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場内ガイド(2019年9月~)

更新日:2020年4月30日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、きまぐれではなく毎日、緑の王国の今を更新しています。

 こちらもぜひご覧ください。)

だからダメだと言ったのに(4月30日)

ヒーリングガーデン

ダメだと言われるほどやってみたくなるのが人間の性である。見るなと言われたら見ずにいられないのが人間の習性である。そればっかりに「鶴の恩返し」のおじいさんは機織りをする娘の正体(鶴)を見てしまって逃げられるのだし、オルフェウスは永遠に愛しい妻を剥奪されてしまう。見るな、ダメだ、と言うのはつまり見ろ、やれの伏線なのかもしれず、世界中の民話や伝説に、タブー無視をモチーフにしたものは枚挙にいとまがない。

 私がそんな話の中で一番残酷に思うのは、ロトの妻の運命である。旧約聖書、『創世記』19章から。悪徳の都・ソドムから特別にロトの家族だけ選ばれて逃れる時(神様はよくそういう気まぐれを起こすものだ)、老人ロトの後ろにその妻がついて歩いていた。彼らは絶対に後ろを見るなと厳命されていた。誰かが見なければ話は進まない。ロトの妻は振り向いてしまった。

 彼女は、塩の柱にされてしまった。

 塩の柱とは一体何を意味するのだろう。誰が塩の柱にされた彼女の姿を見届けたのだろう。そして柱というのはつまり固形物だから、それが何で固着されていたのかも気になる。もとい塩はさらさらの粉末だから、垂直に積み重ねられるものではない。一瞬柱の状態を保ってすぐ崩れてしまったのか。いや、岩塩だったのかもしれない。塩の柱と化したロトの妻はその後どうなったのだろう?ロトが甲子園の勇士よろしく泣きながら袋にかき集めたなどということも書かれていないから、恐らくそのまま地面に溶け込んで、ソドムの大地にミネラル分を提供したのだろう。しかしこんなこと追求するのは野暮の極みのようなもので、同じく旧約聖書『伝道の書』から言葉を借りるなら、「風を追うようなもの」である。

 このロトがソドムの都から逃れるシーンは多くの絵画作品に描かれている。しかし塩の柱になった妻を描いたものは、あまり見たことがない。逆にこれをどう描くかは画家それぞれの腕の見せ所だろう。私は塩の柱というから正直に直立した柱を思い浮かべていたが、あたかも大理石彫刻のように彼女が真っ白く硬直した姿だったり、体が私の考えたような白い柱で、顔だけが辛うじて人間のままだったり(いずれ皆塩になってしまうのだろうが)、調べてみると、なかなかバリエーションに富んでいることがわかる。しかし、大抵の絵画作品では、ロトの妻は五体満足な人間だ。という事は、まだ後ろを向くなという禁を犯していない段階の姿であり、人の言う事を素直に聞いていれば元気でいられるんだよ、というメッセージかもしれない。しかし、ならば誘惑に負けて塩の柱になった姿を描いた方がより教訓的ではないかとも思える。ほら、言わないこっちゃない、だからダメだと言ったのに、といった風に。

 私がこんなことを書くのも、外出はダメだと言われるとしたくなる人間の有り様を見つめてみたかったからである。私は『地球の歩き方』を読み流しては、想像上の旅行を楽しんでいる。国外の都市の地図を見ては、その中で迷子になっている自分を思い浮かべている。

 人間である以上、みんな塩の柱になる資格を持っているに違いない、とロトの妻はしおらしく伝えてくれているのかもしれない。

ハルリンドウ

ハルリンドウ

ボランティアさんおすすめの花「ハルリンドウ」(上の大きい写真の花も)

エビネラン

エビネラン(山野草ガーデン)

オオデマリ

オオデマリ(花仲間ガーデン)

松月

松月(桜) 王国ひろば

フローラガーデン

フローラガーデンの一画

ブーケのようにいろいろな花が植えられていて目に楽しく、涼やかな感じがします。

  • ハンカチノキ

季節の花 ハンカチノキ

広げたハンカチのような四角い花を咲かせます。あまり見ることのできない珍しい木です。

今年は例年になく多くの花を咲かせており、貴重な機会となっています。

花束を贈ろう(4月17日)

 英国の首相には、その職を退いてから1年程で亡くなっている人が多い。初代首相とされるロバート・ウォルポール(在任1721年~42年)から数えて55人の首相がいるが、退任の翌年、或いはその年のうちに他界した人は9人、これに在任中に他界した人も含めると15人になる。これは何を意味するのだろう。あまりの激務ということなのか、若い人の就任が少ないのか、病人が多いのか、はたまた国王のわがままに心身をすり減らしたのか、そのどれもが少しずつ組み合わさっているのかもしれない。日本の首相は、メンタルの強い健康体だらけなのか、退任後数十年もピンピンしていてまた大臣になったりオリンピック開催のトップになったりしている人がいる。元気で何より。

 ユダヤ人として初めて英国の首相になったベンジャミン・ディズレーリも、引退生活をゆっくり楽しめなかった一人である。保守党の党首として二度(1868年、74年~80年)首相となった。ライバルはウィリアム・グラッドストン。彼は何と四度も首相になった。四度目に就任したときは82歳。おじいちゃん、お疲れ様。やめた方がいいよ、とは誰一人言えなかったのだろう。しかしこの二人は英国の二大政党制を確立した最大の功労者。一方がやめると、一方が首相になり、また・・・ということを20年近く繰り返した。東西の横綱といったところか。

ハナミズキ通り

チューリップ

チューリップ

クロフネツツジ

クロフネツツジ

シャクナゲ

シャクナゲ

  • 花仲間ガーデン

ディズレーリが首相を退任したのは76歳の時。最初の任期は1年にも満たなかったが、二度目の在任中、ディズレーリ内閣はスエズ運河を買収したり、インドを英国直轄の帝国としてヴィクトリア女王を皇帝に推戴したり、その後の英国の発展に大きな意味を持つ業績を打ち立てた。人生百年時代の現代日本からすれば76歳はまだまだヒヨッコだが、当時の英国では長寿の方だっただろう。ディズレーリはだいぶ年長の貴婦人と結婚し、予想に違わず妻の方が早く世を去ったので、彼はヒューエンデンの邸宅にひとり住まいだった。(勿論使用人はいたはずだから何もかもひとりでやっていた訳ではない。)

フランスの作家、アンドレ・モロワは、評伝『ディズレーリの生涯』の中で、重責を肩から降ろしたばかりの前首相がひとりで迎えたその年の聖誕祭をこう綴っている。

 

「彼は1880年のクリスマスをヒューエンデンでただ一人ですごした。

 食卓に本を一冊持っていって、一皿食べ終わるごとに十分ほどこれを読むのだった。」(安東次男・訳)

 

何気ないディズレーリの晩年の一こまだが、私にはとても味わい深い。政治家としての多忙な日々の中、こんな風にゆったりと午餐を取ることはあまり多くはなかったはずだ。小説家としての一面もあったディズレーリは自身多くの著作があった。クリスマスの晩に、静かにフォークを手にし、口を動かしながら彼が読んでいたのは何の本だったのだろう。

ひとりでゆっくりと食べる夕飯が、これほど簡潔かつ豊かに描写されていることが感動的なのである。邸には彼を陰に日に支え続けた夫人の記憶が染み込み、それに守られながら、老いた文士にして前宰相は口福と書物の世界に浸る。時折、卓上に揺れるロウソクの火に目を留めながら、来し方を振り返り、宙に目をさまよわせる・・・。彼が世を去るのは、それからおよそ4ヶ月後のことだ。

花仲間ガーデン

ブータンルリマツリ

ブータンルリマツリ

ムサシアブミ

ムサシアブミ

  • サクラソウ

ディズレーリはある花が好きだった。サクラソウである。と言ってもこのサクラソウは、いわゆるニホンサクラソウ(写真のような)ではなく、プリムラ(英語ではプリムローズ)のことだろう。プリムラはサクラソウ科プリムラ属で、世界中に様々な品種が分布している。ヨーロッパでは、ポリアンサ、ジュリアン、アジアではマラコイデス、オブコニカ、シネンシス、そしてサクラソウ。

ディズレーリが好きだったのが具体的にどの種類なのかはわからないが、老いた大政治家が花を愛でている姿を想像すると、なんだか心が和む。好き嫌いの激しいことで有名だったヴィクトリア女王は、グラッドストンを終始毛嫌いしていたが、ディズレーリのことは心から信頼していたようで、女王との会話の中で彼は自分の好みの花を披露していたのだろう。女王がサクラソウの花束を彼にプレゼントしたことがあったため、二人は恋仲だと噂されたこともあったとか。(ヴィクトリアの夫アルバート公は1861年に死去。)

1881年4月にディズレーリが他界し、その墓前にヴィクトリア女王が「彼の最愛の花」としてサクラソウの花輪を捧げた。そんな話が伝わると、それがなぜか議論の的になった。「そんな単純な好みは」彼らしくないと言うのだ。グラッドストンも似たような反応を示していて、あの男はサクラソウなんかより「豪華な白百合」の方が似つかわしいと言ったそうだ。これも面白いことで、つまりそれだけ、19世紀の後半にはプリムラは英国民にとって、特段珍しくもないごく日常的な花だったということだろう。と同時に、人々がディズレーリに抱いていた印象の一端もうかがえる。

