弁はありません。

サラサモクレンのバードハウス

花仲間ガーデンのサラサモクレン(ニシキモクレン)にはバードハウスが取り付けられています。鳥が入ってくれるかな??

  • ユキヤナギ

(上の写真)通用門側駐車場周り ユキヤナギ 陽当たりがいいのか見事に咲き誇っています。

 

 

内村は冒頭、江戸時代の歴史家・儒学者、頼山陽(らい・さんよう)の漢詩を読み上げる。

                                       

 十有三春秋   じゅうゆうさんしゅんじゅう

 逝者已如水   ゆくものはすでにみずのごとし

 天地無始終   てんちしじゅうなく

 人生有生死   じんせいせいしあり

 安得類古人   いずくんぞこじんにるいして

 千載列青史   せんざいせいしにれっするをえん

 

 山陽は13歳の時この詩を作ったという。「人は世を去ればとめどない水の流れのようにたちまち忘れられていく。天地に始まりも終わりもないが、人間は死ぬまでの限られた時間しか持たない。歴史に名を留めた先人たちのように自分も名を遺したいものである」というようなことか。雄大な抱負である。

そして10代半ばにこの詩を読んだ内村も「千載青史に列する」人間になりたいと思った。おやじも息子のそんな決意を喜んでくれた。千載は千年間。青史は歴史書の意味だ。オレも歴史に不朽の名を遺すような者になりたい、と明治の男らしく鑑三少年も熱い思いに胸振るわせたわけである。

しかしやがてキリスト教の洗礼を受けた内村の考えはぐらつく。いつまでも自分の存在をこの世に留めたい、なんてよくない料簡ではないのか。敬虔なクリスチャンが現世の功名を欲するなんてあるまじきこと。宣教師にそう叱られたこともある。それで一時は山陽の詩から受けた感銘から離れかけたこともある。

だが、やっぱりそれではつまらない。なるほど信仰者としてはいつまでも現世に執着するのはよくないことかもしれない。しかし人として生まれたからには、世を去っても何かを遺したいと思うものではないか。つまりはこれが、この「後世への最大遺物」のテーマである。

もちろんこういうことを考えるのは、頼山陽に限ったことではない。内村はまず、後世に自分の存在を遺すツールとして「墓」を考えた人の話を始める。

 

ある種の人々は、自分の存在の強大さを誇示するためか、巨大な墓を作ろうとする。古代エジプトの王(ファラオ)は、多くの人を使役してどでかい墓を作らせた。すなわちピラミッドである。これは極端な例だが、現代の富豪でも巨費を投じて人目につくような大きな墓や記念碑を建て、それを自分が存在した証にしようとする人がいる。日本にもアメリカにもどこにだっているものだ。しかしそれは内村の理想ではない。「キリスト教的の考えではございません」と彼は言う。でも本文を読む限り、必ずしも巨大な墓を作る人間の心理を内村は否定し去っていないところが面白い。人情として、自分はこれだけのことをしたんだから、大きな墓で眠りたいんだという気持ちは一概に軽蔑できないところがある(どことは言わないが私の家が檀家となっているある寺にも、とある企業の創業者が眠る巨大な墓がある)。

 

(下の写真)山野草ガーデンのサクラ(ソメイヨシノ)も開花しました

桜

サラサモクレン

サラサモクレン(ニシキモクレン) 花仲間ガーデン

サンクンガーデン

サンクンガーデンにはイスとテーブルが用意されています。静かな春のひと時を過ごしてください。

  • 花仲間ガーデン

(上の写真)花仲間ガーデン 右手の背の高いものはバイモ。

 

 

ここで内村が墓の話を持ち出したのは、会衆がクリスチャンであったことにもよるのだろう。敬虔なクリスチャンであるならば、この世の生涯は死後の未来へ上昇するための一つの階梯に過ぎないと思うだろう。それは、死によって永遠に生き続けるというようなことであろうか。しかし、内村の言いたいのはそういう「宗教問題」ではない。彼は一人のキリスト者である前に、一人の人間・内村鑑三としてものを言っている。そういう彼の心から、次のようなひたすらに美しい言葉が生まれる。

 

「すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。」

 

ため息の出るほど美しい、珠玉の言葉だ。直接耳にできた人が、私は本当に羨ましい。鈴木範久氏も言及しているが、内村鑑三には「美しい地球」というこの時代の人にしては珍しい宇宙規模の壮大な視点があった。これまで見てきたように、彼の生涯は、自分で招いた側面も多かったとはいえ、波乱万丈である(そしてその後の人生もやはり波乱続きだ)。しかし、それによって彼の心がおよそ卑屈に傾かなかったことが、この言葉からよくわかると思う。

こういう広大な視野と繊細かつ頑丈な詩心が、時を越えて鮮烈な内村の言葉を作った。

そしてこの言葉からは、彼の目指す「後世への最大遺物」が「墓」とはおよそかけ離れていたことも明瞭だ。墓は当然誰かしらの墓である。そして大きな墓をのこしたがるような人なら、「誰かしら」ではなく「この自分」の墓だといつまでもわかるようにしておきたいに違いない。でもそれは結局、墓の主がかつてこの世にいた、というだけのことに過ぎない。それが誰もが知る有名人であれ、皆がその人の成したことを認識しているわけではない。内村にとっては、自分がこの世において何をし、何を愛し、どう生きたのかということが重要なのだ。そういったものが具体的に表れるMemento(記念物、かたみ)を彼は「この世に置いて往きたい」と言う。

例えば、アマースト大学を卒業するにあたり、「音楽堂」や「書籍館」を寄贈する人もあったそうだ。母校を愛する気持ちから成された行為である。しかしこれらは、いちいち「誰」が遺したのかを問わなくとも有効に活用されるものだ。つまり「遺物」が遺れば名前など遺らなくていいのかもしれない。

ここで内村は19世紀英国で活躍したジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルの名を挙げる。ハーシェルは天王星の発見者として知られる父ウィリアムと同じく天文学者の道を歩んだ。特にアフリカ大陸最南端の喜望峰へ赴き、南半球の星図を作成したことで知られる。船乗りは星の位置を頼りに船を動かす。だから今日そこを航海する人はハーシェルの名を知らなくとも、自然と彼の「遺物」の恩恵を受けていることになる。これはハーシェルの墓が大きいか小さいかということとは、全く関係のないことだ。このハーシェルが20歳の頃友人へ宛てた手紙の一節も内村は引用している。

