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場内ガイド(2019年9月~)

更新日:2019年11月11日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、きまぐれではなく毎日、緑の王国の今を更新しています。

 こちらもぜひご覧ください。)

秋の情緒(11月11日)

秋の野に鈴鳴らし行く人見えず

 

こういう気持ちのいい句を目にすると、僅か十七文字の中に凝縮された世界のこまやかさに、心を洗われる思いがする。

私は、別に誰に教わった訳でもないし、自分でつくる訳でもないが、俳句というものはそれなりに好きである。俳句と似た定型の文芸に和歌があるが、こちらにはあまり馴染みはない。全くないというのでもないが、それを詠む時、愉しむ時の、その「し方」が違うのだ、これから、少し、そういう話をしたい。

私は和歌を視覚的に愉しむことが多いのである。和歌というものは、俳句に比べて平仮名が多く用いられるものだ。俳句よりも字数が多いし、より説明的になるから、どうしても「~という」、とか「~のような」のように、漢字の下に言葉が添えられるので、自ずと平仮名も多くなるのであろう。

だから漢字ばかりの和歌というものは、あまり見ないものだ。最も平仮名が発明される以前は、和歌は皆漢字で詠まれていた。なかったのだから、使いようがない。当時の人もそれが当たり前だった訳だ。

 和歌を視覚的に見るというのは、理性を動員して意味を深く追わず、寧ろ文字そのもの、とりわけそこに使われた「平仮名」から、直感的に「何か」を受け取ることだ。これは私一人の感じ方、和歌への触れ方であって、邪道かもしれないが、とにかく私はもう随分の間、そうして和歌をたのしんできた。

 

花仲間ガーデン

例えば若山牧水のよく知られた歌、

 

 白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ

 

 というのがある。これなどは歌の意味をとっても充分視覚的効果を狙ったものであって、そういう点ではわかりやすい一首だ。

 「白鳥」の白、空と海の「青」の目に鮮やかな対比である。

 空と海を結ぶひと色の青の敷布の中に、一点、決してどちらにもなずむことなく悠々と飛翔する白鳥がいる。

気高く、美しく、しかしとても孤独な姿だ。どこへも逃げ場のない決然とした生き方だ。

 

そこへ牧水自身の姿を重ね合わせることは容易だが、今ここでそれを深くは追うまい。

 

ダリア

寧ろ私はこの歌を前にすると、まず「かなし」と「ただよふ」という字句に目が留まるのである。一体平仮名で書かれた「かなし」という言葉程、世にも心を打つものはあるまい。例えば私は、その年初めの雪に触れた時に、えも言われぬ新鮮さに胸をふるわせる。しかし次の瞬間にはそれが昇りゆく太陽に照らされ、小さく消えてゆく瞬間を透視してしまうだろう。そういう心のはたらきへの悔いが、新雪の冷たさを感じたほんの数秒後に、私の心を占めるのだ。そういう一連の感情をひとつの言葉におさめるとすると、多分「かなし」なのである。

こういう心の動きを、「もののあはれ」というのだろうが、矢張りその中核にあるのは「かなし」だと私には感じられる。

 

 もう一つ「ただよふ」にも私は面白いものを感じる。この「ふ」の字の柔らかさが面白いのだ。「たゞ」ではなく、敢えて「ただ」と同字を並べたところにも牧水の意志が感じられる。平仮名なればこそ感じられるたのしみである。

 中勘助の『銀の匙』では、叱られた主人公の少年は押し入れに入れられて反省していろと言われた時、壁に「を」の字を書いて自分を慰めていたそうだ。「を」は女の人が座っている姿のように見えて、それがやさしい漢字を与えてくれたのだという。一つでも仲間を多くしたくて、じき押し入れの壁は「を」の字のオンパレードになったそうだ。平仮名が与える「やわらかさ」「やさしさ」が、内向に耽りがちの夢想肌の少年の密かな友だちとなった。(この「友だち」も、私は「友達」と書くのに抵抗がある。本当の幼い者同士の仲は「友だち」と平仮名で書いた方が、無邪気な感じがあっていい。少なくとも高校生になったくらいなら、「友達」と書いてもいいのではないか。より成熟した関係、という印象を与える。)