フローラガーデン

  • フローラガーデン

「しかし翌年彼(ディズレーリ)の一周忌の四月十九日が近付くと、ロンドンの花屋には彼の弟子や友人だった多くの人々から、生きたサクラソウで「ビーコンズフィールド・ボタン飾り」をつくってくれという注文が舞いこんだ。

当日ウェストエンドの舗道には花をつけた人々の往来が繁かった。年々この習慣はひろがっていった。保守派の大同盟が組織されたが、これには「サクラソウ同盟」の名がつけられた。

春がめぐってくるごとに議会内の小さな広場のディズレーリの像のもとに、無数の忠実な友が「彼の最愛の花」を飾りにくるのだった。」(1877年、ディズレーリは貴族に列せられビーコンズフィールド伯爵と呼ばれることとなる。)

 

今、2011年1月号の『趣味の園芸』を見ていると、プリムラの一種「オーリキュラ」という花が紹介されている。18世紀後半に英国で誕生し、19世紀に一般に広まった。デイジーのような真ん丸いかわいい花で、ボタン孔に差すと、なかなかオシャレで様になりそう。無論、この花がディズレーリの名を冠したボタン飾りに使われたのかはわからない。しかし、ひとりの故人が愛でたひとつの花を通じて多くの人々がつながりを持ち、それが年とともに広がり、ついにはその集まりに花の名が付けられた。そういう人と人との結びつきがあり、それが生きていた時代があったのである。「サクラソウ」が花開く頃、ディズレーリを慕った人々は、生きていたころの彼の姿を思い出し、そしてこう思ったはずだ。「そうだ。ディジー(彼の愛称)に花を贈ろう。彼の好きだったあの花を」。

フローラガーデン

  • サクラソウ

毎日毎日途切れることのない新種の疫病を報じるニュースのせいで、疲れた。もうテレビなんか見たくもない。そんな人が多いだろう。私もそうである。このままいつまで続くのか。何とか気分を変えなければ感染する前に別の事情でダウンしてしまいそうだ。まずはテレビを消そう。アナウンサーの単調で冷徹な声とはしばらくおさらばだ。部屋を見回そう。なんだか殺風景だ。飾りがない。(マスクもない。)そうだ、花を飾ろう。春の花、明るい花。花で心を明るく飾ろう。沈んだ気持ちを切り開こう。ディズレーリの過ごした最後のクリスマスのように、美味しいものを食べ、本の中へ出かけよう。やまない雨はないと、今は期待するしかないのだ。

平静を取り戻した世界を信じ、今日を生きる自分へ、花束を贈ろう。

竹西さんの「手続き」(3月30日)

 思いがけない文脈で思いがけない言葉が使われると、心の中で火花が散ったかのような軽い衝撃、いや、衝撃と言う程の強さではないが、しかし決して小さくはない気づきが爆ぜるのを覚えることがある。

  言葉というのは面白いもので、使う場面や状況によって、それが持つ雰囲気やニュアンスというものがカメレオンの皮膚のように変わるものである。

 

場内ガイド

ハクモクレン

ハクモクレン

 「手続き」という何気ない言葉を、私たちは日常どのように使っているだろうか。

 例えば保険の契約の「手続き」、更新の「手続き」。新しく組織や団体に自分の名を登録する為の「手続き」、またはそこから抜け出る為の「手続き」。

 この言葉を口から発するのに、ふつうは何の感情も込められることはないだろう。「手続き」自体は、申請するのも実行するのも人間に他ならないが、それは殆どの場合、申請する人にとってはそうせざるを得ない「必要性」によってなされ、その「手続き」を進める人にとっては「自分の仕事」として行われるものだ。

 だから「手続き」という言葉には、あまりぬくもりや温かみといった人間的なものはこもらない。ごく事務的な一語であって、特別に人を立ちどまらせ考え込ませる成分は見当たらない。人工知能にプログラミングさえすれば、人間でなくてもこなせてしまう「手続き」があまりにも多いことがわかったとしたら、この言葉はいよいよ無機的でそっけない響きしか纏わなくなるだろう。

 だが、この「手続き」という言葉から、こうした無表情な装いが消え去ることがある。竹西寛子さんの文章を読んでいると、よくそのことに気づく。

 

(下の写真)イチリンソウ

イチリンソウ

サラサモクレン

サラサモクレン

この間からずっと読んでいた一冊、竹西寛子さんの『詞華断章』。春夏秋冬それぞれの季に沿った短歌や俳句が、短いエッセイの中に織り込まれる。全て筆者の長く愛好する詞華であり、どの作とも一定の距離を置いてはいるが、竹西さんがそれ等に寄せる親身な情愛が、エッセイの一編一編から香り立つようだ。朝日新聞に3年間に渡って連載され、のち書籍となった。私の手に取ったのは「岩波現代文庫」版。最初は朝日新聞社から単行本として、次いで「朝日文芸文庫」として、そしてこれが3度目の刊行と本文に書かれているから、優れた書物は版を絶った後も繰り返し蘇ることを物語る。

読み進めていると、清少納言と兼好法師の話が目に止まった。(「死は後ろより」という章)前者は『枕草子』、後者は『徒然草』。いずれも誰もが名前くらいは知っているスタンダードな古典文学の筆者だ。竹西さんは、この両者のそれぞれの作品を読み比べて、そこからうかがえる二人の資質を探り出している。

 

竹西さんがその文章から感じる清少納言という人の特質は、直感的で、やや衝動的ということになるようだ。「自分が反応した事や物」を読者に差し出すことには「大そう勇気」がある。でも何故自分がそう感じたか、その「理由づけや想像には読者まかせの一面がある」らしい。

つまり、彼女は、自分はこう思う、こう感じる、ということを連射砲のようにポンポン口から出す。物事への情報処理が速く、頭がよく切れるということか。でも、その感想や判断に至った理由には、殆ど触れない。書かない。だからそれを読む読者は、取りあえずは成程、この人の言うことは面白いな、すごいな、とは思うけれど、そこから先へ踏み込むことが簡単でないことにもじき気づかされる。

 例えば『枕草子』四十五段、

   

「若い人や乳のみ児はふっくらと肥えているのがいい。国司など上にたつ人も、やっぱり肥えていた方がいい。あまりやせてひからびたようなのは、神経質そうでいやだ。」(田中澄江・訳。以下同じ)

  

 は、まあそれは個人の主観や好みじゃないでしょうか、と言ってしまえばそれまでのような気もするし、二百四十二段、

 

 「扇の骨は青いろの地紙には赤いのが、紫のにはみどりがよい」

 

 というのも、私には感嘆措くあたわざる色彩感覚とはどうしても思えない。

 二十三段、

 

 「人に重々しく見られぬもの。家の裏口。あまりお人よしだと評判の人。また軽薄な女。土塀の崩れ」

 

 はまだそれなりに得心がいくが、彼女の気に入った橋の名を列挙した四十九段、

 

 「橋はあさむつの橋。長柄の橋。あまびこの橋。浜名の橋。ひとつ橋。佐野の舟橋。かけはし。勢多の橋。・・・(以下略)」

 

 に至っては、少なくとも今現在これを読む私にはひとつもその実像が浮かび上がってこない橋の群れなので、何とも言えない読後感だけが残る。(「かけはし」というのは特定の橋の名なのだろうか?)成程、清少納言という人が、自分の感性を提示することに「大そう勇気」のある人だったことはよくわかる。しかもなんとまあ「大そう」な感性であったことか。

 

(下の写真)王国通り。コブシなどが咲き揃う。

王国通り

では『徒然草』から読み取れる兼好法師の性質とはどんなものだったのか。竹西さんはこう言う。

 

「兼好は、人間について、社会や文化について、よく分析し、帰納し、演繹しなければ気のすまない人のような文章を書いている。絶えず自問し、答を準備し、事や物のあるべきように目が届いていなければ落ち着かない人を思わせる文章である。」

 

 一読して、清少納言との違いがすぐわかるだろう。清少納言が直感タイプなら、兼好は繰り返し熟考し、反芻するタイプ。こういう両者の特質を掴むまでに、竹西さんは何度も二人の文章を読み込んだのだろう。(上司に持つとしたらどちらのタイプが良いだろうか、などと呟いてみる。)

続く文中で竹西さんは、兼好法師のよく練られてはいるが執拗なところもある文章よりも、あっさりさっぱりしていて、一つ一つの記述に深くこだわりを持たない『枕草子』の方にこそ、読者が自由に想像や解釈の羽を伸ばせる余地があることに気づかされたという意味のことを書いた上で、清少納言の文章をこう結論づけている。

 

「思うに清少納言は、自分が反応した事や物の提示に責任の所在を示し、大袈裟にいうと、自分の存在をかけているのであって、兼好が根気よく行っている思考や判断の手続きの報告は必要としていないらしい。」

 

 ここで、漸く私が最初に触れた竹西寛子さんの「手続き」が登場した訳だが、さあ、この言葉をどう受け取ればいいのだろう。

(下の写真)山野草ガーデンの桜。ソメイヨシノと思われますが、他にもヒカンザクラ、八重桜など数種の桜が咲きます。

桜

これが最初に一般的な意味合いとして提示した「手続き」とは違う意味を持つことは確かだろう。保険の契約のような「手続き」は、言ってしまえばマニュアル化されているから、それに則れば誰にでもできるし、できなければ困る。でも、ここで竹西さんが言う「手続き」は、そういうものではない。