 

「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」

 

ハーシェルも、この言葉に特に言及した内村鑑三も、まさにこの言葉の通りに生きた人だと言えるだろう。

 

(下の写真) ハクモクレン ヒーリングガーデン もうほとんど散りました。

ハクモクレン ヒーリングガーデン

クレマチス アーマンディー

クレマチス アーマンディー フローラガーデンフェンスで開花中

レンギョウ

チョウセンレンギョウ スモークツリーガーデン

生命力のかたまりのような黄色い花が目を奪います

  • タチツボスミレ

(上の写真)タチツボスミレ 山野草ガーデン スミレの中では最もよく見られる種類だとか。花が咲き終わると茎が立ち上がってきます。

 

 

ここまで話してきた内村は、ようやく彼の考える「遺物」の具体的な中身に言及を始める。その最初のものは何か。

「金」だ。

これはちょっと意外である。さんざん理想に溢れた話を続けてきて、具体的なものの第一が「金」とは。聴衆も拍子抜けしたことだろう。しかし内村は真面目に言っている。何を遺すべきか考えた時に、最初に浮かんだのが金であった。自分は「実業教育」を受けたからこう考えるのだと理由を述べている。そしてこの講演をしている時点でも金が第一だと思っている。

だからと言って内村が守銭奴であったわけではない。大体彼の如き希代の世渡りベタがありふれた手段で金儲けのできるはずがないのだ。それは彼自身が一番よくわかっていたに違いない。しかし、一高をクビになり、家族も失い、職を求めて東から西へさまよった辛い過去を持つ彼だからこそ、お金の有る無しが人間に及ぼす影響を身に沁みてよくわかっていたのだ。だから内村は言う。「金を遺すものを賤しめるような人はやはり金のことに賤しい人であります。」確かにそうなのであろう。お金に興味なさそうな顔をしている人こそ陰でコソコソ貯めているものだ。内村は流浪の時代にそういう人やもっとあくどい人を何人も見てきたのかもしれない。

とはいえ誰もがお金を貯めることに長けているわけではない。蓄財能力は「天才を持っている」人にしか備わっていないらしい。そういう人は耳が「たいそう膨れて下の方に垂れているそう」だが、自分の耳は「たいそう縮んでいる」からだめだと内村は早くも諦めたようだ(ここで聴衆の「大笑」をとっている)。

しかし、ただお金を貯めさえすればいいというものでもないのである。つまり使い方の問題だ。内村はアメリカ留学中に訪問した孤児院とその創設者の例を挙げる。フィラデルフィアにあるその孤児院は、彼曰く「世界第一番」というほど大きなもので、スティーブン・ジラードという人物が一人で出資したらしい。この人物は早くに家族を喪い、一人で働き続ける生涯であった。そして「どうか世界第一の孤児院を建ってやりたい」という信念から、その遺産を全て孤児院や福祉施設建設にあてたのだという。なるほど、誰もが持つ才能ではない。お金を稼ぐ才能、それを人々のために使い惜しみしない才能。そしてそれをもって遺せる「最大遺物」。

 

 

 

(下の写真)ヤブレガサ 花仲間ガーデン

この間までセツブンソウが咲いていたエリアの片隅に群生しているこの不思議な植物。キク科のヤブレガサ(破傘)です。葉の切れ込みが深く、破れた傘に見え、また若葉が傘をすぼめたように見えることからこう呼ばれます。頭頂部に、夏、淡褐色の花を咲かせます。

ヤブレガサ

ショカツサイ

ショカツサイ(諸葛菜)

ハナダイコン、ムラサキハナナ、オオアラセイトウとも呼ばれます。中国原産で、昔三国志時代の軍師・諸葛孔明が、遠征の際栽培するよう奨励したことから一般的にはショカツサイと呼ばれます。葉は食用になり、アブラナ科ということもあり根からは油を取ることもできるそうです。

花も見る通り、爽やかな紫色でとてもきれいでかわいらしいものです。繁殖力が強く、南門の毎年彼岸花が出る緑地部分で春先に群生しており、陽を浴びて紫色が輝く様がとてもきれいです。

(下の写真)群生の様子

  • ショカツサイ

ジラード氏のような二つの才を兼ね備えていた稀有な人として、渋沢栄一の名を挙げることができるだろう。栄一の思想基盤は聖書ではなく論語であったが、彼の意識の底には内村よりも早いうちから「何を遺せるか」という問いが芽生えていたのかもしれない。この講演の中で、内村は栄一の名を特に挙げていないが、内村の言葉を読み続けていると、現代にも通じる精神に気づかされる。「金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。」しかし、その両立に意を用いない人が蓄財をすることは「はなはだ危険のこと」なのだ。格差社会という言葉が当たり前のようになってしまった今、内村の指摘する意味は重い。

(つづく)

ユキヤナギと桜

ユキヤナギと桜 通用門側駐車場周り

まだ見ぬ未来の人々へ・2(3月9日)

カッパとクロッカス

(承前)

全国に七つある官立中学校には、明治天皇の署名入りの教育勅語が与えられ、新年の授業開始を前に教員と生徒全員で勅語を拝読し、最敬礼(深々としたお辞儀である)を捧げる儀式があった。1891年、第一高等中学校では1月9日がその日にあたっていた。

 拝読式は午前8時から開始され、教員60人と生徒およそ1000人が参列。木下広次校長は風邪で欠席していたため、教頭が勅語を代読した。終了後、教員と生徒は一人ずつ前へ出て、教育勅語の天皇の署名に最敬礼することを求められたのである。

 一人目、二人目と順調に経過し、三人目の教員の番となった。一同の中でも一際背の高い、いかつい顔をしたその教員は、前に出、勅語に向かって進む。彼もまた、直前の二人と同様に振舞うものと、誰もが疑わなかったことだろう。 

ところがこの人物は、恐らくこの場にいた全ての人の予想を裏切って、少し頭を下げただけであった。つまり誰が見ても最敬礼と認識できるほどの深いお辞儀をしなかったのである。

 彼こそ、内村鑑三であった。そして内村のこの行為は、いわゆる「不敬事件」として、日本中を騒がせることになるのである(不敬と非難された事件はその後も度々世間をにぎわせたが、今でも「不敬事件」と言えばこの内村のケースを指すことが多い)。

 

