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場内ガイド(2021年2月~)

更新日:2021年4月7日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、ほぼ毎日、緑の王国の今を更新しています。こちらもぜひご覧ください。)

まだ見ぬ未来の人々へ・4(4月7日)

(下の写真)フローラガーデン チューリップが一気に咲ききれいです。

フローラガーデン

(承前)

お金を貯める才能のない内村だが、何かを遺したいという気持ちに変わりはない。内村は次なる手段として「事業」を挙げる。

「事業」と言われても曖昧でおおざっぱである。出版も教育も福祉もみな「事業」だ。内村は、広く世のために手がけられる何らかの取り組みが「遺物」と成りうると言いたいのだろう。しかし何をするにも先立つものはやっぱりお金である。だが内村はお金がない。無いならある者から借りて「事業」を興せばいいという発想らしい。ずいぶん虫のいい考えである。とはいえ彼がそういう自分の考えに疑問を持っている様子はなさそうなので、ここでも内村は真面目にそう思っているのだと受け取るより他ない。

 しかし広い世の中には他人が新しく始めようという「事業」に気前よく出資してくれる人もいないわけではない。内村は米国人のそうした人間の名を何人か挙げる。そして「事業」の中でもっとも自分が重きを置くのは「土木的の事業」だと話を進める。

 彼がそういうものを一番重視するのは、「誰にもわかる」ものだし、彼自身「土木事業を見ることが非常に好き」だからだそうだ。確かに橋を架けるにしろ、トンネルを掘るにしろ、その必要性や作業の進展の様子は誰もが一目で分かる(トンネルは分かりづらいか)。そして多くの人がたちどころにその恩恵と利便を実感できるのも「土木事業」の素晴らしいところだ。内村はこの日講演までの時間を使い、芦ノ湖の対岸の方へ足を伸ばしてみた。すると、岸からさらに南の方に水門が見える。そこからは山の中を通るトンネルが始まっており、それに乗って湖水の水が沼津まで到達し、田畑の水を潤しているのだという(箱根用水と呼ばれるらしい)。言い伝えでは、ある二人の兄弟が、自分たちでも遺せるものは何かと考えた末に、山の上と下からコツコツと岩をくりぬき土を運び続け、長い歳月をかけてようやくこのトンネルを完成させたのだと内村は聞かされ、いたく感動したそうだ。

 兄弟には周囲の決して温かくはない視線が向けられたこともあっただろう。それでも二人は、「生涯かかって人が見ておらない」中でも偉大な「事業」を成し遂げた。これもまた、手掛けた人間が誰かわからなくなっても、後世の数多の人々が感謝してやまない遺物と言えよう。人を殺めた罪を悔いる心から、二十年を費やして耶馬渓の岩にトンネルを掘った僧侶・了海(菊地寛「恩讐の彼方に」)のように、誰に頼まれなくとも公共の利益のために歳月を捧げた人は昔からいたのである。

 この後内村は、伝道者として、さらに探検家としてアフリカ奥地に分け入り活動したリビングストンの事績に触れ、この夜の講演はお開きとなった。

 

(下の写真)ヒーリングガーデン こちらもチューリップが満開。五感を刺激する様々な草花が楽しめます。

ヒーリングガーデン

ヤマシャクヤク

ヤマシャクヤク 花仲間ガーデン ふんわりした白い花がかわいらしい。

リキュウバイ

リキュウバイ スモークツリーガーデン

  • 山野草ガーデンの桜

(上の写真)山野草ガーデンの桜 3月末まで満開でした。散るのは一瞬です。

 

 

明けて7月17日の朝、内村鑑三は前の日から列挙してきた後世へ遺すことのできる遺物を一つずつ振り返り、その三つ目として、「思想」を取り上げる。

 「事業」に次いでさらに抽象的なものとなってきた。「金」は誰の目にも見える。「事業」も、その内容にもよるがふつう形のあるものである。しかし、「思想」とは何だろうか。

 ここで内村は、再び頼山陽に言及する。覚えているだろうか、少年内村がかつてそれを読んで感激し、自分も歴史に名を遺す人間になりたいと決意を固めるきっかけとなった、「天地無始終 人生有生死」の詩の作者である(そういう意味では、この「後世への最大遺物」講演も頼山陽の遺物の一つと言えるかもしれない)。

 頼山陽は「勤皇論」の祖とされる。「日本を復活するには・・・日本の皇室を尊んでそれで徳川の封建政治をやめて・・・今日いうところの王朝の時代にしなければならぬ」という思想のことだ。しかし、山陽の生きた18世紀後半から19世紀前半は、まだ江戸幕府が盤石の支配を維持していた時期である。こういう思想を公表したところで彼の思う通りの世の中になったとは考えにくい。それくらいのことは山陽にもわかっていた。だから彼は「日本外史」という著作を残し、自分の考えを真に理解してくれるだろう後世を待つことにした。

山陽の死後およそ20年、ペリーの黒船が浦賀に姿を現し、日本は外の世界にも目を向けざるを得ない時代に変わっていく。徳川氏の260年に渡る政権もいよいよ揺らぎ始めてきた。そこで山陽の遺著が、幕末の熱血志士たちに注目され、その思想にインスパイアされたそうした連中の活躍が、やがて幕府崩壊と王政復古を導くわけだ。「山陽はその思想を遺して日本を復活させた」のである。これはまさしく、「思想」が遺物として大きな役割を果たした例ではないか(と、こういう意味のことを内村は言っているが、山陽は封建社会の変革や倒幕の意志を持って「日本外史」を書いたわけではなかったという)。

さらに内村は、17世紀英国の一人の思想家に触れる。彼は「世の人に知られ」ず、「しじゅう貧乏して」、「何もできないような人」であったが、一つの大きな「思想」を持っていた。「一個人というものは国家よりも大切なもの」という主張である。専制君主が絶対的な権力を握っていた時代に、個人の権利を国家に優ると考えていた彼こそ、ジョン・ロックであった。しかし、時代に先駆けたこうした思想を持っていたところで、現に自分の生きている時代にそれが実現するとは思えない。そこで彼も著作の形で自分の思想を遺した。「Human Understanding」という本だ。日本では「人間悟性論」と訳されている。英国ではさほど注目を浴びることのなかったこの本だが、やがて海を渡り、ヨーロッパ大陸にもたらされた。そしてロックがその存在を知る由もない後世の思想家たち(モンテスキューやルソー)がこの本を読み、感激し、ロックを土台にしてさらに彼らの思想を紡ぐのである。やがてフランスでは「一個人というものは国家よりも大切なもの」という思想が浸透し、それを基盤とした怒涛のような変動が起き、ついには王政が倒された。フランス革命である。その余波は米国にも波及し、合衆国の独立へ発展する。ハンガリーでもイタリアでも動乱が起きた。「ジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた」のだ。恐らくロック自身も、同時代の彼を知る人も誰一人想像しなかったような動きが、彼の「遺物」すなわち「思想」によって起こったのである(ロックは、市民の信任を受けて成立した政府がその期待を裏切る挙に出たとき、市民は政府を打倒して構わないという「抵抗権」を唱えており、これがフランス革命やアメリカ独立戦争の原動力になったと言われる)。

 

 

(下の写真) サステナブルガーデン こちらもチューリップが見ごろ。

サステナブルガーデン

ロックガーデン 原種チューリップ

ロックガーデン 原種チューリップ

サクラソウガーデン

サクラソウガーデン 

ブータンルリマツリ

ブータンルリマツリ 花仲間ガーデン ピンクの花が目立つ。

ミツバツツジ

ミツバツツジ 花仲間ガーデン ピンクの花がこっちもきれい。

内村は「思想」を遺す具体的な手段として「著述」と「学生に教える」ことの二つを考えていたようだ。「著述」の項目として頼山陽とジョン・ロックを取り上げたあと、それに関連して内村一流の文学論が展開されるのだが、これは長いので割愛する。ただ簡単にまとめると、内村は、文学というものは現実を変革する力を持たなければ意味がないと考えていたらしい。従って彼の理想とする「文学」は「思想」とあまり区別がなくなる。いずれにしろ、他人の受け売りではなく自分の言葉を使って物を書くことで、それを読む人に、そして現実社会に何らかの影響を及ぼさなければ、それは「遺物」足り得ないというようなことが言いたいようだ。