 それは兼好ただ一人にしかできないものだ。何故なら「思考や判断」の中身は一人一人違うもの。ある物事に対して、自分はどう考えるか、どう判断していかなる結論を下すか、その順序や基準、基盤は、人それぞれの感性や知性、教養、経験、体験、記憶、理解したこと、教えられたことの蓄積に根ざしている。言ってしまえば、その人(ここでは、兼好法師という鎌倉時代の一人の文人)のそれまでの人生の全てが、そこから見出せてしまう性質のものなのだ。

 だからこそ兼好はそれを「根気よく」何度でも行う。自分はこういうものの価値、判断をする人間だということを、より確実にしたいのだろう。要するに、「私は何者か」という大きな問いを追求し探り当てようとする作業である。

とするならば、兼好が『徒然草』を書いた時にしたような「手続き」を、私たちも日常行っている筈なのである。無論誰もが日常的に物を書いているわけではない。しかし、私たちは皆、日々小さな思考や判断を積み重ねて生きているのではないか。

例えば、家族の一人が、ある日随分気落ちして帰宅したとしよう。その様子を見て、自分はどう声をかけるか、何をしてあげたらいいのだろうか。その考えた道筋、或いはプロセスをみんな紙に書き出したとしたら、多分竹西さんの言うような「手続きの報告」となることだろう。五人家族の一人が落ち込んでいたとして、残り四人がその人にどう接しようとしたか、それぞれの「手続きの報告」を読み比べてみたなら、おのおのの個性や感性の違いがよくわかる、面白い記録となるかもしれない。

こう見てくると、「手続き」という言葉は、実に面白い可能性を秘めていたのだということに気づかされる。最初感じた事務的で無表情な印象は消え、いつの間にか血の通った言葉となっているのに驚く。「手続き」した人それぞれの表情がそこから浮かび上がってくるようだ。竹西さんのこの文に即して言うなら、呻吟し苦悶しながら『徒然草』を書いていたのかもしれない兼好法師の顔が、見えてくることだろう。

それにしても、「手続き」という言葉に、こうした特異な角度から息吹を吹き込んだ人は、竹西寛子さんくらいではないかと私は思う。この人の文章を読んでいると、この「手続き」がよく顔を見せるのである。しかもその持つ意味は、それぞれの文脈で少しずつ異なっているのだ。使う人によってこそ、言葉はその表情を変化させるということだろうか。

 

場内ガイド

『詞華断章』の「岩波現代文庫版あとがき」の中で、竹西寛子さんはこんなことを書いている。

 

 「生まれつき、才能、体質、生活環境などと密接しているのが人それぞれの言葉遣いである。従って私達にはその折々の言葉遣い以上の生もなければそれ以下の生もない。」

 

 元外交官の作家・佐藤優氏の『人をつくる読書術』という本にも、  

 

 「結局人間が人間として文化的な生活をしていくということは、言葉をいかに操ることができるかということと同義です。自分の気持ちを知り、整理するのも言葉、自分の思考や意志、思想を形づくるのも言葉、そしてそれを他者に表現として伝える手段も言葉しかありません。」

 

と書かれている。片方は日本の古典を始めとする文学、片方はロシアを中心とする国際情勢の分析で活躍する人が、相通ずるようなことを言っていて、私は面白く、だが意外に思った。

 

 

竹西寛子さんと同い年であった作家・向田邦子は、ある講演の中で興味深いことを言っている。

  

 自分は言葉というものはとても怖いものだと思う。紙の上に書いている言葉はまだいい。これは良くない、と思ったら消しゴムで消すことができる。だけど、口から一度出てしまった言葉は、「シマッタ」と思っても、二度と消すことができない。それどころか言われた人の脳裡で一生消えないまま残るかもしれない。そう考えると、言葉を軽々しく使うことは恐ろしいのである。

 

 大体こういう内容のことだ。もう大分前に一度触れたきりだから、思い違いもあるかもしれないけれど、とても面白い話だと思った。面白いけれど、誰にとっても無縁でないことである。誰だって、何気なく発した一言で相手を傷つけたことはある筈である。しかもそのことに気づかないまま、一生を過ごしてしまうかもしれないのだ。言葉を駆使する脚本や小説の世界で生きてきた人ならではの気づきである。貴重な気づきである。

 しかし、さりげない一言で他人を傷つけてしまうのも恐ろしいことだが、そんな一言一言の積み重ねが自分という人間を作り上げていくのだ、という事実の方が、より恐ろしいものかもしれない。もはや後戻りのできない自分という存在を、否応なく思い知らされる。

 

場内ガイド

  • 場内ガイド

もし自分が日常口にしている言葉を紙の上に全て書き表すことがあるとしたら、どう感じるだろうか。手放しで感動するという事は滅多にない気がする。

何だ、自分の言葉はこんなものか、と小さく恥ずかしくなるのではないか。自分が周囲の人間とどのように渡り合っているか、世界とどのように結びついているか、その思いがけない乏しさ、頼りなさに直面させられる経験になるかもしれない。これもまた、言葉の持つ怖ろしさの現れである。

 人は言葉によって、その存在の輪郭も中身も形作られる生き物であるらしい。自分を豊かにするのも貧しくするのも言葉次第だとするならば、そういう気づきは、出来事への反応を直ちに口にしてしまうことへの「ためらい」を、自分の中に深く埋め込むまたとない契機となりえようか。

 これを竹西さんの用い方を借りて言い表すとするならば、頭の中に萌した小さな感想が、口からある一つの言葉となって発せられるまでの「手続き」に、より敏感になれということになるだろう。

 しかし、どうすれば、言葉を豊かにすることができるのだろうか。自分を豊かにすることができるのだろうか。

大輪、所を選ばず(3月10日)

 2月11日に84歳で亡くなった野村克也さんは、1954年、当時の南海ホークスにテスト生として入団した。野村さんの最初のポジションは、登板前の選手がブルペンで行うウォームアップに付き合う捕手。これをプロ野球の世界では暗に「壁」と呼ぶそうである。

 どんな業界にも、時に残酷に響くある種の「隠語」があるものだが、「壁」は簡潔でストレートなだけに、とりわけ強い印象を残す。「壁」の時代を経た野村さんも試合に臨むことができたものの、プロとして1年目の成績は「11打数0安打5三振」。

 「拝み倒して撤回してもらった」そうだが、シーズン終了後、球団から解雇を通告されている。

  野村さんが楽天の監督を引退することを決めて間もない2009年10月30日の読売新聞「編集手帳」は、野村さんの野球人生の振出しをこう紹介している。当時高校生ながらもある感動を覚えて読み終えた私は、この記事を切り抜いてノートに貼りつけておいた。野村さんの訃を聞き、久し振りにノートを取り出し、やや色褪せ始めたその四角い記事を見つけ、熟読した。

クロッカス

リュウキンカ

リュウキンカ

ふかや村の梅

梅(ふかや村)

  • フローラガーデン

(上)フローラガーデン

 

 王貞治や長嶋茂雄といった昭和を象徴する大スターと比べて、冴えない時代の多かった自分を、野村さんは生前折りに触れて「月見草」と自称していた。誰もがその活躍ぶりに目を輝かせる二人の姿を、真昼の陽光に照り映えるヒマワリに例えるならば、自分は月夜にひっそり咲いている存在に過ぎないと。

 

 

 

 私は緑の王国の中をいつも何気なく歩いているが、何故花はこうも種類が多いのだろう、と不思議に思う。同じ「花」とはいえ、咲く時期も違えば咲き方も違う。散り方も様々ある。そして、これでも同じ花なのか、と時に呆れる程、花の形も違うのだ。同じ「人間」でも、金太郎飴のように瓜二つなんてのがいないのと同じことか。殊に、春先に咲くマンサクという花の姿を見た時には、一体誰がこの花はこういう形で咲くものと決めたのか、つくづく奇異に感じたものだ。

 

(下)シナマンサク

シナマンサク

紫と白の斑入りのクロッカス

紫と白の斑入りのクロッカス

クロッカス

紫のクロッカス

日差しを受けてつやつやと輝いている

今でも、あれは何だったのだろう、とふと思い返すことがある。その時神田神保町で、ある一軒の古書店の店先に並べられた、200円だか300円の均一本を見ていた私は、一人の老人に話しかけられたのだった。

 

 「君はどうして人間が地上に出現したと思うか」と、老人は聞くのである。

 街中でいきなりこんな話をしかけてくる人など白い目で見られてもおかしくはないだろうが、そこは知の一大集積地とも言うべき、世界的な古書店街・神田神保町である。初対面の人間にこういう問いかけをしてくる人がいたとしても、そんなに不思議なことではなかろうと私は思った。

不意の奇妙な問いかけにどんな反応をしたのか、もう定かな記憶はないが、私なりに何かと答えたのだろう。老人はこういう内容のことを語った。

 

「自分は若い頃からそのことを疑問に思っていた。長いこと考え続けてきたのだが、どうしてもわからない。ノーベル賞をとったK大学のY教授も、矢張り同じように言っている。つまり人間が地上に出現した理由について科学的な考察を積み重ねていっても、ついにある段階まで達すると、そこから先はどうしてもわからなくなってしまうのだと。