(下の写真)梅園の様子

梅園の様子

ユキワリソウ

ユキワリソウ

全校の生徒教員の面前で起こった事件であるだけに、内村への非難の声はまず校内から上がった。愛国心の強い一部の生徒が最初に問題にしたという。若者は火がつきやすい。生徒の中には内村の自宅に投石する者も現れた。内村の行為への批判は生徒から教員間を経て校外へと広がり、収拾がつかなくなるほどの凄まじさを見せ始める。学校運営への影響を恐れた木下校長は内村に懇請し、20日後の1月29日には最敬礼のやり直しが行われることとなった(ただし内村本人はインフルエンザに罹患して病床にあったため、同僚が代行したという)。しかし事態はそれで収まるどころか悪化の一途をたどり、内村への非難は全国的なものとなってゆく。ついには学校にも居られなくなり、2月には退職(事実上の免職)を余儀なくされた。せっかく懐かしの母校に赴任したのに、まだ半年も経っていなかったわけだ。

 親族からも距離を置かれ、職も失い、もちろん訪問する生徒もいなくなった病床の内村は妻と2人の寂しい生活となった。妻・加寿子は、内村鑑三の身内というだけで、買い物に出るのも難儀するようなひどい目に度々遭ったという。そして夫を看病するうち自分も感染し、それに心労も重なったためか、事件から3ヵ月後の4月には亡くなってしまうのである。まだ23歳であった。しかも最敬礼のやり直しをしたことにキリスト教界からの批判も集まり、まさに内村は四面楚歌の状態に置かれてしまう。

彼は早い時期からJesus(イエス、つまりキリスト教)とJapan(日本)の両者を愛し、献身するとの意味を持つ「2つのJ」を自らの心情としていたが、この不敬事件によって「それぞれのJの側から反撃をくった」(亀井俊介)わけだ。現世超越的な宗教と、現世そのものというべき国を共に愛する、という矛盾の避けられない姿勢に潜む落とし穴に、見事はまったとも言えよう(だからたとえこの事件が起きなかったとしても、いずれ彼は似たような事態を引き起こしたことだろうと私は思う)。

それにしても、なぜ内村の行為がこれほどの激しい非難を呼んだのか。

 

(下の写真)斑入りクロッカス

斑入りクロッカス

ロニセラ・フラグランティシマ

ロニセラ・フラグランティシマ(牧場ガーデン)

キクザキイチゲ

キクザキイチゲ(花仲間ガーデン)

イチリンソウと間違えてしまいますが、イチリンソウの仲間だそうです。

イチゲは「一華」と書き、イチリンソウは「イチゲソウ」とも言います。

彼が問題とされたのは、天皇の署名に最敬礼しなかったことが、「不敬」、つまり天皇への敬意を欠くことだと見做されたからだ。天皇は大日本帝国憲法において、神聖にして不可侵の存在であった。そういう常人を超越した無謬である存在(たかが「署名」であっても)に対して、全くの一個人が「ノー」を突きつけたのだ。大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)は、1889年2月に公布され、翌年の11月に施行されたばかりである。つまり天皇の権威が明文化されてからまだ日が浅い。それなのにもうこのような態度を取る人間が現れたのだ。誰にとっても大きな衝撃であったに違いない。恐らく近代日本にとっては、公の場で天皇の権威を否定する人間を目撃した、ほとんど最初の経験だったのである。とはいっても、内村が「不敬罪」に問われたわけではない。天皇本人ではなく、あくまでその「署名」に対する行為であったからか、一応(本人ではないが)最敬礼のやり直しが行われたからか、内村がこの件に関して官憲のお咎めを受けたという記述は彼の伝記にはない。しかし「社会的制裁」という面から考えると、内村に加えられたそれはあまりにも苛烈を極めたのである。

 

では内村の真意はどこにあったかということをおおまかにまとめると、次のようになるだろう。自分はキリスト者である。キリスト者にとって、「最敬礼」にあたるほどの拝礼は、信仰の対象であるキリスト教の神にしか捧げることはできない。いくら天皇が地上の権威者であるとはいえ、彼は神ではないのだから、同じこと(最敬礼)はできない。それはその人間を絶対視することになり、偶像崇拝にもあたる。キリスト者である自分の良心が許すことではない。

もっとも彼が最初から最敬礼の拒否をはっきり決めていたかどうかは微妙なところである。後年(恐らく不敬事件から10年後くらいに)内村の演説を直接聞く機会のあった正宗白鳥は、英国の政治家クロムウェルの伝記を読んで以来、自分は権威者に頭を下げるまいと決めていたのだ、という趣旨の内村の勇ましい発言を記憶に留めている。

だが実際は勅語の前に立つまで、内村は迷いと逡巡の中にあったと捉えるべきだろう。そして彼が自分の行為に強いストレスを感じたのも確かなことである。先述の通り内村は事件後インフルエンザにかかり、一時意識不明状態になってしまったそうだが、それは自分の行為が起こした大騒動に直面した彼の神経が限界に達し、心身ともに疲弊してしまったことを物語っている。彼は強い信念を持って行動するタイプの人だったが、その結果引き起こされる波乱に自ら振り回される場面もとても多かったのだ。

とはいえ彼の信念の強度にも疑問を感じなくはない。結局内村は最敬礼を行うことは認めているのである(ちなみに内村の代わりに教育勅語に最敬礼した教員もクリスチャンで、事件後退職している)。木下校長は、勅語に敬礼することは天皇への尊敬の表明にあたるもので、宗教的礼拝とは意味合いが違うと内村を諭したそうだ。内村は「2つのJ」などと言っていたくらいだから、皇室と天皇への敬意の念も人並みにはあっただろうし、恐らく高熱にうなされていた彼にはもはや校長の説得を拒否できるほどの意志も体力もなかったのだろう。こういうところはある意味で、人間内村の持つ弱さの表れとも思える。

しかし同じキリスト教信者の間からは、最敬礼に同意した内村を不徹底で権力に屈したと咎める声が多かった。実はこの「不敬事件」は、一人内村鑑三だけが糾弾されたのではなく、キリスト教自体への大きな批判に発展している。地方在住の信者には村八分扱いされた人も多く、それも一年や二年で解消されるものではなかったそうだ。この事件の裏には、キリスト教に反感を持つ仏教者や、国家主義的勢力が大衆を煽った側面もあった。内村鑑三は、お辞儀が深い浅いという程度の問題で、盛大に「炎上」したのである。

 

(下の写真)梅園の梅

梅園の様子

プリムラ・マラコイデス

プリムラ・マラコイデス(花仲間ガーデン)