では後者の「学生を教える」に関わる内村の発言を見てみよう。これは内村の「教師論」とも言うべきユニークな意見である。アマースト大学時代の恩師、例のシーリー先生の言葉だそうだが、「学者」と「教えることのできる人」は違うらしい。ある分野の専門家はいくらでもいる。ただ、その分野を「自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人」というのは、「非常に貴い」のだそうだ。どういうことだろう? 内村はクラーク博士の名を挙げる。彼はもともと科学者であったが、札幌農学校時代には植物学も教えていたそうだ。内村は直接クラークの教えを受けていないはずだから、先輩からその講義の模様を聞かされたのだろう。当時植物学者など北海道にはいない頃である。だからみなクラークを「第一等の植物学者だと思って」いた。しかし渡米した内村がある学者に話を聞くと、クラークは植物学の門外漢だったそうだ。だが、そういうことは問題ではない。なぜならクラークという人は専門家ではなかったけれども、「植物学を青年の頭に注ぎ込んで、植物学という学問のInterestを起す力」を持っていたからだ。そう内村は言う。

「Interestを起す力」とは何だろう?その学問を学びたいという意欲を生徒に起させるパワー、というほどの意味だろうか。私もこのクラークの話を読んで、高校時代のある教師のことを思い出した。

Sというその先生は、私の高校2年、3年の時の担任教師である。いろいろな点でユニークで不思議な人であったが、世界史の先生でありながら、担任生徒に倫理と地学を教えていたことが殊に印象深い。なぜそんなことをしていたのかというと、センター試験にこの2分野が出題されたからである。国・英・数の基本3科目を補うために、生徒に身につけさせようとしたのだろう。S先生は倫理学者でも地学者でもなかったはずだ。しかし、地学はともかく私はこの人の倫理の授業を受けたことを一生の財産だと思っている。自分の担当科目以外を教える先生なんてどこの学校にもそうはあるまい。大体多くの日本人は学業を終えて社会に出ると、もはやろくに本も読まず、新しい知識を取り入れようともしないものだ(学校の先生に意外とこういう人が多い)。だがあの先生は専門科目でもないのにみな一人で勉強して知識を身につけ、自分の中で噛み砕いて生徒に教えていたのである(そして、生徒のためという教育者的精神よりも前に、この人自身が楽しくてこういうことに時間を割いているのだとわかるところが私はなお面白かった)。もちろん本職の世界史の授業もとてもわかりやすかった。今考えると貴重な人だったと言えるだろう。内村さんもS先生のことを聞いたら、あのいかつい顔でにっこり笑って「エクセレント!」と言ってくれただろうか。S先生もまた、「学問のInterestを起す力」を持っていた人だった。だから今思うと、あの先生に教えられたことは、本当は倫理でも地学でもない。一生学ぶことをやめない姿勢というものだったのだ。

 

ヒーリングガーデン

ヒーリングガーデン

2枚ともヒーリングガーデン。チューリップの波のようです。

内村は豊富な事例を自在に引用してくれる。「思想」が「遺物」に結びつく理由も納得がいく。彼の話を聞いていると、抽象的なことについて語るときには、例えを持ち出さなければ聞く人は理解しないということがよくわかる。これはいつの時代の誰を前にしても同じことだろう。

だが、内村の言葉の一つ一つを自分の身に照らし合わせながら真面目に聞いている人が、どれもこれもこの私には手に負えないものだと思い始めたとしても不思議ではない。「金」を貯めることもできず、何か取り組んでみたいという「事業」も思いつかず、まして時代を動かし得るような「思想」など考えたこともない。さて、どうすればよいのやら。こんな自分も「後世への最大遺物」なんて特大の理想と縁があるのかしら?

(つづく)

まだ見ぬ未来の人々へ・3(3月24日)

(下の写真)ヒーリングガーデン ジンチョウゲ(白)が満開

ヒーリングガーデンのジンチョウゲ

ハナニラ

ハナニラ 花仲間ガーデン

(承前)

これから取り上げる講演を味読する上で、やはり内村鑑三の半生を理解しておくことは無意味ではなかろう。そう思って、彼の平坦ならざる歩みを長々と振り返ってみた。今年、2021年は内村が生まれて160年、不敬事件から130年となる。そういう節目を意識したわけでもないが、いずれこの『後世への最大遺物』は読み直そうと思っていた。そろそろ内村の話に耳を傾ける時が来たようである。本文と伴走し、時に端折りながら、内村の言う「後世への最大遺物」とは何なのか、考えてみたい。

 

と、そんな風にやや気負いながら講演本文に入ろうとしているが、それほど固い内容ではない。内村の口調もあくまでざっくばらんである。「満場大笑」という言葉も本文中あちこちに見られる。なにせ内村は、立ったままでは自分の背丈が威圧感を与えてしまうとでも思ったのか、イスに座ったまま話している。そして、「キリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのは多分この講師(こうし)が嚆矢(こうし)であるかも知れない」などとなかなか読解力の試されるギャグを飛ばしている(嚆矢は一番初めということ)。案外と人間味のある人柄がうかがえる。信念一途の近づきがたい人物でなかったことが感得されよう。そして講演を始める際のお約束のセリフだが、自分の話がつまらなかったら勝手に帰って構わないとも言っている。まさか本当に帰った人はいなかっただろうが。

 

(下の写真)カタクリ 山野草ガーデン

カタクリ 山野草ガーデン

フッキソウ

フッキソウ(富貴草)アジサイ園の東

一年中葉が茂っていることから、「富貴」を連想させこの名前があります。先端が茶色く染まった白い部分は雄花の雄しべです。花弁はありません。

サラサモクレンのバードハウス

花仲間ガーデンのサラサモクレン(ニシキモクレン)にはバードハウスが取り付けられています。鳥が入ってくれるかな??

  • ユキヤナギ

(上の写真)通用門側駐車場周り ユキヤナギ 陽当たりがいいのか見事に咲き誇っています。

 

 

内村は冒頭、江戸時代の歴史家・儒学者、頼山陽(らい・さんよう)の漢詩を読み上げる。

                                       

 十有三春秋   じゅうゆうさんしゅんじゅう

 逝者已如水   ゆくものはすでにみずのごとし

 天地無始終   てんちしじゅうなく

 人生有生死   じんせいせいしあり

 安得類古人   いずくんぞこじんにるいして

 千載列青史   せんざいせいしにれっするをえん

 

 山陽は13歳の時この詩を作ったという。「人は世を去ればとめどない水の流れのようにたちまち忘れられていく。天地に始まりも終わりもないが、人間は死ぬまでの限られた時間しか持たない。歴史に名を留めた先人たちのように自分も名を遺したいものである」というようなことか。雄大な抱負である。

そして10代半ばにこの詩を読んだ内村も「千載青史に列する」人間になりたいと思った。おやじも息子のそんな決意を喜んでくれた。千載は千年間。青史は歴史書の意味だ。オレも歴史に不朽の名を遺すような者になりたい、と明治の男らしく鑑三少年も熱い思いに胸振るわせたわけである。

しかしやがてキリスト教の洗礼を受けた内村の考えはぐらつく。いつまでも自分の存在をこの世に留めたい、なんてよくない料簡ではないのか。敬虔なクリスチャンが現世の功名を欲するなんてあるまじきこと。宣教師にそう叱られたこともある。それで一時は山陽の詩から受けた感銘から離れかけたこともある。

だが、やっぱりそれではつまらない。なるほど信仰者としてはいつまでも現世に執着するのはよくないことかもしれない。しかし人として生まれたからには、世を去っても何かを遺したいと思うものではないか。つまりはこれが、この「後世への最大遺物」のテーマである。

もちろんこういうことを考えるのは、頼山陽に限ったことではない。内村はまず、後世に自分の存在を遺すツールとして「墓」を考えた人の話を始める。

 