 自分は最近になって漸く、これはもう「神様」と呼ぶべき存在のなしたことと受け取る他ないのではないかと思えてきた。却ってそう考えた方が、落ち着くものがあるのだ。この年になって、やっとそんな結論に達することができた。」

 

 

 

(下の写真)赤いヒカンザクラ、奥ではハクモクレンが満開。青空を飛行機雲が伸びていく。

ヒカンザクラにハクモクレン

 老人はどこといって奇矯なところのない、小柄で眼鏡をかけたごくふつうの男性だった。ひとしきり私を相手に話をした後、「ジャマをして悪かったね」と言い残して去っていった。私はその時になって初めて、自分のポケットを気にし始めた。もしやあれは二人一組のスリグループで、一人がターゲットに話しかける間、もう一人がさりげなく近寄ってサイフを抜き取っていたのではあるまいか、と。

 しかし、サイフは変わらずポケットに入っていた。大体ターゲットに持ちかける雑談にしては、あまりに深遠すぎる内容ではないかと気づいた。私は老人の後ろ姿を目で追ったが、もう人中に紛れてしまってわからなかった。

シナマンサクと桜

(上)桜とシナマンサク 管理事務所裏にて

 

 私は、「運命」という言葉を好かない。それは殆ど「神」という言葉と同義である。そういうものもあるのかもしれないが、それを自分に納得させる気にはなれない。「今はまだ」なれない、ということかもしれないが。でも、あのマンサクという花が、まるで風になびくスズランテープの切れ端のような形で咲いていることは、マンサクの「運命」であり、「神」みたいな存在がそう決めたことなのかもしれない。

 神保町の老人が言ったように、私もそう考えた方が、寧ろ落ち着くものを感じなくもないのである。

 マンサクはよりによって、桜の木の隣りと梅園の傍らに根を下ろしている。(桜の隣は「シナマンサク」、梅園の方は「マンサク」)。

 「よりによって」などと書くのは、梅や桜の開花状況を尋ねる電話はあっても、マンサクが咲いているかどうかを問い合わせる電話など、私は受けたことがない。あれがマンサクの開花の形だと気づく人も多くはあるまい。

 つまり注目度から言えば、マンサクはその隣人(隣木?)とはとても比較にならないのだ。

 しかし、そんなことはマンサクのあずかり知らぬことである。自分の隣の木が、春の代名詞と言うべき人気者であろうとも、我は我。彼は彼。小さくなる必要なんかどこにもないのだ。

 自分でこう咲こうと決めた訳ではない。見知らぬ誰かがいつの間にか自分の晴れ姿をこうと決めてしまったのだ。そのまま咲き続けるしか仕方ないではないか。

 

桜に劣らぬ大きな枝ぶりを見せるシナマンサクは、黄色い花をたくさんつける。一つ一つの花は大きくはないが、それらが団結して、遠くから見ると桜の隣に黄色い雲が浮かんでいるようだ。

 桜さえ咲けば、春が来るというものではない。花開いてもすぐはかなさを湛えながら散って行く桜とは違うその花らしさを、マンサクは持っている。その花弁の持つ黄色も、矢張り春の色であり、梅と桜の間をぬうようにして開花するマンサクにも、春のおとずれを告げる役割は等しく与えられているのだ。

手前に桜奥にシナマンサク

 「壁」からプロ野球人生を開始した野村克也さんは、やがて現役選手として戦後初の三冠王、引退後は日本シリーズを三回制した名監督として、大輪の花を咲かせた。

 人知れず芽を出した月見草は、やがて静かに根を伸ばし、葉をつけ、蕾を膨らませ、幾度もきれいな花を開いた。その確かな咲き姿は、時にヒマワリの華やかな輝きをはね返す程の光を放ったことだろう。

 

「編集手帳」の筆者は、プロ野球ドラフト会議の情景をテレビ中継で見た後、この日のコラムに着手したようだ。前半257字の中に野村さんの野球人生を凝縮させてから、まだ見ぬ大輪の芽に語りかけるかのように、一文をこう締め括っている。

シジュウカラ

桜の木にシジュウカラが遊びに来た。

  • 桜

 「プロになる夢を胸に抱きつつもドラフトとは無縁のまま、きのうも素振りをし、走り、ひとり黙々と汗を流した若者がきっとどこかにいるだろう。カメラの放列とまぶしい照明のある道だけが、夢の扉に通じているわけではない。」

されど、誰しも時の中(3月1日)

フランスの思想家ロラン・バルトの遺作となった『明るい部屋』は写真について論じた本だが、この人が殆ど初めて自分の心の奥深くにまで光を当てて、見えてきたものを書き綴った文章であり、そしてこれを書く少し前に他界した彼の母への追悼の一冊である。

 バルトはいつ頃からかはわからないが、長いこと母と二人で暮らしていたそうだ。年を取り衰えた母を介護していたようである。その言葉につきまとう小暗いものは文中からは窺えないが。そういう日々の一こまを何気なく掬い取った次の文に、私は戦慄めいたものを感じた。

 

「母の病気のあいだ、私は母を看病し、紅茶茶碗よりも飲みやすいので母の気に入っていたお椀を手にもって、お茶を飲ませてやった。

母は私の小さな娘になり、・・・あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。」

 

『明るい部屋 写真についての覚え書き』花輪光・訳より

 

ふかや緑の王国場内ガイド

  • ソシンロウバイ

(上の写真) ソシンロウバイ(素心蠟梅) 南門付近で開花。

 

 

人は、書こうと思ってこういう文章を書けるものではない。バルトは最初からこういうことを書くつもりではなく、気がついたら紙の上のこの文を認めていて意外に思い、でも何となく消す気にもなれなかった、そういう性質の文章ではないか。

非常に年齢を重ねた人の振る舞いや、死を前にした老人の様子を「子どものようだ」と感受し形容することは珍しくない。しかし、肉親のそのような姿を目にして、これは「小さな、自分の娘」だと言い切るとはどうしたことだろう。その言葉の裏には、親と子の経てきた、一筋縄ではいかない感情の行き交いの歴史が息を潜めているように感じられる。

 これはバルトの遺言と言っても良い言葉だと私は思う。『明るい部屋』を書いて間もなくバルトは交通事故で亡くなっていることもあずかって、尚こんな風に感じるのかもしれない。ロラン・バルトの母は息子にとって、その一部であり、それ以上の存在感を持っていた人だったのか。

 それは、単なる仲の良い母と子、という関係性とはまた違う、人と人を結び繋ぎ合わせる一つの流れを形作っているように思える。

 

 

 

(下の写真) 頭上に咲く梅を見上げるのに疲れ、ふと足元へ目を落とすと、小径には花びらが舞い落ちている。

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シナマンサク

シナマンサク

ふかや緑の王国場内ガイド

近くで見ると花びらの一枚一枚が丹念に彫り込まれた細工のようだ。

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フランスの男性は、母性への憧憬が強いのか、自分よりもかなり年上の女性を思慕の対象とする人が少なくない。

 ずっと昔、16世紀ヴァロア朝の国王アンリ二世は18歳年上のディアーヌ・ド・ポワチエという(妻ではない)女性にぞっこんだったそうだ。(他にも歴史上例はあるかもしれないけど)ずっと下って20世紀の作家、マルグリット・デュラスは66歳の時、27歳の詩人と恋に落ち、82歳で死ぬまで共に暮らした。

 1990年代に日本でも翻訳が進んだアニー・エルノーという作家が訪日した際、作家小池真理子は、彼女が22歳年下の男性を「恋人」として伴っていたことに注目している。

 現大統領エマニュエル・マクロンの妻ブリジットが、彼より25歳年上で、マクロンの中学校時代に教師と教え子という関係からスタートしたというのは今ではよく知られた話である。

 何故フランス人の間ではそのような関係が少なくないのか、アニー・エルノーとその「恋人」の親密な振る舞いを目にした小池真理子は、こんな風にその解説を試みている。

 

ふかや緑の王国場内ガイド

  • ふかや緑の王国場内ガイド

   

   「ひとつには、個の確立が私たち日本人と異なって徹底しているから、と言えるかもしれない。

  ありていに言えば、自分は自分、人は人なのだ。世の常識というものは、たとえあったとしても、それは個々人、自分の人生を歩む上において、なんの参考にもならない。彼らはおしなべて、人と違うことを悩まないし、不安に思わないのだ。

 目を向けるのは常に自分自身であり、自己との真摯な対話をおろそかにし ない。

 自分で決めたことは、揺るぎなく押し通す。」

  「アニーの恋人」より

 

確かに、日本人よりも「個の確立が・・・徹底しているから」ということは言えるだろう。私はこの文章が好きで、よく読み返す。ただ、この人の言うところは、両性を概括して広く「フランス人とは」と捉えているので、男女それぞれが何故そうした関係性を求めるのか、その深部には踏み込めていない。

 これを男性の立場から考えてみるならば、彼らは何歳になっても自分の存在を補強し、先に立って導いてくれる人を無意識のうちに求めているのでないか。彼らにとっては、自分よりも先に生きている存在が身近にいてくれることが、最大の安全弁なのである。彼女たちが自分より先に世を去ったとしても(それは多くのカップルにとって現実的な可能性だろう)、パートナーとの歳月の記憶が、彼らの安らぎを守り続けるのである。