  • スイセン テータテート

(上の写真) 水仙 テータテート(tete a tete)

正門駐車場すぐ南のケヤキの足元で開花中。この高さ以上には育たないかわいいスイセンです。

 

(下の写真)レンギョウ カエデ通り梅園の向かい側

レンギョウ

ヒーリングガーデン クロッカス

ヒーリングガーデン クロッカス

 

運命の時は過ぎ、内村は全てを失った。それでも彼は生きている。生きている以上は、この身をどうにかしなければならない。

1891年5月、病気から回復し一人になった内村は、学生時代を過ごした札幌へ行く。旧友・新渡戸稲造たちの招きによるものだったらしい。では失意の内村を新渡戸が慰めたのかというと、どうも新渡戸すらこの時の内村には冷たかったようで、内村は6月になると札幌を離れている。7月には弟・達三郎の住む新潟の高田へ赴くが、ここも伸び伸びと過ごせる場所ではなかったのだろう、やはり1ヶ月で後にしている。事件への風当たりは未だ強く、ある意味で全国的有名人となってしまった内村には、どこも安住の地ではなかった。本名では相手にしてくれないので、偽名で宿泊したこともあったという。

しかし翌1892年になると、いくらか風向きも変わり始める。この年5月、内村は大阪にある泰西学館という学校へ、地理・歴史・天文の教師として着任。よく彼を雇う人間がいたものだと思うが、どうもこの学校の校長は経営建て直しのため内村の知名度(?)を利用して生徒を集めようとした節があるようだ。ただし学校の規模も小さく給料の支払いにもムラがあったため、彼の心もとない経済状態が改善されるわけではなかった(それでも内村が赴任したことで生徒の数は増えたそうだ)。

私生活では、12月に内村は4人目の妻・静子を迎えている(彼はこの年の春ごろに3度目の結婚をしているそうだが、その詳細は今もよくわかっていないらしい)。これまたよく彼に嫁ぐ女性がいたものだと思うが、弓術家であった静子の父は、内村に多くの敵がいることをむしろ気に入って娘を送り出したという。彼女は内村が1930年に亡くなるまで添い遂げた。

しかしこの学校に在任中の1893年1月には、国家主義的言動で知られた東京帝国大学教授の井上哲次郎(通称イノテツ)が、不敬事件を蒸し返す論説を発表したため、内村も反撃し、論争となる。事件の余波は2年経ってもなかなか薄れなかった。そして4月には、学校の運営をめぐるいざこざに巻き込まれ辞職。今度は熊本英学校の講師となるが、これは3ヶ月間の短期的なものだった。

こうしてざっと眺めてみただけでも、東京から札幌~新潟~大阪~熊本と移動を続け、内村はまさに「流浪の民」である。米国での模索の時期からおよそ10年。再び彼に訪れた「遍歴の時代」であった。

 

(下の写真)シナマンサク ヒーリングガーデン

シナマンサク

サラサモクレン

サラサモクレン(ニシキモクレン) 花仲間ガーデン

蕾が膨らみ開花間近。

  • 梅園の様子

熊本での任期を終えた内村は1893年7月に京都に移住。この「京都時代」は、不遇ではあったが精神的には実りの多い時期だった。内村は書くことへの情熱を見せ始め、代表作として知られる著作を相次いで生み出すのだ。

1893年には『基督信徒の慰(なぐさめ)』、『求安録』を刊行。そしてこの年11月には「How I became  a  Christian」(余は如何にして基督信徒となりし乎)を書き上げる。これは日本から米国へ旅立った若き内村の魂の遍歴を綴ったもので、国際的にも広く読まれることとなる。94年には『伝道之精神』、『地理学考』が出ている。不敬事件は内村に様々な試練を与えたが、同時に「一連の苦しみこそは鑑三に書くための火種をあたえた」(小原信)とも言えるのだ。また、教師としての情熱は人一倍だが人間関係が不得手な内村は、「自分が「学校事業」にむいていないことをさとり、文筆でもって立とうと考えはじめた」(亀井俊介)ということもあっただろう。のちに彼はジャーナリストとしても活躍し、その文章は広く人々の心を掴んだが、彼の文藻を豊かにしたのは、皮肉にもこの金銭的には恵まれない時代だったのかもしれない。

京都に居を移した内村は、それまでの生活と比べれば平穏な時を過ごしていたように思える。1894年3月には静子との間に次女・ルツ子が生まれる(長女は1回目に結婚した女性と離別した後に生まれている)。ルツ子は18歳で亡くなってしまうのだが、彼女の存在が内村に与えた影響は大きい。この年は1月から、地元京都の第三高等学校にあるキリスト教青年会(YMCA)の日曜学校で、聖書の講義を開始している。聖書講義は、東京に転居した後も内村の活動の中心となるが、その原型はこの京都時代に形成されたようだ。そして前年の兵庫・須磨に続き、彼はこの年の箱根夏期学校における講演を依頼されるのである。

こうしてようやく私たちは、1894年7月の箱根へ戻ってくることができた。

(つづく)

まだ見ぬ未来の人々へ・1(2月19日)

人の一生の大半は働くことに費やされる。自分が生活していくため、家族を養うために人は働く。その役割を果たすために生き、自分の好きなことをして残りを過ごす。そんなものかもしれない。しかし、本当にそれだけだろうか。自分の一生が完結した後も、自分がその存在を知ることもない未来の人々へ、何かを遺していきたい。そんな思いはたとえ夢想に過ぎなくとも、誰しも一度は抱くものではないだろうか。

 

(下の写真)シナマンサク

シナマンサク

スイセン

スイセン(花仲間ガーデン)

クリスマスローズ

クリスマスローズ(花仲間ガーデン)

1894年7月16日、箱根は芦ノ湖のほとりに位置する石内旅館。これから盛んになってゆく暑さを思わせる時期であるが、湖畔の宿は清涼の気に満ちていた。湖畔、と言えばこの宿は、かつて洋画家の黒田清輝が、代表作の「湖畔」を制作した場所であるらしい。うちわを手にしたまま湖に背を向けて画面の手前に腰かけ、どこか遠くを見つめる若い女性の描かれた、日本の洋画史には欠かせないあの一枚である。モデルは黒田の夫人であった。

 1934年に刊行された名所案内記には、「旅館「石内」は旧本陣でいろいろと古文書を所蔵している」(松川二郎)とある。現在はもう存在しないようだが、歴史と由緒ある旅宿であったらしい。