ある種の人々は、自分の存在の強大さを誇示するためか、巨大な墓を作ろうとする。古代エジプトの王(ファラオ)は、多くの人を使役してどでかい墓を作らせた。すなわちピラミッドである。これは極端な例だが、現代の富豪でも巨費を投じて人目につくような大きな墓や記念碑を建て、それを自分が存在した証にしようとする人がいる。日本にもアメリカにもどこにだっているものだ。しかしそれは内村の理想ではない。「キリスト教的の考えではございません」と彼は言う。でも本文を読む限り、必ずしも巨大な墓を作る人間の心理を内村は否定し去っていないところが面白い。人情として、自分はこれだけのことをしたんだから、大きな墓で眠りたいんだという気持ちは一概に軽蔑できないところがある(どことは言わないが私の家が檀家となっているある寺にも、とある企業の創業者が眠る巨大な墓がある)。

 

(下の写真)山野草ガーデンのサクラ(ソメイヨシノ)も開花しました

桜

サラサモクレン

サラサモクレン(ニシキモクレン) 花仲間ガーデン

サンクンガーデン

サンクンガーデンにはイスとテーブルが用意されています。静かな春のひと時を過ごしてください。

  • 花仲間ガーデン

(上の写真)花仲間ガーデン 右手の背の高いものはバイモ。

 

 

ここで内村が墓の話を持ち出したのは、会衆がクリスチャンであったことにもよるのだろう。敬虔なクリスチャンであるならば、この世の生涯は死後の未来へ上昇するための一つの階梯に過ぎないと思うだろう。それは、死によって永遠に生き続けるというようなことであろうか。しかし、内村の言いたいのはそういう「宗教問題」ではない。彼は一人のキリスト者である前に、一人の人間・内村鑑三としてものを言っている。そういう彼の心から、次のようなひたすらに美しい言葉が生まれる。

 

「すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくないとの希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。」

 

ため息の出るほど美しい、珠玉の言葉だ。直接耳にできた人が、私は本当に羨ましい。鈴木範久氏も言及しているが、内村鑑三には「美しい地球」というこの時代の人にしては珍しい宇宙規模の壮大な視点があった。これまで見てきたように、彼の生涯は、自分で招いた側面も多かったとはいえ、波乱万丈である(そしてその後の人生もやはり波乱続きだ)。しかし、それによって彼の心がおよそ卑屈に傾かなかったことが、この言葉からよくわかると思う。

こういう広大な視野と繊細かつ頑丈な詩心が、時を越えて鮮烈な内村の言葉を作った。

そしてこの言葉からは、彼の目指す「後世への最大遺物」が「墓」とはおよそかけ離れていたことも明瞭だ。墓は当然誰かしらの墓である。そして大きな墓をのこしたがるような人なら、「誰かしら」ではなく「この自分」の墓だといつまでもわかるようにしておきたいに違いない。でもそれは結局、墓の主がかつてこの世にいた、というだけのことに過ぎない。それが誰もが知る有名人であれ、皆がその人の成したことを認識しているわけではない。内村にとっては、自分がこの世において何をし、何を愛し、どう生きたのかということが重要なのだ。そういったものが具体的に表れるMemento(記念物、かたみ)を彼は「この世に置いて往きたい」と言う。

例えば、アマースト大学を卒業するにあたり、「音楽堂」や「書籍館」を寄贈する人もあったそうだ。母校を愛する気持ちから成された行為である。しかしこれらは、いちいち「誰」が遺したのかを問わなくとも有効に活用されるものだ。つまり「遺物」が遺れば名前など遺らなくていいのかもしれない。

ここで内村は19世紀英国で活躍したジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルの名を挙げる。ハーシェルは天王星の発見者として知られる父ウィリアムと同じく天文学者の道を歩んだ。特にアフリカ大陸最南端の喜望峰へ赴き、南半球の星図を作成したことで知られる。船乗りは星の位置を頼りに船を動かす。だから今日そこを航海する人はハーシェルの名を知らなくとも、自然と彼の「遺物」の恩恵を受けていることになる。これはハーシェルの墓が大きいか小さいかということとは、全く関係のないことだ。このハーシェルが20歳の頃友人へ宛てた手紙の一節も内村は引用している。

 

「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」

 

ハーシェルも、この言葉に特に言及した内村鑑三も、まさにこの言葉の通りに生きた人だと言えるだろう。

 

(下の写真) ハクモクレン ヒーリングガーデン もうほとんど散りました。

ハクモクレン ヒーリングガーデン

クレマチス アーマンディー

クレマチス アーマンディー フローラガーデンフェンスで開花中

レンギョウ

チョウセンレンギョウ スモークツリーガーデン

生命力のかたまりのような黄色い花が目を奪います

  • タチツボスミレ

(上の写真)タチツボスミレ 山野草ガーデン スミレの中では最もよく見られる種類だとか。花が咲き終わると茎が立ち上がってきます。

 

 

ここまで話してきた内村は、ようやく彼の考える「遺物」の具体的な中身に言及を始める。その最初のものは何か。

「金」だ。

これはちょっと意外である。さんざん理想に溢れた話を続けてきて、具体的なものの第一が「金」とは。聴衆も拍子抜けしたことだろう。しかし内村は真面目に言っている。何を遺すべきか考えた時に、最初に浮かんだのが金であった。自分は「実業教育」を受けたからこう考えるのだと理由を述べている。そしてこの講演をしている時点でも金が第一だと思っている。

だからと言って内村が守銭奴であったわけではない。大体彼の如き希代の世渡りベタがありふれた手段で金儲けのできるはずがないのだ。それは彼自身が一番よくわかっていたに違いない。しかし、一高をクビになり、家族も失い、職を求めて東から西へさまよった辛い過去を持つ彼だからこそ、お金の有る無しが人間に及ぼす影響を身に沁みてよくわかっていたのだ。だから内村は言う。「金を遺すものを賤しめるような人はやはり金のことに賤しい人であります。」確かにそうなのであろう。お金に興味なさそうな顔をしている人こそ陰でコソコソ貯めているものだ。内村は流浪の時代にそういう人やもっとあくどい人を何人も見てきたのかもしれない。

とはいえ誰もがお金を貯めることに長けているわけではない。蓄財能力は「天才を持っている」人にしか備わっていないらしい。そういう人は耳が「たいそう膨れて下の方に垂れているそう」だが、自分の耳は「たいそう縮んでいる」からだめだと内村は早くも諦めたようだ(ここで聴衆の「大笑」をとっている)。

しかし、ただお金を貯めさえすればいいというものでもないのである。つまり使い方の問題だ。内村はアメリカ留学中に訪問した孤児院とその創設者の例を挙げる。フィラデルフィアにあるその孤児院は、彼曰く「世界第一番」というほど大きなもので、スティーブン・ジラードという人物が一人で出資したらしい。この人物は早くに家族を喪い、一人で働き続ける生涯であった。そして「どうか世界第一の孤児院を建ってやりたい」という信念から、その遺産を全て孤児院や福祉施設建設にあてたのだという。なるほど、誰もが持つ才能ではない。お金を稼ぐ才能、それを人々のために使い惜しみしない才能。そしてそれをもって遺せる「最大遺物」。

 

 

 

(下の写真)ヤブレガサ 花仲間ガーデン

この間までセツブンソウが咲いていたエリアの片隅に群生しているこの不思議な植物。キク科のヤブレガサ(破傘)です。葉の切れ込みが深く、破れた傘に見え、また若葉が傘をすぼめたように見えることからこう呼ばれます。頭頂部に、夏、淡褐色の花を咲かせます。

ヤブレガサ

ショカツサイ

ショカツサイ(諸葛菜)

ハナダイコン、ムラサキハナナ、オオアラセイトウとも呼ばれます。中国原産で、昔三国志時代の軍師・諸葛孔明が、遠征の際栽培するよう奨励したことから一般的にはショカツサイと呼ばれます。葉は食用になり、アブラナ科ということもあり根からは油を取ることもできるそうです。

花も見る通り、爽やかな紫色でとてもきれいでかわいらしいものです。繁殖力が強く、南門の毎年彼岸花が出る緑地部分で春先に群生しており、陽を浴びて紫色が輝く様がとてもきれいです。