 ところで、私は「かなし」という言葉を「悲し」や「哀し」と変換する訳ではない。

 このひと言は沢山の感情が包含されていて、「嬉しい」とか「美しい」といったことも、皆「かなし」になるのである。無論「悲し」もだ。(別にこんなことは私の独創でも何でもないだろう。)

 和歌そのものの意味よりも、その中に折り込まれた平仮名(例えば「かなし」)から感じる言葉として表される以前の心のはたらきを、私は受け取ることが多いので、それが「和歌を視覚的に読む」ということの意味なのだ。

 

(シュークリームに例えると、その全体が「もののあはれ」であって、中の甘いクリームの部分が「かなし」になるのだと思う。)

 

 

 

 

 

ここで冒頭の句に戻ろうか。

 和歌を、平仮名から受ける「感じ」そのものとして味わう私だが、俳句を同じように感受することはあまりない。それは俳句が、和歌とは条件の違う芸術だからだろう。長さは和歌の半分で、平仮名もあまり多くはない。そして、叙情に流れるものが和歌程多くない。和歌に比べれば、きっちりと締まっている感じがするのである。

 

 秋の野に鈴鳴らし行く人見えず

 

句を口にした私の体を、秋の清涼な夜風が吹き去って行く。

夜の情景であるとは一言も書かれていないのだが、月夜である。満月の下、野を一面のすすきが揺れている。すすきが生い茂っているとは一言もないが、私の脳裡にはただちにそれが浮かぶ。そして秋風よりもなお清らかな鈴の音が、風に乗り野を渡ってゆく。

鈴を鳴らしている人の姿は見えないのだが、私には昔の学生帽を被り、兵児帯をしめ格子縞の衣服を着た青年の後ろ姿が浮かぶのだ。

向こうを向きこちらに顔を見せないまま彼はすすきの間を抜けていく。長く尾を引く鈴の音が、その歩みと共に響いてゆく。月は静かに地を照らし、やがて人の姿の遠ざかるにつれ、鈴の音も微かになってゆく。

 「鈴鳴らし行く人」が学生とみえるのは、これが川端康成の句であるからかもしれない。

 と言っても大作家となった後、白髪の彼の姿ではない。『伊豆の踊り子』を書いた頃の、まだ少年の面影を残した、若い彼だ。その澄んだ大きな瞳が、一瞬こちらを向く。

 何もない荒涼とした土地に愛着を抱いてしまうのは私の一人好きな性格のなせるところで、この句を繰り返し口ずさむ訳は、どこまでも続く「秋の野」が持つ、その広漠さと包容力に惹かれるからである。峨々たる山また山の光景には親しみを覚えない私は、ただひたすらに何もなく、一面に広がる草木の上を風が渡ってゆく景色に安らぎを見出す。

 川端康成の築いた世界に、私はそのような「荒涼とした平坦な土地・そこを吹きわたってゆく風」を感じている。

 この句は彼の心象風景であったと同時に、彼自身の理想的な存在のあり方をも表していたように思われる。

藤棚からハナミズキ通りを望む

  • サステナブルガーデン

1968年に川端がノーベル文学賞を受賞するに至るまでの選考の経緯・舞台裏にまつわる資料が、近ごろ相次いで陽の目を浴びているようだ。2017年1月17日の読売新聞文化面によると、作家・伊藤整(1905~69)が、ノルウェーのノーベル賞委員会に宛てて、川端文学に関する意見書を提出していたそうである。記事に引用された、川端文学を端的に言い表したその一文が、私にはどうにも忘れられない。

 

「彼の代表作では常に、母親と父親を求めて泣く子どもの姿が表現されている。これは月夜の原野に響き渡る孤独な笛の音と比較することができる。」

 

 川端康成が15歳までに肉親を全て失い、天涯孤独の身となったことはよく知られている事実である。父親は2歳、母親はその翌年に他界している。記憶の中にかろうじてあるかなきかといった程度の関わりであり、後年写真か絵かで示されなければ、これが自分の父母であると本人が理解することもなかっただろう。