 女性の位置から考えると、フランス女性にとっての加齢とは、喪失よりも充実と獲得という意味合いが強いのではないだろうか。生きている間に得た様々なものを、後から来て自分と共に歩き始めた未完成の誰かに与えられるだけの豊かさが、そこに湛えられているのだと言えはしないか。

ふかや緑の王国場内ガイド

誰だって取りたくて年を取るものではないが、時間という裁判官は、誰一人として容赦せず、一分一秒を配分して進む。

 

「さて わたしは皺枯れた汽笛を鳴らしつつ

 山間の小駅に滑り込み

 わたしの年齢を積みこんだ

 また・ひとつ」

 岩佐東一郎「機関車」より

 

重ねていく数字の重みに次第に打ちひしがれていく人もあれば、いくら重ねても変わることなく、寧ろ軽やかになっていく人もいる。

ピタゴラスは「万物の根源は数である」と達観し、これは結果的には正しくなかったわけだが、人間の運命には無縁な発想ではない、と私は思うことがある。

何ゆえに手袋は片方だけ見捨てられるのか(2月12日)

冬場、どこでもいい、街中を寒さに身を縮めながら歩いていると、路上で看過できない事件が発生しているのに出会すことがある。

 ・・・何という事だろうか、手袋が片方だけ落ちているのである。

勤務中、この事件に遭遇した場合、私は取り敢えず上司に報告することにしているのであるが、シャーロック・ホームズや明智小五郎や金田一耕助を総動員しても、この事件を解決に導くのは容易そうではない。

どういう訳か、手袋は必ず片方だけ落ちている。両手揃って仲良く路上の花と化しているケースを見た事がない。これも不思議な事で、先に挙げた名探偵諸氏だったらどう考えるか、面白いところである。

 

上司もこの事件を解決するだけの思考力を持ち合わせていない(というかどうでもいい)らしく、大抵は笑顔で報告者の脇を通過してしまう。

やむを得ず、発見者が解決者をも兼ねる必要がありそうだ。

そこでこの「冬の事件」に関して私が疑問に思う事を以下にいくつか列挙してみよう。

 

1.何故片方だけなのか

2.日本だけで発生する現象なのか

3.最初に起きたのはいつか

4.手袋が再び持ち主の片手にめぐり会える日は来るのか

 

まだあるかもしれないが、取り敢えずこの4点を考察してみよう。

紅梅

セツブンソウ

セツブンソウが見ごろ

1.は最初にも言及した通りである。

 ここで今突然思いついたのだが、私個人にも「手袋片方事件」の勃発の誘因となったかもしれない行動があったことを振り返っておこう。

 

私は自宅(部外秘)から職場(緑の王国)まで自転車で通勤している。年を取ってから足腰が立たなくなるのがイヤなのと、ガソリン代を払うのが勿体ないからだが、何と言っても冬のこの時期、片道30分の距離を、時として強烈な赤城颪を真っ向からまともに受けながらペダルをこぎ続けるのは寒いものだ。

そして実に日本人的な、起伏の少ない顔立ちをしていても、鼻梁に風を受け続けていると、自然とその先の二つの出口から液体が分泌されるものである。(有体に言えば鼻水が止まらなくなるということだ。)

そこで私は曲がり角からいきなり姿を見せる無鉄砲なドライバーがいないか、目を光らせながら考える。

「この液体をどう処理すべきか?」

イヤ、いくら私でも、この世に生まれて10年にも満たないピチピチの青少年ではない。さすがにジャンパーの袖やはめたままの手袋の先で液体を「どうにかする」なんて蛮勇を奮おうとは思わない。

そこで私は左の手袋を脱ぎ(途端にヌクヌクしていた手は冷気をまともに浴びてかじかむ)、ジャンパーの左ポケットに突っ込んでいたティッシュを取り出し、鼻にあてがう・・・。

 

さて、その間、まさか左手の保護を一時的に解除された手袋が宙に浮いたままなどということはありえない。私は取り敢えずジャンパーの袂(またはポケット)にそれを押し込む。しかし、その押し込みが浅く、何かの拍子で(例えば軽い段差を乗り越える為に自転車が揺れた時に)袂から躍り出してしまったとしたら・・・。

そう、事件は粛々と発生してしまうのである。

 

無論これは一例に過ぎないし、実際私はこんな椿事が発生しないよう細心の注意を払って自転車に乗っている「つもり」である。(ただ鼻水を丸めたティッシュをどこかに落としてきてしまった記憶はあるのだが) 

勿論私一人が全人類を代表している訳ではないから、「手袋片方事件」発生の因子が全てこのパターンであるなどと言うつもりは全くないのだが、ただ、「片手で何かしようとして手袋を外し、それをポケットや胸元に押し込んでおいたものの、いつの間にか落としてしまったことに気づかない」ということは言えるのではないか。

要するに現代人は、ただ歩いているだけ(或いは自転車に乗っているだけ)では気が済まず、わざわざ手袋を外して寒い思いをしてまで「何か」をしなくてはいられない、「ながら族」なのである。

白梅

セツブンソウ

セツブンソウ

何かを待つかのように群がって咲いている。

2.について

私は海外旅行の経験があまりないから、日本国外でも「路上手袋」を目撃する事があるかどうか知らない。

ただ、大前提として、「手袋をはめる機会」が多そうな国では起こりえても不思議ではない。そして1.の「ながら族」説が適中しているとしたら、僅か2分や3分ではなく、時には数十分、数時間とはめ続ける必要のある地域だ。という事は、一定期間「冬」が訪れる北半球では、「事件」が多く発生していると考えてもさほど不自然ではない。しかし南半球にも冬は来るので、赤道直下の国々でもない限り、その辺に落下している可能性は高いだろう。最も赤道直下で手袋をしない人がゼロだとは誰にも確言できないので、つまり地球上人間が足を踏み入れるところならどこでも目撃できると考えて、そんなに間違いではあるまい。

そうは言えども、手袋を気軽に着脱することを許さない程の寒さが常態である地域では、そう多くは見つけられないかもしれない。例えば北極(または南極)のどこかで片方だけ手袋が落ちていたら、その持ち主は遭難者か、身の程知らずの酔っ払いと見做されるのが関の山ではないか。

 

 

3.最初に起きたのはいつか

手袋が(少なくとも日本で)一般的に普及を始めたのがいつ頃かという事が考えられよう。私は全くそんな事には無知だから当てずっぽうすら言えないが日本に於いては何となく明治より後ではないかというような気がする。(言ってしまった)。

ここでもう一つ疑問となるのは、男物と女物、若者と年配者と比較した時、いずれの手袋が最も見捨てられるかということだが、これも実物を検討してみなければ確実なことは何も言えない所である。

私が何度か見たところ、大体黒っぽい手袋が多いということだけで、一目見ただけでは使用者の年齢、性別までわかりはしない。

ただ私の記憶では、いかにも子供用と思われる小さな手袋は見た覚えがない。今時のチルドレンは、(私のように)余程寒がりなのか、もしくは保護者の管理が厳しくて、一人で手袋を着脱する権利を行使できないのだろうか。「素手の権利」を求めて立ち上がるのが大人への第一歩だと思う今日この頃。

季節の俳句

紅梅や母より老いて母恋し

白梅

青空へ伸びる梅

白梅

一輪でも薫り高く春を告げる

それともう一つ、「ながら族」は年配者より若者のほうが多い気がする。分別ある熟年紳士が歩き「ながらスマホ」をしている光景はあまり見ない。それに、一般的に若者は新陳代謝が活発で衝動的だから、急に鼻をかみたくなったり頭を掻きむしりたくなったりして手袋を外し、しかも人生経験が浅く注意力も散漫だから、胸元に押し込んだつもりであえなく紛失してしまうという事例が多いのかもしれない。

最もここに挙げた要素が全て当てはまる年配者も中にはいるかもしれないが、それはその人の歩んできた人生の問題だから、黙して語らずである。

 

 

 

4.再び持ち主の元へ帰る日が来るのか

今まで掲げてきた疑問点の中で最上の「キニナル」点である。つまり結局、この「事件」は解決に至るのだろうか。

ここで考えられることとしては、持ち主が血眼になって探す程、その手袋に付加価値があるか否か、という事だ。

例えば、南アフリカの鉱山で獲れた100年に一度と言われる程見事なダイヤを惜しげもなく鏤めた手袋の片方をカラスにさらわれたとか、先祖代々外出する際には必ずはめていなければいけない緋縅(ひおどし)の手袋を、恥ずかしい着信音が鳴り響いたのに慌ててスマートフォンを操作した為に失くしてしまった、とかいうのならば、懸賞金をかけてでも探すかもしれない。

しかし寡聞にして、私はそういう話を聞いた記憶は(残念ながら)ないので、多分どこかの量販店の値引きカートやどこかのデパートの出血大セールから流れてきたと思われるそれらチープな手袋は、そのまま雨に打たれ雪に滲み風に吹かれて、或いは小鳥達の巣作りに役立っているかもしれない。

中島みゆきだって歌っているではないか。「ひょっとしたらその内誰かをポカポカにすることだってあるかもしれない」とか何とか。(正しい歌詞は名曲「糸」の2番、終わりの方を参照のこと。)