(下の写真)群生の様子

  • ショカツサイ

ジラード氏のような二つの才を兼ね備えていた稀有な人として、渋沢栄一の名を挙げることができるだろう。栄一の思想基盤は聖書ではなく論語であったが、彼の意識の底には内村よりも早いうちから「何を遺せるか」という問いが芽生えていたのかもしれない。この講演の中で、内村は栄一の名を特に挙げていないが、内村の言葉を読み続けていると、現代にも通じる精神に気づかされる。「金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。」しかし、その両立に意を用いない人が蓄財をすることは「はなはだ危険のこと」なのだ。格差社会という言葉が当たり前のようになってしまった今、内村の指摘する意味は重い。

(つづく)

ユキヤナギと桜

ユキヤナギと桜 通用門側駐車場周り

まだ見ぬ未来の人々へ・2(3月9日)

カッパとクロッカス

(承前)

全国に七つある官立中学校には、明治天皇の署名入りの教育勅語が与えられ、新年の授業開始を前に教員と生徒全員で勅語を拝読し、最敬礼(深々としたお辞儀である)を捧げる儀式があった。1891年、第一高等中学校では1月9日がその日にあたっていた。

 拝読式は午前8時から開始され、教員60人と生徒およそ1000人が参列。木下広次校長は風邪で欠席していたため、教頭が勅語を代読した。終了後、教員と生徒は一人ずつ前へ出て、教育勅語の天皇の署名に最敬礼することを求められたのである。

 一人目、二人目と順調に経過し、三人目の教員の番となった。一同の中でも一際背の高い、いかつい顔をしたその教員は、前に出、勅語に向かって進む。彼もまた、直前の二人と同様に振舞うものと、誰もが疑わなかったことだろう。 

ところがこの人物は、恐らくこの場にいた全ての人の予想を裏切って、少し頭を下げただけであった。つまり誰が見ても最敬礼と認識できるほどの深いお辞儀をしなかったのである。

 彼こそ、内村鑑三であった。そして内村のこの行為は、いわゆる「不敬事件」として、日本中を騒がせることになるのである(不敬と非難された事件はその後も度々世間をにぎわせたが、今でも「不敬事件」と言えばこの内村のケースを指すことが多い)。

 

(下の写真)梅園の様子

梅園の様子

ユキワリソウ

ユキワリソウ

全校の生徒教員の面前で起こった事件であるだけに、内村への非難の声はまず校内から上がった。愛国心の強い一部の生徒が最初に問題にしたという。若者は火がつきやすい。生徒の中には内村の自宅に投石する者も現れた。内村の行為への批判は生徒から教員間を経て校外へと広がり、収拾がつかなくなるほどの凄まじさを見せ始める。学校運営への影響を恐れた木下校長は内村に懇請し、20日後の1月29日には最敬礼のやり直しが行われることとなった(ただし内村本人はインフルエンザに罹患して病床にあったため、同僚が代行したという)。しかし事態はそれで収まるどころか悪化の一途をたどり、内村への非難は全国的なものとなってゆく。ついには学校にも居られなくなり、2月には退職(事実上の免職)を余儀なくされた。せっかく懐かしの母校に赴任したのに、まだ半年も経っていなかったわけだ。

 親族からも距離を置かれ、職も失い、もちろん訪問する生徒もいなくなった病床の内村は妻と2人の寂しい生活となった。妻・加寿子は、内村鑑三の身内というだけで、買い物に出るのも難儀するようなひどい目に度々遭ったという。そして夫を看病するうち自分も感染し、それに心労も重なったためか、事件から3ヵ月後の4月には亡くなってしまうのである。まだ23歳であった。しかも最敬礼のやり直しをしたことにキリスト教界からの批判も集まり、まさに内村は四面楚歌の状態に置かれてしまう。

彼は早い時期からJesus(イエス、つまりキリスト教)とJapan(日本)の両者を愛し、献身するとの意味を持つ「2つのJ」を自らの心情としていたが、この不敬事件によって「それぞれのJの側から反撃をくった」(亀井俊介)わけだ。現世超越的な宗教と、現世そのものというべき国を共に愛する、という矛盾の避けられない姿勢に潜む落とし穴に、見事はまったとも言えよう(だからたとえこの事件が起きなかったとしても、いずれ彼は似たような事態を引き起こしたことだろうと私は思う)。

それにしても、なぜ内村の行為がこれほどの激しい非難を呼んだのか。

 

(下の写真)斑入りクロッカス

斑入りクロッカス

ロニセラ・フラグランティシマ

ロニセラ・フラグランティシマ(牧場ガーデン)

キクザキイチゲ

キクザキイチゲ(花仲間ガーデン)

イチリンソウと間違えてしまいますが、イチリンソウの仲間だそうです。

イチゲは「一華」と書き、イチリンソウは「イチゲソウ」とも言います。

彼が問題とされたのは、天皇の署名に最敬礼しなかったことが、「不敬」、つまり天皇への敬意を欠くことだと見做されたからだ。天皇は大日本帝国憲法において、神聖にして不可侵の存在であった。そういう常人を超越した無謬である存在(たかが「署名」であっても)に対して、全くの一個人が「ノー」を突きつけたのだ。大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)は、1889年2月に公布され、翌年の11月に施行されたばかりである。つまり天皇の権威が明文化されてからまだ日が浅い。それなのにもうこのような態度を取る人間が現れたのだ。誰にとっても大きな衝撃であったに違いない。恐らく近代日本にとっては、公の場で天皇の権威を否定する人間を目撃した、ほとんど最初の経験だったのである。とはいっても、内村が「不敬罪」に問われたわけではない。天皇本人ではなく、あくまでその「署名」に対する行為であったからか、一応(本人ではないが)最敬礼のやり直しが行われたからか、内村がこの件に関して官憲のお咎めを受けたという記述は彼の伝記にはない。しかし「社会的制裁」という面から考えると、内村に加えられたそれはあまりにも苛烈を極めたのである。

 

では内村の真意はどこにあったかということをおおまかにまとめると、次のようになるだろう。自分はキリスト者である。キリスト者にとって、「最敬礼」にあたるほどの拝礼は、信仰の対象であるキリスト教の神にしか捧げることはできない。いくら天皇が地上の権威者であるとはいえ、彼は神ではないのだから、同じこと(最敬礼)はできない。それはその人間を絶対視することになり、偶像崇拝にもあたる。キリスト者である自分の良心が許すことではない。

もっとも彼が最初から最敬礼の拒否をはっきり決めていたかどうかは微妙なところである。後年(恐らく不敬事件から10年後くらいに)内村の演説を直接聞く機会のあった正宗白鳥は、英国の政治家クロムウェルの伝記を読んで以来、自分は権威者に頭を下げるまいと決めていたのだ、という趣旨の内村の勇ましい発言を記憶に留めている。

だが実際は勅語の前に立つまで、内村は迷いと逡巡の中にあったと捉えるべきだろう。そして彼が自分の行為に強いストレスを感じたのも確かなことである。先述の通り内村は事件後インフルエンザにかかり、一時意識不明状態になってしまったそうだが、それは自分の行為が起こした大騒動に直面した彼の神経が限界に達し、心身ともに疲弊してしまったことを物語っている。彼は強い信念を持って行動するタイプの人だったが、その結果引き起こされる波乱に自ら振り回される場面もとても多かったのだ。

とはいえ彼の信念の強度にも疑問を感じなくはない。結局内村は最敬礼を行うことは認めているのである(ちなみに内村の代わりに教育勅語に最敬礼した教員もクリスチャンで、事件後退職している)。木下校長は、勅語に敬礼することは天皇への尊敬の表明にあたるもので、宗教的礼拝とは意味合いが違うと内村を諭したそうだ。内村は「2つのJ」などと言っていたくらいだから、皇室と天皇への敬意の念も人並みにはあっただろうし、恐らく高熱にうなされていた彼にはもはや校長の説得を拒否できるほどの意志も体力もなかったのだろう。こういうところはある意味で、人間内村の持つ弱さの表れとも思える。