 しかし、この日この宿がとりわけ清涼な雰囲気を漂わせていたのは、ここに集まっていた人々にも理由があったのかもしれない。石内旅館では、2日前の7月14日から、キリスト教青年会(YMCA=Young Men‘s Christian Association)による夏期学校が開催されていたのだ。

 

 キリスト教青年会は英国の発祥である。日本では1880年に東京青年会として成立。キリスト教信仰に基づいて会員の心身育成と理想社会建設を目指している。1889年から米国の同趣旨の組織にならって、毎年夏に各大学のクリスチャンの学生を集めた夏期学校を開くようになった。主に聖書の講義や著名人の講演を行っていたらしい。会場は関東と関西を交互にめぐり、1894年の6回目の夏期学校は関東で開催される番であった。

 講師として、著名なキリスト者である海老名弾正(だんじょう)、植村正久、大西祝(はじめ)、巌本善治などが招かれた。集まった学生は99人と記録にはあり、中には後の洋画家、和田英作らがいた。

 白い月明かりにやんわりと包まれた山上の宿は静謐そのものであったが、下界、すなわち山の下の一般社会はこの時騒然としていたと言っていい。 

 1894年は日清戦争開戦の年である。まさにこの7月16日、日本は英国との間に「日英通商航海条約」を結ぶ。これは清との開戦に踏み切る上で、列強の英国を見方につける意味があったとされる。そして9日後の7月25日には、翌年の11月まで続く戦争が始まるのだ。

 やや浮世離れのした会場ではあったが、清との戦争に突き進む祖国の姿勢をめぐって、賛否を含んだ様々な意見が交わされたことだろう。勇ましい議論を戦わせる連中もいたのではないか。しかし、むしろ参加者の間では、これから始まる講演とその登壇者について、期待といくらかの野次馬的興味の入り混じった憶測が飛び交っていたと思われる。何と言っても今回講演に招かれたのは、これより3年前、日本中の注視と指弾の的となった、キリスト教界ではおよそ知らぬ者のない人物であったからだ。

(下の写真)スノードロップ 花仲間ガーデン

スノードロップ

フクジュソウ

フクジュソウ 

定刻となった。満場の注目を浴びて、一人の男が会衆の前に姿を現す。身長175センチ。ニーチェにも例えられた、彫りの深い顔立ち。黒々としたヒゲと眉。そして相手の心奥まで見透かすような透徹した深い眼差し。およそ日本人離れのした特異な風貌である。その姿を見て、話の始まる前から既に圧倒された者もいたことだろう。

 彼の名は、内村鑑三(うちむら・かんぞう)。この時33歳。聴衆を見渡した内村はおもむろに第一声を放った。

 

「時は夏でございますし、処(ところ)は山の絶頂でございます。」

 

 さて、彼はこれから何を話そうというのだろうか。そしてこの男は一体何者か。この時内村鑑三の行った夏期学校での講演(16日の夜、17日の朝と2回に分けて行われた)は、のちに『後世への最大遺物』として刊行され、時代を越えて多くの人々に強い感銘を与えることとなる。しかし、その内容について述べる前に、まずはこの日この場にやって来るまでの内村鑑三の軌跡について、なるべく大づかみに、ただし重大な部分はやや詳しく振り返ってみたい。

 

(下の写真)セツブンソウ 花仲間ガーデン

2月中旬となり、花よりも葉が目立ってきたため、もうじき見ごろは終わりです。

セツブンソウ

  • 白梅と紅梅

内村鑑三は1861年江戸に生まれる。父は高崎藩士。生まれてじき家族と高崎へ戻り、幼少時代を過ごす。1874年、13歳で再度上京し、東京外国語学校で学ぶ。3年後に卒業すると、北海道へ渡り、札幌農学校に第2期生として入学する。

札幌農学校は明治政府が新天地・北海道の開発に携わる若者を育成するために設立した学校であり、その教頭として米国から招かれたのが、かのウィリアム・スミス・クラーク博士だった。そう、ボーイズ・ビー・アンビシャスのあの人である。

 だが内村が入学する前年、1876年にクラークは帰国していたため、内村は直接クラークの薫陶は受けていない。ニアミスというやつである。しかし1期生であった先輩生徒の間では、まだキリスト教を背景にしたクラークの影響と感化は濃厚であり、内村は彼らに半ば強制されるようにして17歳で洗礼を受ける。キリスト者・内村鑑三の出発である。ちなみにこの時、農学校の同級生であった新渡戸稲造(当時は太田姓)も受洗している。旧五千円札の額面の人、という印象が先行しているが、新渡戸はのち京大・東大教授となり国際連盟事務次長も務めた思想家だ。内村とは終生の友人であった。

 20歳で農学校を卒業した内村は、北海道開拓使勤務などを経て1883年農商務省に入り、『日本魚類図鑑』の作成に従事したりしているが、翌84年の11月に米国に渡る(この年3月に内村は最初の結婚をしているが、7ヶ月ほどで破れ、それも渡米の弾みになったと言われる)。2ヶ月の船旅を終え翌年1月に到着した後はペンシルヴァニアの障がい児施設で半年間働き、その後マサチューセッツ州のアマースト大学に入る。ここはクラーク博士の母校であり、内村は彼とも面会できたらしい。しかしこの大学の学長であったユリウス・シーリーという人物こそ内村の目を開かせた恩人であった。シーリーは自らの進むべき道を探しあぐねる内村に、自分の内面ばかり見つめていてはいけない、君はもっと広い外の世界へ目を向けなければならないという意味のことを諭した。その恩師の言葉は「回心」を自覚するほど内村を強く揺り動かし、彼の人生航路の指針となったのである。

 

(下の写真)梅園 白梅も紅梅も花ざかりです。

白梅

紅梅

紅梅

白梅も紅梅も花ざかり

白梅と紅梅

  • シナマンサク

3年間の修学を終えて1888年5月に故国の土を再び踏んだ内村は、同年9月から新潟の北越学館というキリスト教系の学校の教頭となる。しかし教育方針をめぐって外国人宣教師と対立し、わずか3ヶ月で退職。帰京する。内村の前半生には、学校に就職するも短期間で辞職というパターンが多く、このため彼は「学校やぶり」というありがたくないあだ名をつけられることにもなる。