 

紅梅

  • 白梅と紅梅

さて、最後に提出されるべき疑問(5.としておこう)、即ち手元に残された「片方だけの」手袋は、その後如何なる運命と向き合うか、という事だが、これも実際の所は個々の事例を実証的に踏査してみなければ、確かなことは言えない。ただ、手袋を失くしたのだから手も失くせばいいとて、面壁九年の達磨大師を諌めた勇気ある弟子のような、猟奇的行為に及ぶ人はよもやいないだろう。(意味がわからない人は自分で調べてください。)

大抵の人は、片手に残された片手袋を、もう一つの手に別の手袋をはめて異業種交流を楽しんだり、ちょっと指の間隔は違うけれど靴下にしたり、ちょっと薄いけれど鍋つかみにしたりして、パートナーを失った傷心の片手袋に、刺激的な第二の人生を歩ませてあげているのではなかろうか。

しかし一番ありうるのは・・・大きな声では言いたくないが・・・片手だけでは役に立たないからと、「ポイ」されてしまうパターンである。合掌。

 

以上、今日この瞬間も多分日本のどこかで目撃されているであろう「冬の事件」について、あれこれと考察を重ねてきた。しかし、はっきり言って、全ては闇の中である。ここに書いてきた考察が気に入らないからと言って、くれぐれも興奮して手袋を落とすようなことは厳に慎んでもらいたい。

取り敢えず私は、鼻水を拭いたティッシュを「その辺」に落としてこないよう、公共美化の秩序維持に貢献できる一年にしたいと思うものである。

見えない音が聞きたくて(2020年1月24日)

 秋から冬にかけ、ここ緑の王国で枝から離れた葉の数を通算したら、一体どれくらいのものになるだろう。そしてそれ等全てがお札になったら、どこかの元経営者みたいに、年末にプライベートジェットで中東へバカンスに行くことだってできるかもしれない。勿論窮屈な箱の中には入りたくないけれど。別に大金を手にして高飛びなんかする必要はないし、そもそも大金なんか稼がなくたって生きていけるものだとは思うが、どうせあれだけ散るのなら何か「価値あるもの」となって欲しい、と思ってしまうのは、たぶん健全な人間の発想である。大金と縁がないからこそ、そんな儚い夢を描いていられるのだとも言えよう。

 1月の半ばというとじき福寿草の咲き始める時期である。今年(2020年)は1月の19日頃に咲き始めた。通用門の脇、毎年福寿草の咲くあたりの落ち葉を手で掻いていると、七つ、八つと固まりになった蕾が、葉の下から顔を見せた。こういうこと一つにも季節の推移と自分が一つ年を重ねたことを感じるものだ。だが私が不思議に思ったのは、福寿草の芽を覆い隠していた無数の落ち葉が、見事に粉々に砕かれていたことである。

(下の写真はスノードロップ。フローラガーデンで開花中)

スノードロップ

フクジュソウ

~フクジュソウが咲くまで~1

葉っぱの中から芽が出てきました。(1月9日)

フクジュソウ

~フクジュソウが咲くまで~2

蕾がほどけ、黄色い花弁が見え始めました。(1月15日)

フクジュソウ

~フクジュソウが咲くまで~3

開花。日差しを浴びて元気そうです。(1月19日)

 

枝から離れ、ヒラヒラと舞い着地した葉は、雨に打たれ人の足に踏まれて細かくなる。そういったわかりやすい作用だけでなく、風の作用で何かとぶつかって砕けたり、土に潜む微生物やダンゴムシやミミズのように、人の目に見える虫によっても分解される。そして原型を留めない粒と化し、最後は土となって、大地の一部へと落ち着く。

 それはわかっているのだが、ふつう、何か大きな物体を小さく加工する過程では、音が生じるだろう。

 例えば一枚の紙をいくつかの断片に分けようと思ったら、鋏で切るか、破るかしなければならない。どちらの手段を選ぼうと、音は必ず発生する。ザクザク、とかビリビリとか。

 同じようなことは、一枚の葉が無数に分解されていく経過の中でも起こりえている筈である。現に私たち人間が、乾いた落ち葉を踏むと、ザクザクと心地よい音がする。

 それは、葉が細かく砕かれたということだ。私が福寿草を掻き分けた時目にした落ち葉も、鉛筆の先からコーヒー豆ほどの大きさに変化していた。

 しかし、そこを歩き回り、人力でそう加工した人はいない筈である。(そんなことをしたらこのエリアの管理人Sさんに絶交されるだろう。)

 ということは、ダンゴムシやミミズやその他目に見えない微生物が、丁度福寿草の芽の上に毛布のように散り敷いた無数の落ち葉を細かく砕いたのである。しかしその時「音」はしたのだろうか。紙を切ったり破いたりした時のように、何か耳につく空気の震動は全くなかったのだろうか。

 それ等分解する仕事の得意な生物たちが、人の寝静まった夜だけしか動かない、という訳でもあるまい。ならば、私たちが何か咲いている花はないかなあと歩き回っている昼日中だって、葉が細分化されている音は発生している筈なのである。

季節の俳句コーナー 春夏秋冬に合わせた俳句を王国の風景と共に掲載します。

いつだって仲間が一緒福寿草

梅

梅園の梅も少しずつ咲き始めました。

蝋梅

蝋細工のような精巧な形が目を楽しませるロウバイは、山野草ガーデン、通用門付近駐車場で開花中です。

無論あまりに小さすぎて、とても人間の耳では聞き取れないというのが大人の妥当な見解であるかもしれない。

 しかし、それが全て紙幣であれば、とんでもない大富豪になれそうな程葉が散っているのである。全ての葉が分解される音を足し合わせてみても、それでも尚人間の耳には届かない程、それは微細な音響なのだろうか。

 人間は何億年と地球上に暮らしていながら、実は狭くて限られた世界の中でしか過ごしていないのではないだろうか。

 そう考えると、私は何となく心もとなくなり、不思議になるのである。

雪割草

雪割草

何年か前、富山県高岡市へ旅行した時、その近郊の伏木という所へ行った。ここは奈良時代に越中国の国庁(県庁のようなものか)が置かれ、歌人大伴家持も長官として赴任したという。どこか訪れる者に無関心な、眠ったような街という印象で、あまり観光地然とした風情のないのが却って私には面白かった。

 極端なことを言えば、恐らく奈良時代から、この地にそう急激な変化は訪れていない筈である。大きなビルも建造物もなく、人が集まるような施設もない。

 万葉資料館の位置する高台から富山湾を見渡すと、立山の連峰が重畳とそびえ立っている。

 大伴家持がここへ住んでいた時代、およそ1300年前であれば、当然のことながら電車も自動車もなかった。耳に入ってくる人為的な轟音は、21世紀の今に比べれば無きに等しかった筈である。

 そういう時代の人であれば、地面に散った葉が細かく砕かれていく音も聞き分けられただろうか。いや、私が拘っているこの音だけでなく、もっとささやかでこまやかな音、自動車やテレビや、様々な楽器が発する無秩序で無遠慮な音に慣れてしまった現代の私たちの感性では、最早聞き取ることのできない音だって、当たり前のように感受することができたのではないだろうか。

 そんな期待を抱いて、万葉資料館で買い求めた一冊の本を私は開いた。

 微細な音やすぐには目につかない程小さな生物へ向けた眼差しを感じ取れる歌はないものか、そんなことを思いながら頁をめくった。

 しかし、どうやら私の希望に沿う歌はない。どうやらどころかおよそなさそうだ。あの時代だって、秋になれば木々が葉を落とし、地面を覆い、やがて土となり、その上に新しい、芽生えがみられたことだろうに、誰もその不思議さに目をとめはしなかったのか。しかしないものはない。仕方ないことである。

セツブンソウの開花

花仲間ガーデンおがたまの木の下で、セツブンソウがちらほら咲き始めました。

木の下一帯がセツブンソウの咲くエリアなので、足を踏み入れて間近で見ることはお花のためにお止めください。

セツブンソウ

万葉集の内百首を収めた本を読んだが、私が望んでいたような歌はなかった。殊にあの大伴家持という人は、木に咲く花だの鳥だの月だの雲だの、上の方ばかり眺めていて、地上に目を向けた歌は殆どない。

 意外だったし、そんなものか、とも思った。勿論この時代の人々は微生物という言葉も知らなかっただろうし、歌を詠んだ人々は地位が高くて素手で土をいじるようなことはしなかったのかもしれない。それにしても。

万葉の歌人でさえ気にかけていなかったのだとしたら、最早生まれ変わってミミズにでもなって、自分自身で葉を噛み砕く音を確かめるしかないようだ。でもミミズに耳はあるのだろうか?