しかし同じキリスト教信者の間からは、最敬礼に同意した内村を不徹底で権力に屈したと咎める声が多かった。実はこの「不敬事件」は、一人内村鑑三だけが糾弾されたのではなく、キリスト教自体への大きな批判に発展している。地方在住の信者には村八分扱いされた人も多く、それも一年や二年で解消されるものではなかったそうだ。この事件の裏には、キリスト教に反感を持つ仏教者や、国家主義的勢力が大衆を煽った側面もあった。内村鑑三は、お辞儀が深い浅いという程度の問題で、盛大に「炎上」したのである。

 

(下の写真)梅園の梅

梅園の様子

プリムラ・マラコイデス

プリムラ・マラコイデス(花仲間ガーデン)

  • スイセン テータテート

(上の写真) 水仙 テータテート(tete a tete)

正門駐車場すぐ南のケヤキの足元で開花中。この高さ以上には育たないかわいいスイセンです。

 

(下の写真)レンギョウ カエデ通り梅園の向かい側

レンギョウ

ヒーリングガーデン クロッカス

ヒーリングガーデン クロッカス

 

運命の時は過ぎ、内村は全てを失った。それでも彼は生きている。生きている以上は、この身をどうにかしなければならない。

1891年5月、病気から回復し一人になった内村は、学生時代を過ごした札幌へ行く。旧友・新渡戸稲造たちの招きによるものだったらしい。では失意の内村を新渡戸が慰めたのかというと、どうも新渡戸すらこの時の内村には冷たかったようで、内村は6月になると札幌を離れている。7月には弟・達三郎の住む新潟の高田へ赴くが、ここも伸び伸びと過ごせる場所ではなかったのだろう、やはり1ヶ月で後にしている。事件への風当たりは未だ強く、ある意味で全国的有名人となってしまった内村には、どこも安住の地ではなかった。本名では相手にしてくれないので、偽名で宿泊したこともあったという。

しかし翌1892年になると、いくらか風向きも変わり始める。この年5月、内村は大阪にある泰西学館という学校へ、地理・歴史・天文の教師として着任。よく彼を雇う人間がいたものだと思うが、どうもこの学校の校長は経営建て直しのため内村の知名度(?)を利用して生徒を集めようとした節があるようだ。ただし学校の規模も小さく給料の支払いにもムラがあったため、彼の心もとない経済状態が改善されるわけではなかった(それでも内村が赴任したことで生徒の数は増えたそうだ)。

私生活では、12月に内村は4人目の妻・静子を迎えている(彼はこの年の春ごろに3度目の結婚をしているそうだが、その詳細は今もよくわかっていないらしい)。これまたよく彼に嫁ぐ女性がいたものだと思うが、弓術家であった静子の父は、内村に多くの敵がいることをむしろ気に入って娘を送り出したという。彼女は内村が1930年に亡くなるまで添い遂げた。

しかしこの学校に在任中の1893年1月には、国家主義的言動で知られた東京帝国大学教授の井上哲次郎(通称イノテツ)が、不敬事件を蒸し返す論説を発表したため、内村も反撃し、論争となる。事件の余波は2年経ってもなかなか薄れなかった。そして4月には、学校の運営をめぐるいざこざに巻き込まれ辞職。今度は熊本英学校の講師となるが、これは3ヶ月間の短期的なものだった。

こうしてざっと眺めてみただけでも、東京から札幌~新潟~大阪~熊本と移動を続け、内村はまさに「流浪の民」である。米国での模索の時期からおよそ10年。再び彼に訪れた「遍歴の時代」であった。

 

(下の写真)シナマンサク ヒーリングガーデン

シナマンサク

サラサモクレン

サラサモクレン(ニシキモクレン) 花仲間ガーデン

蕾が膨らみ開花間近。

  • 梅園の様子

熊本での任期を終えた内村は1893年7月に京都に移住。この「京都時代」は、不遇ではあったが精神的には実りの多い時期だった。内村は書くことへの情熱を見せ始め、代表作として知られる著作を相次いで生み出すのだ。

1893年には『基督信徒の慰(なぐさめ)』、『求安録』を刊行。そしてこの年11月には「How I became  a  Christian」(余は如何にして基督信徒となりし乎)を書き上げる。これは日本から米国へ旅立った若き内村の魂の遍歴を綴ったもので、国際的にも広く読まれることとなる。94年には『伝道之精神』、『地理学考』が出ている。不敬事件は内村に様々な試練を与えたが、同時に「一連の苦しみこそは鑑三に書くための火種をあたえた」(小原信)とも言えるのだ。また、教師としての情熱は人一倍だが人間関係が不得手な内村は、「自分が「学校事業」にむいていないことをさとり、文筆でもって立とうと考えはじめた」(亀井俊介)ということもあっただろう。のちに彼はジャーナリストとしても活躍し、その文章は広く人々の心を掴んだが、彼の文藻を豊かにしたのは、皮肉にもこの金銭的には恵まれない時代だったのかもしれない。

京都に居を移した内村は、それまでの生活と比べれば平穏な時を過ごしていたように思える。1894年3月には静子との間に次女・ルツ子が生まれる(長女は1回目に結婚した女性と離別した後に生まれている)。ルツ子は18歳で亡くなってしまうのだが、彼女の存在が内村に与えた影響は大きい。この年は1月から、地元京都の第三高等学校にあるキリスト教青年会(YMCA)の日曜学校で、聖書の講義を開始している。聖書講義は、東京に転居した後も内村の活動の中心となるが、その原型はこの京都時代に形成されたようだ。そして前年の兵庫・須磨に続き、彼はこの年の箱根夏期学校における講演を依頼されるのである。

こうしてようやく私たちは、1894年7月の箱根へ戻ってくることができた。

(つづく)

まだ見ぬ未来の人々へ・1(2月19日)

人の一生の大半は働くことに費やされる。自分が生活していくため、家族を養うために人は働く。その役割を果たすために生き、自分の好きなことをして残りを過ごす。そんなものかもしれない。しかし、本当にそれだけだろうか。自分の一生が完結した後も、自分がその存在を知ることもない未来の人々へ、何かを遺していきたい。そんな思いはたとえ夢想に過ぎなくとも、誰しも一度は抱くものではないだろうか。

 

(下の写真)シナマンサク

シナマンサク

スイセン

スイセン(花仲間ガーデン)

クリスマスローズ

クリスマスローズ(花仲間ガーデン)

1894年7月16日、箱根は芦ノ湖のほとりに位置する石内旅館。これから盛んになってゆく暑さを思わせる時期であるが、湖畔の宿は清涼の気に満ちていた。湖畔、と言えばこの宿は、かつて洋画家の黒田清輝が、代表作の「湖畔」を制作した場所であるらしい。うちわを手にしたまま湖に背を向けて画面の手前に腰かけ、どこか遠くを見つめる若い女性の描かれた、日本の洋画史には欠かせないあの一枚である。モデルは黒田の夫人であった。

 1934年に刊行された名所案内記には、「旅館「石内」は旧本陣でいろいろと古文書を所蔵している」(松川二郎)とある。現在はもう存在しないようだが、歴史と由緒ある旅宿であったらしい。

 しかし、この日この宿がとりわけ清涼な雰囲気を漂わせていたのは、ここに集まっていた人々にも理由があったのかもしれない。石内旅館では、2日前の7月14日から、キリスト教青年会(YMCA=Young Men‘s Christian Association)による夏期学校が開催されていたのだ。

 

 キリスト教青年会は英国の発祥である。日本では1880年に東京青年会として成立。キリスト教信仰に基づいて会員の心身育成と理想社会建設を目指している。1889年から米国の同趣旨の組織にならって、毎年夏に各大学のクリスチャンの学生を集めた夏期学校を開くようになった。主に聖書の講義や著名人の講演を行っていたらしい。会場は関東と関西を交互にめぐり、1894年の6回目の夏期学校は関東で開催される番であった。

 講師として、著名なキリスト者である海老名弾正(だんじょう)、植村正久、大西祝(はじめ)、巌本善治などが招かれた。集まった学生は99人と記録にはあり、中には後の洋画家、和田英作らがいた。