そういう生い立ちは、必ず人の一生を支配する。私は心理学とか精神分析学は嫌いだが、自分自身の中に時おり発見する心の疵の根源に遡ろうとする度、それが幼時の何かしらの経験に基づくことに気づくのである。15歳の時、川端は祖父の臨終の模様をつぶさに描写した日記を書きとめる。これは後年『十六歳の日記』(数え年だと16歳)として発表されることになるのだが、最早寝たきりとなった老人の小水を取るシーンなど生々しい記述が冷徹なまでに展開される。そこには既に、あの有名な川端康成の大きな「眼」がある。じっと目前の事物を凝視する姿勢がある。この祖父の死を以て、彼は幾人かのきょうだいとは別れ別れに、親族のもとに身を寄せることとなる。

「鈴鳴らし行く人」が、一瞬こちらを見た時、あの静かで冷たい大きな瞳を月がよぎった。

 

  因みにこの句は、彼がノーベル文学賞受賞を知らされた夜によんだものだそうだ。「野」と「鈴」でノーベルと言葉をかけたという。

 川端康成という人に、私は誰も居ない野原を一人過ぎてゆく旅人の姿を連想する。

ハナミズキ通り

橘曙覧の「たのしみ」(10月2日)

田んぼと彼岸花

男一人、火桶(火鉢)を抱いて、歌を詠む。

 

 

よそ歩き しつつ帰ればさびしげに なりて火桶の すわり居るかな

 

 ふらふらと、どこかへ歩いてきて、家に帰れば火桶がポツン、とそこにある。あわれ、寂しく自分を待っていたかのように。

 その次の場面と思しきもう一首。

 

 見ありきし 晝(ひる)の野山の物がたり 火桶に言ひて 夜を更かすかな

 

 歩き回っていた真昼の野山で、彼は何を見たのだろうか。そこには、生身の人間はそう多くはなかったはずだが、あえて誰かに話したくなってしまうのは、いつでも人に関する物事である。彼は山野を歩くうちに脳裡に浮かび寄せ来る過ぎ去っていった人のことを思い出し、つい、物言わぬ火桶に話しかけたくなったのか。

 時おり、火桶の中で、炭が微かに炸裂する音。歌詠み人のつく吐息。いずれ夜はしらじらと明け、また皆が動き出す一日がやって来る。

 

 「友人が大きな黒い木で作った火桶を贈ってくれたので、それを膝の上に置き、肱をもたせ頬杖をつき、朝夕の友としている。」

 

火桶を詠んだ一連の歌には、こういう意味の詞書(ことばがき)が付せられている。

アジサイ園付近

歌人・橘曙覧。「たちばな あけみ」と読む。男性。1812年、越前(現在の福井県)の生まれだ。徳川氏による200年に渡る支配が時化のさなかの小船のように揺れ始めた頃、橘曙覧は幕府を倒して天皇中心の時代を築く勤皇思想を信奉して、藩主松平春嶽(慶永)公とも親しく交わっていた。元々商人の息子だったが、家を継ぐことを拒否。あえて極貧の中で暮らし、1868年、あと少しで明治時代が始まるという時亡くなった。(慶応から明治への改元のわずか10日前。)

  彼の残した短歌は、その勤皇・愛国思想を直截に歌い上げている為、今となっては何ともいい難いものも少なくないのだが、ここに『独楽吟』というまことにユニークな一連の歌がある。「たのしみは~」と始まる50首余りの作品。「独り楽しみ吟じる」歌。曙覧は何を楽しんでいたのだろう。そこに歌われているのは、小波のように穏やかで平凡だが、それなりに手ごたえのある、橘曙覧の「ごく普通の日常」だった。

ローズガーデンの花

たのしみは 庭に植ゑたる春秋(はるあき)の 花のさかりに あへる時々

 

咲き始めもわくわくするものだが、まさに今を盛りと咲いている花々を目にするのは、胸が膨らむような嬉しい気分。そして、自分の植え方(育て方)が良かったのだ、という密やかな自負に満たされる時間でもあろう。一年草もあれば、毎年花を咲かせる多年草も見られるか。花も私も、また一つ年を重ねたなあと、切り倒された幹の年輪を数えるような心持ち。

 

 

たのしみは 空暖かにうち晴れし 春秋(はるあき)の日に 出で歩く時

 

 ピクニック?デート?スポーツの試合? 何にしろ、暖かく晴れて空の高い週日に出かけるのは、「たのしみ」そのもの。あっさりして、ほのぼのして、わかりやすいだけに、こういう歌はいつどの時代の人が目にしても、すぐ納得できる。「どこへ行くの?」「ちょっとそこまで。」あてもないふらふら彷徨。日暮れまでには帰っておいで。