秋の情緒(11月11日)

秋の野に鈴鳴らし行く人見えず

 

こういう気持ちのいい句を目にすると、僅か十七文字の中に凝縮された世界のこまやかさに、心を洗われる思いがする。

私は、別に誰に教わった訳でもないし、自分でつくる訳でもないが、俳句というものはそれなりに好きである。俳句と似た定型の文芸に和歌があるが、こちらにはあまり馴染みはない。全くないというのでもないが、それを詠む時、愉しむ時の、その「し方」が違うのだ、これから、少し、そういう話をしたい。

私は和歌を視覚的に愉しむことが多いのである。和歌というものは、俳句に比べて平仮名が多く用いられるものだ。俳句よりも字数が多いし、より説明的になるから、どうしても「~という」、とか「~のような」のように、漢字の下に言葉が添えられるので、自ずと平仮名も多くなるのであろう。

だから漢字ばかりの和歌というものは、あまり見ないものだ。最も平仮名が発明される以前は、和歌は皆漢字で詠まれていた。なかったのだから、使いようがない。当時の人もそれが当たり前だった訳だ。

 和歌を視覚的に見るというのは、理性を動員して意味を深く追わず、寧ろ文字そのもの、とりわけそこに使われた「平仮名」から、直感的に「何か」を受け取ることだ。これは私一人の感じ方、和歌への触れ方であって、邪道かもしれないが、とにかく私はもう随分の間、そうして和歌をたのしんできた。

 

花仲間ガーデン

例えば若山牧水のよく知られた歌、

 

 白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ

 

 というのがある。これなどは歌の意味をとっても充分視覚的効果を狙ったものであって、そういう点ではわかりやすい一首だ。

 「白鳥」の白、空と海の「青」の目に鮮やかな対比である。

 空と海を結ぶひと色の青の敷布の中に、一点、決してどちらにもなずむことなく悠々と飛翔する白鳥がいる。

気高く、美しく、しかしとても孤独な姿だ。どこへも逃げ場のない決然とした生き方だ。

 

そこへ牧水自身の姿を重ね合わせることは容易だが、今ここでそれを深くは追うまい。

 

ダリア

寧ろ私はこの歌を前にすると、まず「かなし」と「ただよふ」という字句に目が留まるのである。一体平仮名で書かれた「かなし」という言葉程、世にも心を打つものはあるまい。例えば私は、その年初めの雪に触れた時に、えも言われぬ新鮮さに胸をふるわせる。しかし次の瞬間にはそれが昇りゆく太陽に照らされ、小さく消えてゆく瞬間を透視してしまうだろう。そういう心のはたらきへの悔いが、新雪の冷たさを感じたほんの数秒後に、私の心を占めるのだ。そういう一連の感情をひとつの言葉におさめるとすると、多分「かなし」なのである。

こういう心の動きを、「もののあはれ」というのだろうが、矢張りその中核にあるのは「かなし」だと私には感じられる。

 

 もう一つ「ただよふ」にも私は面白いものを感じる。この「ふ」の字の柔らかさが面白いのだ。「たゞ」ではなく、敢えて「ただ」と同字を並べたところにも牧水の意志が感じられる。平仮名なればこそ感じられるたのしみである。

 中勘助の『銀の匙』では、叱られた主人公の少年は押し入れに入れられて反省していろと言われた時、壁に「を」の字を書いて自分を慰めていたそうだ。「を」は女の人が座っている姿のように見えて、それがやさしい感じを与えてくれたのだという。一つでも仲間を多くしたくて、じき押し入れの壁は「を」の字のオンパレードになったそうだ。平仮名が与える「やわらかさ」「やさしさ」が、内向に耽りがちの夢想肌の少年の密かな友だちとなった。(この「友だち」も、私は「友達」と書くのに抵抗がある。本当の幼い者同士の仲は「友だち」と平仮名で書いた方が、無邪気な感じがあっていい。少なくとも高校生になったくらいなら、「友達」と書いてもいいのではないか。より成熟した関係、という印象を与える。)

 ところで、私は「かなし」という言葉を「悲し」や「哀し」と変換する訳ではない。

 このひと言は沢山の感情が包含されていて、「嬉しい」とか「美しい」といったことも、皆「かなし」になるのである。無論「悲し」もだ。(別にこんなことは私の独創でも何でもないだろう。)

 和歌そのものの意味よりも、その中に折り込まれた平仮名(例えば「かなし」)から感じる言葉として表される以前の心のはたらきを、私は受け取ることが多いので、それが「和歌を視覚的に読む」ということの意味なのだ。

 

(シュークリームに例えると、その全体が「もののあはれ」であって、中の甘いクリームの部分が「かなし」になるのだと思う。)

 

 

 

 

 

ここで冒頭の句に戻ろうか。

 和歌を、平仮名から受ける「感じ」そのものとして味わう私だが、俳句を同じように感受することはあまりない。それは俳句が、和歌とは条件の違う芸術だからだろう。長さは和歌の半分で、平仮名もあまり多くはない。そして、叙情に流れるものが和歌程多くない。和歌に比べれば、きっちりと締まっている感じがするのである。

 

 秋の野に鈴鳴らし行く人見えず

 

句を口にした私の体を、秋の清涼な夜風が吹き去って行く。

夜の情景であるとは一言も書かれていないのだが、月夜である。満月の下、野を一面のすすきが揺れている。すすきが生い茂っているとは一言もないが、私の脳裡にはただちにそれが浮かぶ。そして秋風よりもなお清らかな鈴の音が、風に乗り野を渡ってゆく。

鈴を鳴らしている人の姿は見えないのだが、私には昔の学生帽を被り、兵児帯をしめ格子縞の衣服を着た青年の後ろ姿が浮かぶのだ。

向こうを向きこちらに顔を見せないまま彼はすすきの間を抜けていく。長く尾を引く鈴の音が、その歩みと共に響いてゆく。月は静かに地を照らし、やがて人の姿の遠ざかるにつれ、鈴の音も微かになってゆく。

 「鈴鳴らし行く人」が学生とみえるのは、これが川端康成の句であるからかもしれない。

 と言っても大作家となった後、白髪の彼の姿ではない。『伊豆の踊り子』を書いた頃の、まだ少年の面影を残した、若い彼だ。その澄んだ大きな瞳が、一瞬こちらを向く。

 何もない荒涼とした土地に愛着を抱いてしまうのは私の一人好きな性格のなせるところで、この句を繰り返し口ずさむ訳は、どこまでも続く「秋の野」が持つ、その広漠さと包容力に惹かれるからである。峨々たる山また山の光景には親しみを覚えない私は、ただひたすらに何もなく、一面に広がる草木の上を風が渡ってゆく景色に安らぎを見出す。

 川端康成の築いた世界に、私はそのような「荒涼とした平坦な土地・そこを吹きわたってゆく風」を感じている。

 この句は彼の心象風景であったと同時に、彼自身の理想的な存在のあり方をも表していたように思われる。

藤棚からハナミズキ通りを望む

  • サステナブルガーデン

1968年に川端がノーベル文学賞を受賞するに至るまでの選考の経緯・舞台裏にまつわる資料が、近ごろ相次いで陽の目を浴びているようだ。2017年1月17日の読売新聞文化面によると、作家・伊藤整(1905~69)が、ノルウェーのノーベル賞委員会に宛てて、川端文学に関する意見書を提出していたそうである。記事に引用された、川端文学を端的に言い表したその一文が、私にはどうにも忘れられない。

 

「彼の代表作では常に、母親と父親を求めて泣く子どもの姿が表現されている。これは月夜の原野に響き渡る孤独な笛の音と比較することができる。」

 

 川端康成が15歳までに肉親を全て失い、天涯孤独の身となったことはよく知られている事実である。父親は2歳、母親はその翌年に他界している。記憶の中にかろうじてあるかなきかといった程度の関わりであり、後年写真か絵かで示されなければ、これが自分の父母であると本人が理解することもなかっただろう。

そういう生い立ちは、必ず人の一生を支配する。私は心理学とか精神分析学は嫌いだが、自分自身の中に時おり発見する心の疵の根源に遡ろうとする度、それが幼時の何かしらの経験に基づくことに気づくのである。15歳の時、川端は祖父の臨終の模様をつぶさに描写した日記を書きとめる。これは後年『十六歳の日記』(数え年だと16歳)として発表されることになるのだが、最早寝たきりとなった老人の小水を取るシーンなど生々しい記述が冷徹なまでに展開される。そこには既に、あの有名な川端康成の大きな「眼」がある。じっと目前の事物を凝視する姿勢がある。この祖父の死を以て、彼は幾人かのきょうだいとは別れ別れに、親族のもとに身を寄せることとなる。

「鈴鳴らし行く人」が、一瞬こちらを見た時、あの静かで冷たい大きな瞳を月がよぎった。

 

  因みにこの句は、彼がノーベル文学賞受賞を知らされた夜によんだものだそうだ。「野」と「鈴」でノーベルと言葉をかけたという。

 川端康成という人に、私は誰も居ない野原を一人過ぎてゆく旅人の姿を連想する。

ハナミズキ通り

橘曙覧の「たのしみ」(10月2日)

田んぼと彼岸花

男一人、火桶(火鉢)を抱いて、歌を詠む。

 

 

よそ歩き しつつ帰ればさびしげに なりて火桶の すわり居るかな

 

 ふらふらと、どこかへ歩いてきて、家に帰れば火桶がポツン、とそこにある。あわれ、寂しく自分を待っていたかのように。

 その次の場面と思しきもう一首。

 

 見ありきし 晝(ひる)の野山の物がたり 火桶に言ひて 夜を更かすかな

 

 歩き回っていた真昼の野山で、彼は何を見たのだろうか。そこには、生身の人間はそう多くはなかったはずだが、あえて誰かに話したくなってしまうのは、いつでも人に関する物事である。彼は山野を歩くうちに脳裡に浮かび寄せ来る過ぎ去っていった人のことを思い出し、つい、物言わぬ火桶に話しかけたくなったのか。