 白い月明かりにやんわりと包まれた山上の宿は静謐そのものであったが、下界、すなわち山の下の一般社会はこの時騒然としていたと言っていい。 

 1894年は日清戦争開戦の年である。まさにこの7月16日、日本は英国との間に「日英通商航海条約」を結ぶ。これは清との開戦に踏み切る上で、列強の英国を見方につける意味があったとされる。そして9日後の7月25日には、翌年の11月まで続く戦争が始まるのだ。

 やや浮世離れのした会場ではあったが、清との戦争に突き進む祖国の姿勢をめぐって、賛否を含んだ様々な意見が交わされたことだろう。勇ましい議論を戦わせる連中もいたのではないか。しかし、むしろ参加者の間では、これから始まる講演とその登壇者について、期待といくらかの野次馬的興味の入り混じった憶測が飛び交っていたと思われる。何と言っても今回講演に招かれたのは、これより3年前、日本中の注視と指弾の的となった、キリスト教界ではおよそ知らぬ者のない人物であったからだ。

(下の写真)スノードロップ 花仲間ガーデン

スノードロップ

フクジュソウ

フクジュソウ 

定刻となった。満場の注目を浴びて、一人の男が会衆の前に姿を現す。身長175センチ。ニーチェにも例えられた、彫りの深い顔立ち。黒々としたヒゲと眉。そして相手の心奥まで見透かすような透徹した深い眼差し。およそ日本人離れのした特異な風貌である。その姿を見て、話の始まる前から既に圧倒された者もいたことだろう。

 彼の名は、内村鑑三(うちむら・かんぞう)。この時33歳。聴衆を見渡した内村はおもむろに第一声を放った。

 

「時は夏でございますし、処(ところ)は山の絶頂でございます。」

 

 さて、彼はこれから何を話そうというのだろうか。そしてこの男は一体何者か。この時内村鑑三の行った夏期学校での講演(16日の夜、17日の朝と2回に分けて行われた)は、のちに『後世への最大遺物』として刊行され、時代を越えて多くの人々に強い感銘を与えることとなる。しかし、その内容について述べる前に、まずはこの日この場にやって来るまでの内村鑑三の軌跡について、なるべく大づかみに、ただし重大な部分はやや詳しく振り返ってみたい。

 

(下の写真)セツブンソウ 花仲間ガーデン

2月中旬となり、花よりも葉が目立ってきたため、もうじき見ごろは終わりです。

セツブンソウ

  • 白梅と紅梅

内村鑑三は1861年江戸に生まれる。父は高崎藩士。生まれてじき家族と高崎へ戻り、幼少時代を過ごす。1874年、13歳で再度上京し、東京外国語学校で学ぶ。3年後に卒業すると、北海道へ渡り、札幌農学校に第2期生として入学する。

札幌農学校は明治政府が新天地・北海道の開発に携わる若者を育成するために設立した学校であり、その教頭として米国から招かれたのが、かのウィリアム・スミス・クラーク博士だった。そう、ボーイズ・ビー・アンビシャスのあの人である。

 だが内村が入学する前年、1876年にクラークは帰国していたため、内村は直接クラークの薫陶は受けていない。ニアミスというやつである。しかし1期生であった先輩生徒の間では、まだキリスト教を背景にしたクラークの影響と感化は濃厚であり、内村は彼らに半ば強制されるようにして17歳で洗礼を受ける。キリスト者・内村鑑三の出発である。ちなみにこの時、農学校の同級生であった新渡戸稲造(当時は太田姓)も受洗している。旧五千円札の額面の人、という印象が先行しているが、新渡戸はのち京大・東大教授となり国際連盟事務次長も務めた思想家だ。内村とは終生の友人であった。

 20歳で農学校を卒業した内村は、北海道開拓使勤務などを経て1883年農商務省に入り、『日本魚類図鑑』の作成に従事したりしているが、翌84年の11月に米国に渡る(この年3月に内村は最初の結婚をしているが、7ヶ月ほどで破れ、それも渡米の弾みになったと言われる)。2ヶ月の船旅を終え翌年1月に到着した後はペンシルヴァニアの障がい児施設で半年間働き、その後マサチューセッツ州のアマースト大学に入る。ここはクラーク博士の母校であり、内村は彼とも面会できたらしい。しかしこの大学の学長であったユリウス・シーリーという人物こそ内村の目を開かせた恩人であった。シーリーは自らの進むべき道を探しあぐねる内村に、自分の内面ばかり見つめていてはいけない、君はもっと広い外の世界へ目を向けなければならないという意味のことを諭した。その恩師の言葉は「回心」を自覚するほど内村を強く揺り動かし、彼の人生航路の指針となったのである。

 

(下の写真)梅園 白梅も紅梅も花ざかりです。

白梅

紅梅

紅梅

白梅も紅梅も花ざかり

白梅と紅梅

  • シナマンサク

3年間の修学を終えて1888年5月に故国の土を再び踏んだ内村は、同年9月から新潟の北越学館というキリスト教系の学校の教頭となる。しかし教育方針をめぐって外国人宣教師と対立し、わずか3ヶ月で退職。帰京する。内村の前半生には、学校に就職するも短期間で辞職というパターンが多く、このため彼は「学校やぶり」というありがたくないあだ名をつけられることにもなる。

 教職に熱意を燃やす内村は、1889年3月から東洋英和女学校と東京水産伝習所で再び教壇に立つ。この年二度目の妻・加寿子を迎えている。内村鑑三が水産所講師というのは意外な感じがするが、彼は札幌農学校時代に水産学を専攻しており、役人時代には、アワビの卵子を発見するという極めて珍しい成果を挙げている。とは言ってもこの両校での赴任は短期的なものだったらしく、翌年には退いているようだ。

 そして1890年9月、内村は第一高等中学校嘱託教員となるのである。

 

(下の写真)ユキワリソウ 山野草ガーデン

ユキワリソウ

サステナブルガーデン

サステナブルガーデン 小人たちの花園みたいになっていてちょっとしたフォトスポットです。

  • マンサク

(上の写真)マンサク シナマンサクと違いくすんだ色をしています。梅園の脇。

 

第一高等中学校は内村も学んだ東京英語学校の後身であった。彼は母校に教師として戻ってきたことになる。(後に東京大学予備門に改組)。この時代全国には第一から第七までの官立中学校があった。第一高等中学校は通称一高と呼ばれるが、七つのうちの筆頭であったと言えよう。内村は英語、地理、歴史の授業を受け持ち、課外に生徒を自宅に招くほど熱心な教員であったという。かつて自分も通った学び舎に集う若き学徒たちに、熱心に指導する内村の姿が目に浮かぶ。話の上手い彼の授業振りに魅了され、多くの学生が結婚後日の浅い青年教師の家の門をくぐったと思われる。教師内村は、担当教科に関係したこと以外にも、米国での模索の時代のエピソードを披露するなどして、自分の経験が少しでも後輩たちの進路に資するものとなればと願っていたことだろう。このまま何事もなく過ぎていけば、かつて一高に内村鑑三という名教師がいた、という程度で彼の名は語られるに過ぎなかったかもしれない。しかし、内村の人生を決定的に変えるその日は、着々と近づいていた。

(つづく)

※5回に分けて連載します。

眠りについての蛇行的覚え書(2021年2月2日)

(下の写真)セツブンソウ 花仲間ガーデン

        例年節分の前後に咲く、初春の緑の王国の風物詩。今年は124年ぶりに

 節分が一日早まるようだが、セツブンソウもそれに合わせるかのようにして一日一日、咲く数が増えている。

セツブンソウ

いつになっても眠れないというのはいやなものである。ひたすら無為に時間が過ぎていくだけで、身体も休まらず、次第に底なし沼にはまったような救いのない気持ちになっていく。

人はどういうメカニズムで眠りにつくのだろうか。例えばこの門をくぐった先が眠りだ、という風に、ある一点を越えるとストンと睡眠に入るものなのか、それとも徐々に体が覚醒の状態から眠りの状態へと移行していき、いつの間にか白河夜船の境地に達してしまうものなのか、自分の体ながらこれはどうしてもわからない。わからないのだが何としても不思議でたまらないので、いつか確かな答えを掴みたいのだが、布団に入ってからそんなことを考え始めると、まず確実に眠れなくなってしまうので、未だにはっきりさせることができない。猫が自分の尻尾を追いかけるようにキリのないことだと思うが、どうにも諦めきれない気持ちが常に私の中にあるのである。