 教職に熱意を燃やす内村は、1889年3月から東洋英和女学校と東京水産伝習所で再び教壇に立つ。この年二度目の妻・加寿子を迎えている。内村鑑三が水産所講師というのは意外な感じがするが、彼は札幌農学校時代に水産学を専攻しており、役人時代には、アワビの卵子を発見するという極めて珍しい成果を挙げている。とは言ってもこの両校での赴任は短期的なものだったらしく、翌年には退いているようだ。

 そして1890年9月、内村は第一高等中学校嘱託教員となるのである。

 

(下の写真)ユキワリソウ 山野草ガーデン

ユキワリソウ

サステナブルガーデン

サステナブルガーデン 小人たちの花園みたいになっていてちょっとしたフォトスポットです。

  • マンサク

(上の写真)マンサク シナマンサクと違いくすんだ色をしています。梅園の脇。

 

第一高等中学校は内村も学んだ東京英語学校の後身であった。彼は母校に教師として戻ってきたことになる。(後に東京大学予備門に改組)。この時代全国には第一から第七までの官立中学校があった。第一高等中学校は通称一高と呼ばれるが、七つのうちの筆頭であったと言えよう。内村は英語、地理、歴史の授業を受け持ち、課外に生徒を自宅に招くほど熱心な教員であったという。かつて自分も通った学び舎に集う若き学徒たちに、熱心に指導する内村の姿が目に浮かぶ。話の上手い彼の授業振りに魅了され、多くの学生が結婚後日の浅い青年教師の家の門をくぐったと思われる。教師内村は、担当教科に関係したこと以外にも、米国での模索の時代のエピソードを披露するなどして、自分の経験が少しでも後輩たちの進路に資するものとなればと願っていたことだろう。このまま何事もなく過ぎていけば、かつて一高に内村鑑三という名教師がいた、という程度で彼の名は語られるに過ぎなかったかもしれない。しかし、内村の人生を決定的に変えるその日は、着々と近づいていた。

(つづく)

※5回に分けて連載します。

眠りについての蛇行的覚え書(2021年2月2日)

(下の写真)セツブンソウ 花仲間ガーデン

        例年節分の前後に咲く、初春の緑の王国の風物詩。今年は124年ぶりに

 節分が一日早まるようだが、セツブンソウもそれに合わせるかのようにして一日一日、咲く数が増えている。

セツブンソウ

いつになっても眠れないというのはいやなものである。ひたすら無為に時間が過ぎていくだけで、身体も休まらず、次第に底なし沼にはまったような救いのない気持ちになっていく。

人はどういうメカニズムで眠りにつくのだろうか。例えばこの門をくぐった先が眠りだ、という風に、ある一点を越えるとストンと睡眠に入るものなのか、それとも徐々に体が覚醒の状態から眠りの状態へと移行していき、いつの間にか白河夜船の境地に達してしまうものなのか、自分の体ながらこれはどうしてもわからない。わからないのだが何としても不思議でたまらないので、いつか確かな答えを掴みたいのだが、布団に入ってからそんなことを考え始めると、まず確実に眠れなくなってしまうので、未だにはっきりさせることができない。猫が自分の尻尾を追いかけるようにキリのないことだと思うが、どうにも諦めきれない気持ちが常に私の中にあるのである。

(下の写真)スノードロップ 花仲間ガーデン

  小人の街灯のようでかわいい。

スノードロップ

眠ることに「儀式」を必要とする人がいることだろう。例えば100人のお坊さんが唱える「南無妙法蓮華経」のテープを逆立ちしながら聞くとか、うつぶせになってマーボー豆腐のことを考えるとか(まあ、人それぞれだ)。しかし世の中には何も考えずに布団に入って3秒ほどで就眠してしまう人もいるという。驚異的である。爪の垢を煎じて・・・(いや感染症の懸念を考慮してやめておいた方がいいか)。

私も最近、そういうある種の「儀式」を案出した。案出なんて役人のような硬い言い回しはよくない。自然とそれをするようになった。

これまでに手放した本のゆくえを思い浮かべることだ。

 

私にとって本は、ちょっと油断するとすぐ増えてしまうシロモノである。どこかから勝手に飛んできて私の部屋に居座ってしまうらしい。困ったものだ。

だから近年は、もう再読することのなさそうなつまらない本や、買ってから時間が経ちすぎて興味をなくしてしまった本などはさっさと手放すことにしている。つまらない本なんか身近に置いておきたくないし、見向きもしたくなくなるのだ。

そういう本たちを詰めておいた段ボール箱がいっぱいになると、日本の真ん中のあたりへ郵送している。そんな風にしてもう千数百冊は手放したことだろう。箱のふたを閉じた時点で、私がそれらの本に再びまみえることはない。運送業者が重たげに箱を担いでトラックへ向かってしまえば今生の別れである。しかしどうせつまらなかった本どもなのだから、感傷は微塵もない。せいせいした、というのが正直な感想である。私は余計な財産を作らずいつまでも身軽でありたい人間なので、これからもこうして本を処分し続けていくことだろう。

そうして私の元を去った本は、それからどうなったのか、暗闇の果てにある天井を透視しながらおぼろに思い浮かべるのだ。

(下の写真)フクジュソウ 山野草ガーデン

 明るく大きな黄色の花に春の兆しをはっきりと感じる。

フクジュソウ

  • ギョリュウバイ

(上の写真)ギョリュウバイ サステナブルガーデン

 

本の身になってイメージしてみよう。運送屋のトラックに乗せられ、ガタゴト道を揺られ、近くの集荷センターに着き、日本の真ん中の方へ送られる荷物エリアに一旦置かれる。そしてしばらくして別のトラックに積みこまれ、再び長い旅をして、ある古書業者の元に到着する。従業員は、私がへたくそな手つきでとめた段ボールのビニールテープをめんどくさそうな顔しながら剥がし、中の本を取り出し、机に置き、精算し、棚に並べることだろう。さっきまで私の「元」蔵書として形成されていた秩序は、他の無数の本に紛れて完全に解体してしまう。

そしてその後はどうなる?値段のつかなかった本の運命は?私がつけた書き込みやドッグイヤーや、もっと前の持ち主が手荒に扱ったせいで外れかけたページがあるために、商品とはならなかった本のゆくえは。