 

 

たのしみは 常に見なれぬ鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき

 

 ちなみに鳥好きの緑の王国ボランティアさんによれば、今年の緑の王国は、仙元山でもなかなか見られないような珍しい鳥がよく飛来しているらしい。私にはよくわからないし、見えないけれど。これもまた、日常の小さな発見、あれは何という鳥か、知りたくなったら、新たな自然の世界への探検の始まり。

王国通り突き当たり

たのしみは 心にうかぶはかなごと 思ひつづけて 煙草すふとき

 

 私は吸わないけれど、煙草を吸う人の顔は、忘我という感じがする。何も考えず、口元の感覚以外シャットアウトして、他の人の声にも一切反応しない。いや、そこまではいかないか。しかし忘我に見えても、案外頭の中では、普段忙しい時には浮かんでこないような「はかなごと」が、煙と一緒に渦を巻いているのかもしれない。そしてそんな時間が容易に他のものに変え難い「たのしみ」のひとときなのだろう。

 副流煙のことなど、何一つ考えることもなく。

 

 

たのしみは いやなる人の来りしが 長くも居らで 帰りけるとき

 

 これは「たのしみ」というより「うれしみ」(?)かもしれない。こんな歌を残すくらいだから、きっと橘曙覧という人は、世の中嫌いな人だらけだったことだろう。早く帰ってくれという無言のテレパシーを送り続けたら、さて、と相手が腰を上げた。やれ、うれしやと座布団を片付ける主人。なんとその下には剣山が。(ただの想像です。)

 

 

たのしみは 欲しかりしもの銭ぶくろ うちかたぶけて 買ひ得たるとき

 

 こんなことにならないよう、いつもお財布の中身は安心できる量を維持しておきたいものだが、まあそこはいろいろあって・・・。

何を買いたかったかはわからないけれど、まさに「なけなしの金をはたいて」買ったものだけに、いつもの何気ないお買い物で手にしたものとは違った感慨が味わえることだろう。財布の底からチャリンと転がり出てきたお金。それを見つけた曙覧の喜ぶ姿が、目に見えるようで、面白い。

 

オオモクゲンジの花(満開から実をつけるまで)

フローラガーデンに「オオモクゲンジ」という大きな木があります。秋になると「ゴールデン レイン ツリー」と呼ばれるような黄色の花を咲かせます。青空に映えた時には、思わず「うわぁ・・・」と声を上げてしまうほど見事な光景です。花はあまり長くは続かずじきにフウセンカズラのような実をつけますが、これは表面が恥ずかしがりやのように赤く染まる面白いものです。

オオモクゲンジ満開

オオモクゲンジ実をつける

黄から赤へと模様替えです。

オオモクゲンジの実

近くで見るとこんな感じです。

(続き)

 

たのしみは 小豆の飯の冷(ひえ)たるを 茶漬けてふ(という)物に なしてくふ時

 

 食べるというシーンをこんなに率直に歌にした人はあまりいないと思う。何の根拠もないけれど。でもそれは、曙覧が食べることにも大きな「たのしみ」を感じる人だったということ。冷や飯に茶を注いで、ずずっとかきこむ。うまい、うれしい、幸せ。ささやかで質素な食事かもしれないが、つい一首詠んでしまうほどに楽しんでしまう橘曙覧は、まさに「精神の貴族」。

 

 

たのしみは まれに魚(うお)煮て子等皆が うましうましと いひて 食ふ時

 

 ここまで作品を読んでくると、橘曙覧は独り者だったのかと思えてくるが、どっこい彼はとても貧しいのに子沢山だった。幼くして世を去った子もいた。食べ盛りがいっぱいいただろうに、魚だって「まれに」しか買うことが出来ない。でもそんな時は子どもたちの顔がいきいきと輝く。お父さんは自分の分の魚も子どもに上げて、小豆の飯でガマン。『独楽吟』の中でも人気の高い一首だ。

 

 

たのしみは 珍しき書(ふみ)人に借り はじめ一ひら ひろげたる時

 

 『独楽吟』からは、読書にふける曙覧の姿もよく垣間見える。それは、自由気ままな本読みというより、徳川の時代を乗り越えて、天皇を中心とした新しい世を切り開くにはどうすればよいか、を探る、あくなき勉学としての書見だったはず。とはいえ、ようやく手にした本の最初の一ページを開く時の心躍る気持ちは、この一首から十分伝わってくる。読書を主題にした作品と言えばもう一つ、