(下の写真)スノードロップ 花仲間ガーデン

  小人の街灯のようでかわいい。

スノードロップ

眠ることに「儀式」を必要とする人がいることだろう。例えば100人のお坊さんが唱える「南無妙法蓮華経」のテープを逆立ちしながら聞くとか、うつぶせになってマーボー豆腐のことを考えるとか(まあ、人それぞれだ)。しかし世の中には何も考えずに布団に入って3秒ほどで就眠してしまう人もいるという。驚異的である。爪の垢を煎じて・・・(いや感染症の懸念を考慮してやめておいた方がいいか)。

私も最近、そういうある種の「儀式」を案出した。案出なんて役人のような硬い言い回しはよくない。自然とそれをするようになった。

これまでに手放した本のゆくえを思い浮かべることだ。

 

私にとって本は、ちょっと油断するとすぐ増えてしまうシロモノである。どこかから勝手に飛んできて私の部屋に居座ってしまうらしい。困ったものだ。

だから近年は、もう再読することのなさそうなつまらない本や、買ってから時間が経ちすぎて興味をなくしてしまった本などはさっさと手放すことにしている。つまらない本なんか身近に置いておきたくないし、見向きもしたくなくなるのだ。

そういう本たちを詰めておいた段ボール箱がいっぱいになると、日本の真ん中のあたりへ郵送している。そんな風にしてもう千数百冊は手放したことだろう。箱のふたを閉じた時点で、私がそれらの本に再びまみえることはない。運送業者が重たげに箱を担いでトラックへ向かってしまえば今生の別れである。しかしどうせつまらなかった本どもなのだから、感傷は微塵もない。せいせいした、というのが正直な感想である。私は余計な財産を作らずいつまでも身軽でありたい人間なので、これからもこうして本を処分し続けていくことだろう。

そうして私の元を去った本は、それからどうなったのか、暗闇の果てにある天井を透視しながらおぼろに思い浮かべるのだ。

(下の写真)フクジュソウ 山野草ガーデン

 明るく大きな黄色の花に春の兆しをはっきりと感じる。

フクジュソウ

  • ギョリュウバイ

(上の写真)ギョリュウバイ サステナブルガーデン

 

本の身になってイメージしてみよう。運送屋のトラックに乗せられ、ガタゴト道を揺られ、近くの集荷センターに着き、日本の真ん中の方へ送られる荷物エリアに一旦置かれる。そしてしばらくして別のトラックに積みこまれ、再び長い旅をして、ある古書業者の元に到着する。従業員は、私がへたくそな手つきでとめた段ボールのビニールテープをめんどくさそうな顔しながら剥がし、中の本を取り出し、机に置き、精算し、棚に並べることだろう。さっきまで私の「元」蔵書として形成されていた秩序は、他の無数の本に紛れて完全に解体してしまう。

そしてその後はどうなる?値段のつかなかった本の運命は?私がつけた書き込みやドッグイヤーや、もっと前の持ち主が手荒に扱ったせいで外れかけたページがあるために、商品とはならなかった本のゆくえは。

一般的には再生紙に生まれ変わるようだ。再び私の空想が機動する。評価価格「ゼロ」円の本たちは、もはやただの紙の束としてトラックの荷台に投げ込まれ、製紙業者へ運び込まれる。到着すると、溜められた水の中にどばどば落とされ、ぐるぐる回る巨大な泡だて器のようなもので撹拌され、そうしてペースト状になった元「本」たちは、段ボール箱か何かに生まれ変わるのだろうか。切ない話である。さっき私がすれ違った引越し屋のトラックに積まれていた段ボール箱の一部が、こんなつまらない本、と私が呆れたあの一冊だったかもしれないのだ。

では、値段がついて新しい持ち主の手元へ渡った本たちは? どんな人が、私が見捨てた本をわざわざ買い求めるのだろうか。送られてきたその本をどんな気持で手にとる?(こんなデザイン・センスのない表紙だとは思わなかった、とか)。本棚は家の中のどこにあるのか?隣に並ぶ本は何だろう?本ではなくて、まねき猫でもデンと置いてあるかもしれない。そして、私が奥付の部分に貼ったままにしておいた蔵書番号を捺した付箋(すなわち、以前の持ち主の痕跡)を見て、何を思うだろうか?(こういう几帳面な人とはソリが合わないだろうな、とか)。

全てに確かな答えはない。思い浮かべる度に答えは変わる。自由で適当な空想のひととき。だからこそ、私はいつか安心して眠りにつけるのだ。

 

 

(下の写真)梅園の梅も咲き始めてきた。2月初頭で二分咲きといったところ。本当の見ごろはこれからだ。

梅園

かつて自分の一部だった本。今はどこか遠くへ巣立ってしまった私の断片。その一冊一冊に、ページをめくっていたときの私のかけらが潜んでいる。こんなに面白くないと思う訳は何なのか?自分がつまらない人間だからそう感じるのか?本を前にしての自分との堂々めぐりの対話。本は自分を手にしていた持ち主の姿を記憶する。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害され非業の死を遂げた哲学者、ヴァルター・ベンヤミンは「蔵書を見ればその所有者のこと─その趣味、興味、習慣─が分かる、と語っていた。」未だ手元にある本のみならず、既に放棄された本も、所有者(だった人物)の断片を秘めている。

 

「人は自分が書物を保存しているのだと信じて書物を収集しているが、実際には、書物のほうが、その収集者を保存しているのだ。「収集者の中に書物が生きているのではない。収集者のほうが書物の中に生きているのだ」とベンヤミンは断定している。」

(ティモシー・ライバック 赤根洋子・訳『ヒトラーの秘密図書館』文藝春秋刊より)

 

私は千数百冊の本の一部となって、この国のあちこちに散らばっている。

梅園

眠りに入るまでのひとりの時間を、自分にまつわる物事について、あれこれ思いをめぐらせて過ごす。いつしか忘我の境地に達する。自らに関することであれば、他の誰よりも隅々まで知り尽くし、自在に回想の糸を手繰っていけるはずだ。ただ、ここで注意しておかなければならないのは、頭を働かせすぎないこと。周囲が暗く、目に入ってくる情報量がなくなるせいか、闇の中で頭を回転させ始めるといつもの倍はよく回る気がする(もちろん気がするだけ)。そうして力を得た想像力はいつしか眠気を奪い、却って目をはっきりと見開かせてしまうのだ。円滑に眠りに入るための儀式がこれでは本末転倒であって、ならば何も思わず何も考えない方がいい。それで眠れるならば、の話だが。

スノードロップ

眠りに入るまでの時間、人はどうしようもなくひとりである。誰も私の手を引いて眠りの中へ導き入れてくれはしない。眠る以外何もすることがないからこそ、次々と頭の中を想念が駆けめぐる。そういうどうしようもないひとりの時間は、何も布団の中でウトウトしているときだけに限らないだろう。例えば独房に入れられたときとか。

 

カミュの『異邦人』の文中、とりわけ印象に残った箇所がある。浜辺でアラビア人を殺めた主人公ムルソーが、独房に収監される。しかしこれといってすることはなく、自分と向き合う他ない。ムルソーはどうやってその退屈な時間を潰したのだろう?その対処法が私にはとても興味深かった。少し長くなるが、味わい深い描写なので、下にその全てを引用してみたい。

 

「時には、自分の部屋に思いをはせたりした。想像のなかで、私は部屋の一隅から出て、もとの場所まで一回りするのだが、その途中に見出されるすべてを、一つ一つ心のうちに数えあげてみた。最初は、すぐ済んでしまったが、だんだんとこれを繰り返すたびに、少しずつ長くかかるようになった。というのは、私はおのおのの家具を思い出し、その一つ一つの家具については、どんな細かな部分までも思い出し、その細かな部分、象眼やひびや縁のかけ落ちたところなどについては、色あいや木目を思い出したからだ。同時に、私は自分の財産目録の手がかりを失わないようにして、完全な一覧表を作り出そうと試みた。その結果、数週間たつと、自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、何時間も何時間も過ごすことができた。こういう風にして、私が考えれば考えるほど、無視していたり、忘れてしまっていたりしたものを、あとからあとから、記憶から引き出してきた。そして、このとき私は、たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所で生きてゆかれる、ということがわかった。そのひとは、退屈しないで済むだけの、思い出をたくわえているだろう。ある意味では、それは一つの強みだった。」