一般的には再生紙に生まれ変わるようだ。再び私の空想が機動する。評価価格「ゼロ」円の本たちは、もはやただの紙の束としてトラックの荷台に投げ込まれ、製紙業者へ運び込まれる。到着すると、溜められた水の中にどばどば落とされ、ぐるぐる回る巨大な泡だて器のようなもので撹拌され、そうしてペースト状になった元「本」たちは、段ボール箱か何かに生まれ変わるのだろうか。切ない話である。さっき私がすれ違った引越し屋のトラックに積まれていた段ボール箱の一部が、こんなつまらない本、と私が呆れたあの一冊だったかもしれないのだ。

では、値段がついて新しい持ち主の手元へ渡った本たちは? どんな人が、私が見捨てた本をわざわざ買い求めるのだろうか。送られてきたその本をどんな気持で手にとる?(こんなデザイン・センスのない表紙だとは思わなかった、とか)。本棚は家の中のどこにあるのか?隣に並ぶ本は何だろう?本ではなくて、まねき猫でもデンと置いてあるかもしれない。そして、私が奥付の部分に貼ったままにしておいた蔵書番号を捺した付箋(すなわち、以前の持ち主の痕跡)を見て、何を思うだろうか?(こういう几帳面な人とはソリが合わないだろうな、とか)。

全てに確かな答えはない。思い浮かべる度に答えは変わる。自由で適当な空想のひととき。だからこそ、私はいつか安心して眠りにつけるのだ。

 

 

(下の写真)梅園の梅も咲き始めてきた。2月初頭で二分咲きといったところ。本当の見ごろはこれからだ。

梅園

かつて自分の一部だった本。今はどこか遠くへ巣立ってしまった私の断片。その一冊一冊に、ページをめくっていたときの私のかけらが潜んでいる。こんなに面白くないと思う訳は何なのか?自分がつまらない人間だからそう感じるのか?本を前にしての自分との堂々めぐりの対話。本は自分を手にしていた持ち主の姿を記憶する。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害され非業の死を遂げた哲学者、ヴァルター・ベンヤミンは「蔵書を見ればその所有者のこと─その趣味、興味、習慣─が分かる、と語っていた。」未だ手元にある本のみならず、既に放棄された本も、所有者(だった人物)の断片を秘めている。

 

「人は自分が書物を保存しているのだと信じて書物を収集しているが、実際には、書物のほうが、その収集者を保存しているのだ。「収集者の中に書物が生きているのではない。収集者のほうが書物の中に生きているのだ」とベンヤミンは断定している。」

(ティモシー・ライバック 赤根洋子・訳『ヒトラーの秘密図書館』文藝春秋刊より)

 

私は千数百冊の本の一部となって、この国のあちこちに散らばっている。

梅園

眠りに入るまでのひとりの時間を、自分にまつわる物事について、あれこれ思いをめぐらせて過ごす。いつしか忘我の境地に達する。自らに関することであれば、他の誰よりも隅々まで知り尽くし、自在に回想の糸を手繰っていけるはずだ。ただ、ここで注意しておかなければならないのは、頭を働かせすぎないこと。周囲が暗く、目に入ってくる情報量がなくなるせいか、闇の中で頭を回転させ始めるといつもの倍はよく回る気がする(もちろん気がするだけ)。そうして力を得た想像力はいつしか眠気を奪い、却って目をはっきりと見開かせてしまうのだ。円滑に眠りに入るための儀式がこれでは本末転倒であって、ならば何も思わず何も考えない方がいい。それで眠れるならば、の話だが。

スノードロップ

眠りに入るまでの時間、人はどうしようもなくひとりである。誰も私の手を引いて眠りの中へ導き入れてくれはしない。眠る以外何もすることがないからこそ、次々と頭の中を想念が駆けめぐる。そういうどうしようもないひとりの時間は、何も布団の中でウトウトしているときだけに限らないだろう。例えば独房に入れられたときとか。

 

カミュの『異邦人』の文中、とりわけ印象に残った箇所がある。浜辺でアラビア人を殺めた主人公ムルソーが、独房に収監される。しかしこれといってすることはなく、自分と向き合う他ない。ムルソーはどうやってその退屈な時間を潰したのだろう?その対処法が私にはとても興味深かった。少し長くなるが、味わい深い描写なので、下にその全てを引用してみたい。

 

「時には、自分の部屋に思いをはせたりした。想像のなかで、私は部屋の一隅から出て、もとの場所まで一回りするのだが、その途中に見出されるすべてを、一つ一つ心のうちに数えあげてみた。最初は、すぐ済んでしまったが、だんだんとこれを繰り返すたびに、少しずつ長くかかるようになった。というのは、私はおのおのの家具を思い出し、その一つ一つの家具については、どんな細かな部分までも思い出し、その細かな部分、象眼やひびや縁のかけ落ちたところなどについては、色あいや木目を思い出したからだ。同時に、私は自分の財産目録の手がかりを失わないようにして、完全な一覧表を作り出そうと試みた。その結果、数週間たつと、自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、何時間も何時間も過ごすことができた。こういう風にして、私が考えれば考えるほど、無視していたり、忘れてしまっていたりしたものを、あとからあとから、記憶から引き出してきた。そして、このとき私は、たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所で生きてゆかれる、ということがわかった。そのひとは、退屈しないで済むだけの、思い出をたくわえているだろう。ある意味では、それは一つの強みだった。」

(アルベール・カミュ 窪田啓作・訳『異邦人』新潮社刊より)

 

自分にまつわる物事を回想していればおのずと時間は経っていく。ムルソーは独房に入れられて初めてそのことに気づき、そして囚われの身でありながらそれまでよりも自由な人間に生まれ変わった。ここに書かれたことは眠りに入る儀式としても応用できそうである。身の回りの暗闇に息潜めている家具、調度、衣服。別の部屋で誰からも手を触れられずに眠っている食器や洗面用具。それを重ねた順番や置いたときに立てた音の残響を振り返る。もちろん、それが正しいかどうかなんて知ったことではない。あくまでも眠りに入るための手段なのだ。しかし、新たな疑問も湧いてくる。眠るまでのわずかな時間を通過するために、囚人が果てしない時間をやり過ごすのと同じ手続きを踏むとしたら、眠りとは自分を牢獄に閉じ込めることなのか? だって、眠っている私たちは朝になるまで自分の身の回りで何が起こっているか一切わからないではないか。獄中の囚人が社会で起きているあれやこれやから切断されているのと何が違うのか?