 

たのしみは そぞろ読みゆく書(ふみ)の中に 我とひとしき 人を見し時

 

これもまた忘れがたい。ひとり楽しむよろこびを知らない精神は、悲劇的だ。

オオモクゲンジ接近

私がここまで挙げた橘曙覧の歌は、みな浅野晃・著『橘曙覧』(大日本雄弁会講談社)という本から取った。何気なくどこかの古本屋で手にしたこのボロボロの一冊、発行年は1942年。戦時中だ。国家主義的な気運が盛り上がっていたこの時期だからこそ、勤皇思想をかかげ、愛国の歌も多く作った歌人・橘曙覧が見出されたのだろう。ここには挙げなかったが「天皇」と書いて「すめらぎ」と読ませる語句の入った歌も、浅野晃は多く収録している。それこそが、橘曙覧の本領であったのだと、浅野晃も、橘曙覧自身も思っていたかもしれない。

でも、このユニークでつい読みながら笑ってしまう『独楽吟』が、唯一無二の魅力を限りなく放ち続ける、橘曙覧の残した遺産に違いない。

この本の中で浅野晃は、曙覧には「楽しみ」を歌わずにはいられなかった「嘆き」や「憤り」、「鬱憤」や「憂憤」があり、それこそが『独楽吟』をつなぐ「玉の緒」なのだから、「そこを見なければこの連作はわからない」と言っている。その「嘆き」や「怒り」の源は、要するに徳川時代がいつまでも続くことにあったのだと言いたいようだ。だが、そんな堅苦しく考えなくてもいいではないか。

橘曙覧は、目の前で展開される日常の様々が、いつも他の人より遥かに豊かなものに見えていた人だったのではないか。私にはそう思える。

彼岸花

最後に、一番素晴らしい一首を読んでみよう。どこで誰に教わったのか知らないが、米国のビル・クリントン元大統領がある時、スピーチの中でこの一首を取り上げたという。

 

 

たのしみは 朝起き出でて昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき

 

よほどよく庭を観察していたのだろうか。それとも、その花が咲くのをずっと待ちかねていたのかもしれない。日常をたのしみ続けた橘曙覧が、明治の日本に生き続けたなら、一体どんな歌を詠んだだろう。

池内紀さんを悼む(9月9日)

 渋沢栄一翁の新1万円札額面選出が決定して数ヶ月。ますます深谷を語る上で、この希代の実業家の存在は不可欠なものとなってきた。もちろんそれまでも深谷に言及する人は必ず渋沢栄一の名を挙げている。

 

「埼玉県北部の深谷市は「渋沢栄一の生まれた町」をキャッチフレーズにしている。」

 

その人も、その文章の冒頭をこう書き始めている。意外なことではない。幅広い分野に旺盛な興味を抱いたこの筆者のこと、自分自身で知識を整理する意味もあったのだろうが、栄一についての文が続き、ラストにちょっとひねりがある。

 

「「栄一」というめでたい名前を受けた長男は、その名の通り栄えある実業の王国を築き上げた。」

 

へえ、「実業の王国」か。深谷ではなく殆ど東京に築き上げられたわけだが、確かに「王国」といっていいほど、幅広い業種に渡って渋沢栄一は近代日本経済に足跡を残した。筆者はそんな風に栄一の業績に結論を与えたあと、今度は意外な切り口で語り始める。

 

「鉄道をはさんで反対側の南に六キロばかり、渋沢生家と対称的な位置にべつの王国がある。」

 

え、どこどこ? いや、何も迷うことはない。それは、ここ、「ふかや緑の王国」のことなのだ。

 

フローラガーデン

ねこのひげ

ネコノヒゲ(ヒーリングガーデン)

 今まで引用してきた文章は、『人と森の物語』と題されて、2011年に集英社から「集英社新書」として刊行された。筆者はドイツ文学者として著名な池内紀(おさむ)さん。紀行文の分野にも活躍の幅を広げた池内さんは、開国から2年経った頃の緑の王国に足を運ばれ、散策されたようだ。 

 

「人がつくり、手入れしてきたユニークな森を訪ね、北海道から沖縄まで列島を縦断した!」

 

とカバーにある通り、山形、富山、和歌山、宮崎と、全国の様々な特徴ある「森」を遊歩したようだ。その中の一つに私たちの「緑の王国」が選ばれたのは、光栄。面白いこと。しかしどうやって知ったのだろうか?