(アルベール・カミュ 窪田啓作・訳『異邦人』新潮社刊より)

 

自分にまつわる物事を回想していればおのずと時間は経っていく。ムルソーは独房に入れられて初めてそのことに気づき、そして囚われの身でありながらそれまでよりも自由な人間に生まれ変わった。ここに書かれたことは眠りに入る儀式としても応用できそうである。身の回りの暗闇に息潜めている家具、調度、衣服。別の部屋で誰からも手を触れられずに眠っている食器や洗面用具。それを重ねた順番や置いたときに立てた音の残響を振り返る。もちろん、それが正しいかどうかなんて知ったことではない。あくまでも眠りに入るための手段なのだ。しかし、新たな疑問も湧いてくる。眠るまでのわずかな時間を通過するために、囚人が果てしない時間をやり過ごすのと同じ手続きを踏むとしたら、眠りとは自分を牢獄に閉じ込めることなのか? だって、眠っている私たちは朝になるまで自分の身の回りで何が起こっているか一切わからないではないか。獄中の囚人が社会で起きているあれやこれやから切断されているのと何が違うのか?

 

 

(下の写真)カエデ通りの梅 こちらは紅梅の方が先に開き始める。

梅園

科学的な観点から言えば、眠りとは一日の疲労が蓄積した身体を休ませ、また新しい朝へ向け心身共にリセットするために必要とされるものだろう(しかし眠りについては未だ科学的によくわからないことが多いという)。

だが、角度を変えると、眠りに面白い定義づけができることもある。

ここで、英単語の「breakfast」を取り上げてみたい。意味は「朝食」。この単語は「break」と「fast」の二語が結合してできている。単純な話である。眠りとは何の関係もなさそうだ。それでは、それぞれどのような意味を持っているのか。

まず「fast」から。これは「破る」を意味する。破壊する、終わらせる、と解釈してもいい。では「break」は?

「断食」である。一晩続いた「断食」を「破る」のが「朝食」。なるほど、眠りながらものを食べる人はそうはあるまい。だから、誰しも眠っているときは「断食」していることになる。これはなかなか面白い発想で、「断食」という習慣のない我らジャパニーズピープル(体重計に乗るのが怖い人は別だろうが)からすると、目からウロコが落ちたような気分になる(そんなもの落とさないように毎日顔は洗わないと)。

ということは、この単語の裏には、「眠り=断食タイム」という発想が横たわっていると思える。この単語を作った人にとっては、睡眠なんか食べる喜びの剥奪でしかなかったのかもしれない。いつごろ成立した言葉なのかわからないが、こんな風に誰かの思考の痕跡が、言葉の中に封じ込められていることがある。

 

 

(下の写真)フクジュソウ ついこの間芽が出ていたと思ったらもう咲いてしまった。早いものだ。

フクジュソウ

春眠暁を覚えずと言う。春が来れば、何もしていない時にはひどく眠くなる。何かをしていてすら眠くなる。どうしたものか。

 こうも眠くなるのなら眠ったまま仕事ができればいいなどと思ったりもする。例の猫型ロボットの秘密道具に、それで頭を叩くと自分の分身が現れるというハンマーがあった。嫌な用事がある時など、出現した「もう一人の自分」に代わりに行ってきてもらえるという、まことに便利なアイテムである。のび太が喜んでいた。ただし本人が本当に気の進まない用事のときは、分身もすぐには出てきてくれないらしい(ジャイアンのリサイタルとかテストの返却日とか)。人間は難しいものである。

 ところが世の中は広くて奇妙なもので、眠ったまま仕事をして名を残している人も中にはいるらしい。どんな仕事か?アメリカ合衆国大統領。

 

 

(下の写真)白梅 梅園

 梅の花はよく見ると面白い形をしていて、花弁の中から伸びるしべがまるで寝癖のように私には見える。

梅園

現在は前年の選挙で当選した候補がこのポストに就任する日付は、翌年の1月20日と決まっているが、1934年までは3月4日が就任式であった(約40日繰り上がった理由は、世界恐慌のさなか1932年11月に当選したフランクリン・ローズベルトが、翌年3月に就任するまでの間に景気がますます悪化してしまったからだそうだ。金の力が制度を動かしたようである)。

1849年3月4日・日曜日、ジェームズ・ポーク大統領は4年間の任期を終え退任。当選者であった老ザカリー・テイラー将軍が直ちに後任に就く予定であった。ところが熱心なクエーカー教徒(プロテスタントの中でも特に厳格な宗派)であった新大統領は、安息日の日曜日に就任式を行うことをどうしても承知せず、わずか一日ではあるが、大統領の座が空席になってしまうという困った事態に(安息日とは、6日間で世界を作った神様が、さすがに息切れがして休暇を取った7日目のこと。だから人間も労働をしてはいけない)。

そこで当時上院の枢要なポストにあったダヴィッド・ライス・アッチソンという人物が、テイラーが心置きなく就任宣誓に臨むまでのたった一日間、大統領になったのである。最も、ものの本にはこう書いてある。

 

「アッチソンはその間もっぱら居眠りに時を過ごし、大統領としての職務をひとつも行わなかった」

 (R・リプレー、庄司浅水・訳『世界奇談集』河出書房新社刊より)

セツブンソウ

興味深いことに、ジェームズ・ポークという人は歴代で最も働いた大統領とも言える人で、4年間の任期中、37日しか休暇をとらなかったとされる(年間約9日!)。その甲斐もあって4年にしては特筆すべき業績も多いのだが、過労のためか退任後3ヶ月と10日で急死(まだ53歳だった)。その“後任者”が与えられた任期を眠って過ごしたというのだから、世の中よくできているものである。最もアッチソンは歴代大統領にはカウントされていない。そしてポーク大統領も、恐らく睡眠も大して取らずに過労死するほど働いた割には、後世の知名度は今ひとつである。

 

 何はともあれ眠りというものはやはり人間にとってこの上なく大切なものであり、これがなければひとの心も体も大変なことになる。文字通りの「断食」をすれば、胃の中は空っぽできれいになるだろう。同じように眠りは頭の中を整理する。決して眠っている間は何もしていないわけではないのである。外山滋比古の『思考の生理学』という面白くない本(今ごろ段ボール箱になっているかもしれない)によれば、英国の文豪ウォルター・スコットは、何か悩み事があったり考えに行き詰ったりすると、とにかく眠ることにしたという。そして朝目覚めてみると、起きていた時には全く浮かばなかったいい解決法にしばしば出会えたそうだ。眠ることで懸案を一旦意識の外に除外して、忘れ去ってしまうということだろう。そしてリフレッシュした頭からは、前の日まで思いつかなかった新たな発想が湧き出てきたのだ。

眠れない人は、どうしても忘れられないことに始終見張られて生きているのかもしれない。

 花も日が沈めばその花弁を畳み、眠りに入るように思える。動物と同じような睡眠ではないのかもしれないが、眠っている(活動を停止している)と考えるのが妥当と思える。千年間も眠りについていた蓮がある。一体千年間も何を考えていたのだろう、と私はいつものクセですぐ思ってしまうのだが、きっと何も考えていなかったに違いない。しかし人間が地上でもがいていた重畳たる時間の波を超越して蕾の枷を解いたその美しさが、千年前に生きていた人々をも魅了したと考えるとあまりにも果てしないことだ。何年か前東京の博物館で矢張り千年ほど前の女性に使われていた櫛を見たことがある。しばらくガラスケースの前に立ちながら、思ったものだ。この櫛は千年も前から存在して、その長い時の間、きっと様々な人間の姿を見たのだろう。だからきっとこの櫛は、今地上に生きている誰よりも人間のことをよく知っているのではないか。・・・ああ、こんなことを考えていては、結局、眠れなくなる訳だ。

  • 梅園
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