 

 

(下の写真)カエデ通りの梅 こちらは紅梅の方が先に開き始める。

梅園

科学的な観点から言えば、眠りとは一日の疲労が蓄積した身体を休ませ、また新しい朝へ向け心身共にリセットするために必要とされるものだろう(しかし眠りについては未だ科学的によくわからないことが多いという)。

だが、角度を変えると、眠りに面白い定義づけができることもある。

ここで、英単語の「breakfast」を取り上げてみたい。意味は「朝食」。この単語は「break」と「fast」の二語が結合してできている。単純な話である。眠りとは何の関係もなさそうだ。それでは、それぞれどのような意味を持っているのか。

まず「fast」から。これは「破る」を意味する。破壊する、終わらせる、と解釈してもいい。では「break」は?

「断食」である。一晩続いた「断食」を「破る」のが「朝食」。なるほど、眠りながらものを食べる人はそうはあるまい。だから、誰しも眠っているときは「断食」していることになる。これはなかなか面白い発想で、「断食」という習慣のない我らジャパニーズピープル(体重計に乗るのが怖い人は別だろうが)からすると、目からウロコが落ちたような気分になる(そんなもの落とさないように毎日顔は洗わないと)。

ということは、この単語の裏には、「眠り=断食タイム」という発想が横たわっていると思える。この単語を作った人にとっては、睡眠なんか食べる喜びの剥奪でしかなかったのかもしれない。いつごろ成立した言葉なのかわからないが、こんな風に誰かの思考の痕跡が、言葉の中に封じ込められていることがある。

 

 

(下の写真)フクジュソウ ついこの間芽が出ていたと思ったらもう咲いてしまった。早いものだ。

フクジュソウ

春眠暁を覚えずと言う。春が来れば、何もしていない時にはひどく眠くなる。何かをしていてすら眠くなる。どうしたものか。

 こうも眠くなるのなら眠ったまま仕事ができればいいなどと思ったりもする。例の猫型ロボットの秘密道具に、それで頭を叩くと自分の分身が現れるというハンマーがあった。嫌な用事がある時など、出現した「もう一人の自分」に代わりに行ってきてもらえるという、まことに便利なアイテムである。のび太が喜んでいた。ただし本人が本当に気の進まない用事のときは、分身もすぐには出てきてくれないらしい(ジャイアンのリサイタルとかテストの返却日とか)。人間は難しいものである。

 ところが世の中は広くて奇妙なもので、眠ったまま仕事をして名を残している人も中にはいるらしい。どんな仕事か?アメリカ合衆国大統領。

 

 

(下の写真)白梅 梅園

 梅の花はよく見ると面白い形をしていて、花弁の中から伸びるしべがまるで寝癖のように私には見える。

梅園

現在は前年の選挙で当選した候補がこのポストに就任する日付は、翌年の1月20日と決まっているが、1934年までは3月4日が就任式であった(約40日繰り上がった理由は、世界恐慌のさなか1932年11月に当選したフランクリン・ローズベルトが、翌年3月に就任するまでの間に景気がますます悪化してしまったからだそうだ。金の力が制度を動かしたようである)。

1849年3月4日・日曜日、ジェームズ・ポーク大統領は4年間の任期を終え退任。当選者であった老ザカリー・テイラー将軍が直ちに後任に就く予定であった。ところが熱心なクエーカー教徒(プロテスタントの中でも特に厳格な宗派)であった新大統領は、安息日の日曜日に就任式を行うことをどうしても承知せず、わずか一日ではあるが、大統領の座が空席になってしまうという困った事態に(安息日とは、6日間で世界を作った神様が、さすがに息切れがして休暇を取った7日目のこと。だから人間も労働をしてはいけない)。

そこで当時上院の枢要なポストにあったダヴィッド・ライス・アッチソンという人物が、テイラーが心置きなく就任宣誓に臨むまでのたった一日間、大統領になったのである。最も、ものの本にはこう書いてある。

 

「アッチソンはその間もっぱら居眠りに時を過ごし、大統領としての職務をひとつも行わなかった」

 (R・リプレー、庄司浅水・訳『世界奇談集』河出書房新社刊より)

セツブンソウ

興味深いことに、ジェームズ・ポークという人は歴代で最も働いた大統領とも言える人で、4年間の任期中、37日しか休暇をとらなかったとされる(年間約9日!)。その甲斐もあって4年にしては特筆すべき業績も多いのだが、過労のためか退任後3ヶ月と10日で急死(まだ53歳だった)。その“後任者”が与えられた任期を眠って過ごしたというのだから、世の中よくできているものである。最もアッチソンは歴代大統領にはカウントされていない。そしてポーク大統領も、恐らく睡眠も大して取らずに過労死するほど働いた割には、後世の知名度は今ひとつである。

 

 何はともあれ眠りというものはやはり人間にとってこの上なく大切なものであり、これがなければひとの心も体も大変なことになる。文字通りの「断食」をすれば、胃の中は空っぽできれいになるだろう。同じように眠りは頭の中を整理する。決して眠っている間は何もしていないわけではないのである。外山滋比古の『思考の生理学』という面白くない本(今ごろ段ボール箱になっているかもしれない)によれば、英国の文豪ウォルター・スコットは、何か悩み事があったり考えに行き詰ったりすると、とにかく眠ることにしたという。そして朝目覚めてみると、起きていた時には全く浮かばなかったいい解決法にしばしば出会えたそうだ。眠ることで懸案を一旦意識の外に除外して、忘れ去ってしまうということだろう。そしてリフレッシュした頭からは、前の日まで思いつかなかった新たな発想が湧き出てきたのだ。

眠れない人は、どうしても忘れられないことに始終見張られて生きているのかもしれない。

 花も日が沈めばその花弁を畳み、眠りに入るように思える。動物と同じような睡眠ではないのかもしれないが、眠っている(活動を停止している)と考えるのが妥当と思える。千年間も眠りについていた蓮がある。一体千年間も何を考えていたのだろう、と私はいつものクセですぐ思ってしまうのだが、きっと何も考えていなかったに違いない。しかし人間が地上でもがいていた重畳たる時間の波を超越して蕾の枷を解いたその美しさが、千年前に生きていた人々をも魅了したと考えるとあまりにも果てしないことだ。何年か前東京の博物館で矢張り千年ほど前の女性に使われていた櫛を見たことがある。しばらくガラスケースの前に立ちながら、思ったものだ。この櫛は千年も前から存在して、その長い時の間、きっと様々な人間の姿を見たのだろう。だからきっとこの櫛は、今地上に生きている誰よりも人間のことをよく知っているのではないか。・・・ああ、こんなことを考えていては、結局、眠れなくなる訳だ。

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