池内さんが王国を訪れた頃は、まだ「本館」と呼ばれるコンクリートの建物があった。今は取り壊されて、ない。私は見たことがない。当時そこにはボランティアの木の名札が下がっており、池内さんもそれを目にしたらしい。文中に並べられる名前は、私の知るものもあれば知らないものも。池内さんは春之助や光子といったその名前の列から、王国に携わる人たちの年代を感じ取ったらしい。

 

「人それぞれに個性があり、春之助や光子世代は人生の蓄積の中で得意ワザを修得してきた。国づくりに生かさない手はないだろう。」

 

外部の人の視点や指摘は鋭く現実的な重みを持つものだ。

 

「行政側と手をとり合って市民の森を実現した聡明なリーダーたちは、組織が固定するときの弊害をよく知っている。たえず新任者を迎え、夢とエネルギーをバトンタッチして活性化していかなくてはならない。」 

 

こんな耳に痛い一言もある。どんな場所であっても、複数の人が集まって何か始めようとすれば避けられないことだ。さりげなくふらりとやって来たようでありながら、池内さんの目は奥深くまで届いていた。

森の音楽祭やバードハウスコンテストのポスター、チラシも見たという記述もあることから、池内さんの来国は、7月から8月にかけてのことだったのだろう。蝉時雨の中、ボランティアは草むしり作業に汗を流し、当時まだ行われていた「ザリガニ釣り大会」の準備をし、子供たちを集めての「木工教室」も開かれていたようだ。

花仲間ガーデン清流

正門付近

正門付近の風景。百日紅(サルスベリ)が毎年花を咲かせる。タクシーを降り立った池内紀さんの目にも映っただろうか。

「車から降りて、キツネにつままれた思いがした。予期したのとはまるきり違っていて、古木がうっそうと繁っている。門の周囲から三方にのびた道路に沿って、すべて緑、緑、緑。」

 

緑の王国が一番いい時期は、梅の咲き揃う3月から4月、そして無数の樹木が緑葉をたわわにつける夏の時期だと思う。池内さんがここへ来たのは、とてもいい時期だったのだ。梅が見られなかったのは、残念だが。

 

「ここちいい風が吹いていた。すわりごこちがいいと眠くなるもので、しばらく腕組みをしてうたた寝をした。まさしく王様の眠りである。」 

 

 

 

 恐らくこの本を書いている最中、東日本大震災が日本を襲った。池内さんには、この本を書き続ける意義を改めて振り返る契機ともなったようだ。

 

「章をかえてもたえず語りつづけたのは、土と水と太陽と、そして植物にたいする信頼である。どんなに人間によって痛めつけられ、荒廃させられても、自然は豊かな復元力をもち、春とともに植物は芽ばえ、根を張り、成長する。よく観察して、ほんの少し手助けしてやれば、とたんに鳥や魚たちがもどってくる。」

 

「はじめに」の中で池内さんはこう書いている。緑の王国で周囲を見回していると、確かにそう気づかされる。こんなに剪定しちゃって、また咲くの!?と思っても、春になればどんな木々や植物も芽を吹き、蕾が膨らみ、花が咲き、実をつける。何度でも繰り返して読みたくなる名文だ。

 

ルリマツリ

フローラガーデン

 8月30日、池内紀さんが78歳で亡くなった。専門のドイツ文学の翻訳や評論以外にも、ユニークな視点から綴られたエッセイも巧みな人であった。7月に新聞広告で新刊の著者として名前を見、その旺盛な執筆精神に敬意を覚えてから、まださほど月日は経っていない。私はその膨大な著作の一部しか読んだことはないが、その中では『二列目の人生』というのがひときわ面白かったのをよく覚えている。

 最前列で注目を浴び続けるよりも、あえて二列目に居続け、独特の功績を残した人たちを取り上げた一冊だった。56歳で東京大学教授を引退し、その後は著作活動を主として生きた池内紀さんも、自ら「二列目」を選び取った人だったかもしれないが、その歳月は、とても豊かな実りとなって残されたわけである。

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