 時おり、火桶の中で、炭が微かに炸裂する音。歌詠み人のつく吐息。いずれ夜はしらじらと明け、また皆が動き出す一日がやって来る。

 

 「友人が大きな黒い木で作った火桶を贈ってくれたので、それを膝の上に置き、肱をもたせ頬杖をつき、朝夕の友としている。」

 

火桶を詠んだ一連の歌には、こういう意味の詞書(ことばがき)が付せられている。

アジサイ園付近

歌人・橘曙覧。「たちばな あけみ」と読む。男性。1812年、越前(現在の福井県)の生まれだ。徳川氏による200年に渡る支配が時化のさなかの小船のように揺れ始めた頃、橘曙覧は幕府を倒して天皇中心の時代を築く勤皇思想を信奉して、藩主松平春嶽(慶永)公とも親しく交わっていた。元々商人の息子だったが、家を継ぐことを拒否。あえて極貧の中で暮らし、1868年、あと少しで明治時代が始まるという時亡くなった。(慶応から明治への改元のわずか10日前。)

  彼の残した短歌は、その勤皇・愛国思想を直截に歌い上げている為、今となっては何ともいい難いものも少なくないのだが、ここに『独楽吟』というまことにユニークな一連の歌がある。「たのしみは~」と始まる50首余りの作品。「独り楽しみ吟じる」歌。曙覧は何を楽しんでいたのだろう。そこに歌われているのは、小波のように穏やかで平凡だが、それなりに手ごたえのある、橘曙覧の「ごく普通の日常」だった。

ローズガーデンの花

たのしみは 庭に植ゑたる春秋(はるあき)の 花のさかりに あへる時々

 

咲き始めもわくわくするものだが、まさに今を盛りと咲いている花々を目にするのは、胸が膨らむような嬉しい気分。そして、自分の植え方(育て方)が良かったのだ、という密やかな自負に満たされる時間でもあろう。一年草もあれば、毎年花を咲かせる多年草も見られるか。花も私も、また一つ年を重ねたなあと、切り倒された幹の年輪を数えるような心持ち。

 

 

たのしみは 空暖かにうち晴れし 春秋(はるあき)の日に 出で歩く時

 

 ピクニック?デート?スポーツの試合? 何にしろ、暖かく晴れて空の高い週日に出かけるのは、「たのしみ」そのもの。あっさりして、ほのぼのして、わかりやすいだけに、こういう歌はいつどの時代の人が目にしても、すぐ納得できる。「どこへ行くの?」「ちょっとそこまで。」あてもないふらふら彷徨。日暮れまでには帰っておいで。

 

 

たのしみは 常に見なれぬ鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき

 

 ちなみに鳥好きの緑の王国ボランティアさんによれば、今年の緑の王国は、仙元山でもなかなか見られないような珍しい鳥がよく飛来しているらしい。私にはよくわからないし、見えないけれど。これもまた、日常の小さな発見、あれは何という鳥か、知りたくなったら、新たな自然の世界への探検の始まり。

王国通り突き当たり

たのしみは 心にうかぶはかなごと 思ひつづけて 煙草すふとき

 

 私は吸わないけれど、煙草を吸う人の顔は、忘我という感じがする。何も考えず、口元の感覚以外シャットアウトして、他の人の声にも一切反応しない。いや、そこまではいかないか。しかし忘我に見えても、案外頭の中では、普段忙しい時には浮かんでこないような「はかなごと」が、煙と一緒に渦を巻いているのかもしれない。そしてそんな時間が容易に他のものに変え難い「たのしみ」のひとときなのだろう。

 副流煙のことなど、何一つ考えることもなく。

 

 

たのしみは いやなる人の来りしが 長くも居らで 帰りけるとき

 

 これは「たのしみ」というより「うれしみ」(?)かもしれない。こんな歌を残すくらいだから、きっと橘曙覧という人は、世の中嫌いな人だらけだったことだろう。早く帰ってくれという無言のテレパシーを送り続けたら、さて、と相手が腰を上げた。やれ、うれしやと座布団を片付ける主人。なんとその下には剣山が。(ただの想像です。)

 

 

たのしみは 欲しかりしもの銭ぶくろ うちかたぶけて 買ひ得たるとき

 

 こんなことにならないよう、いつもお財布の中身は安心できる量を維持しておきたいものだが、まあそこはいろいろあって・・・。

何を買いたかったかはわからないけれど、まさに「なけなしの金をはたいて」買ったものだけに、いつもの何気ないお買い物で手にしたものとは違った感慨が味わえることだろう。財布の底からチャリンと転がり出てきたお金。それを見つけた曙覧の喜ぶ姿が、目に見えるようで、面白い。

 

オオモクゲンジの花(満開から実をつけるまで)

フローラガーデンに「オオモクゲンジ」という大きな木があります。秋になると「ゴールデン レイン ツリー」と呼ばれるような黄色の花を咲かせます。青空に映えた時には、思わず「うわぁ・・・」と声を上げてしまうほど見事な光景です。花はあまり長くは続かずじきにフウセンカズラのような実をつけますが、これは表面が恥ずかしがりやのように赤く染まる面白いものです。

オオモクゲンジ満開

オオモクゲンジ実をつける

黄から赤へと模様替えです。

オオモクゲンジの実

近くで見るとこんな感じです。

(続き)

 

たのしみは 小豆の飯の冷(ひえ)たるを 茶漬けてふ(という)物に なしてくふ時

 

 食べるというシーンをこんなに率直に歌にした人はあまりいないと思う。何の根拠もないけれど。でもそれは、曙覧が食べることにも大きな「たのしみ」を感じる人だったということ。冷や飯に茶を注いで、ずずっとかきこむ。うまい、うれしい、幸せ。ささやかで質素な食事かもしれないが、つい一首詠んでしまうほどに楽しんでしまう橘曙覧は、まさに「精神の貴族」。

 

 

たのしみは まれに魚(うお)煮て子等皆が うましうましと いひて 食ふ時

 

 ここまで作品を読んでくると、橘曙覧は独り者だったのかと思えてくるが、どっこい彼はとても貧しいのに子沢山だった。幼くして世を去った子もいた。食べ盛りがいっぱいいただろうに、魚だって「まれに」しか買うことが出来ない。でもそんな時は子どもたちの顔がいきいきと輝く。お父さんは自分の分の魚も子どもに上げて、小豆の飯でガマン。『独楽吟』の中でも人気の高い一首だ。

 

 

たのしみは 珍しき書(ふみ)人に借り はじめ一ひら ひろげたる時

 

 『独楽吟』からは、読書にふける曙覧の姿もよく垣間見える。それは、自由気ままな本読みというより、徳川の時代を乗り越えて、天皇を中心とした新しい世を切り開くにはどうすればよいか、を探る、あくなき勉学としての書見だったはず。とはいえ、ようやく手にした本の最初の一ページを開く時の心躍る気持ちは、この一首から十分伝わってくる。読書を主題にした作品と言えばもう一つ、

 

たのしみは そぞろ読みゆく書(ふみ)の中に 我とひとしき 人を見し時

 

これもまた忘れがたい。ひとり楽しむよろこびを知らない精神は、悲劇的だ。

オオモクゲンジ接近

私がここまで挙げた橘曙覧の歌は、みな浅野晃・著『橘曙覧』(大日本雄弁会講談社)という本から取った。何気なくどこかの古本屋で手にしたこのボロボロの一冊、発行年は1942年。戦時中だ。国家主義的な気運が盛り上がっていたこの時期だからこそ、勤皇思想をかかげ、愛国の歌も多く作った歌人・橘曙覧が見出されたのだろう。ここには挙げなかったが「天皇」と書いて「すめらぎ」と読ませる語句の入った歌も、浅野晃は多く収録している。それこそが、橘曙覧の本領であったのだと、浅野晃も、橘曙覧自身も思っていたかもしれない。

でも、このユニークでつい読みながら笑ってしまう『独楽吟』が、唯一無二の魅力を限りなく放ち続ける、橘曙覧の残した遺産に違いない。

この本の中で浅野晃は、曙覧には「楽しみ」を歌わずにはいられなかった「嘆き」や「憤り」、「鬱憤」や「憂憤」があり、それこそが『独楽吟』をつなぐ「玉の緒」なのだから、「そこを見なければこの連作はわからない」と言っている。その「嘆き」や「怒り」の源は、要するに徳川時代がいつまでも続くことにあったのだと言いたいようだ。だが、そんな堅苦しく考えなくてもいいではないか。

橘曙覧は、目の前で展開される日常の様々が、いつも他の人より遥かに豊かなものに見えていた人だったのではないか。私にはそう思える。

彼岸花

最後に、一番素晴らしい一首を読んでみよう。どこで誰に教わったのか知らないが、米国のビル・クリントン元大統領がある時、スピーチの中でこの一首を取り上げたという。

 

 

たのしみは 朝起き出でて昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき

 

よほどよく庭を観察していたのだろうか。それとも、その花が咲くのをずっと待ちかねていたのかもしれない。日常をたのしみ続けた橘曙覧が、明治の日本に生き続けたなら、一体どんな歌を詠んだだろう。

池内紀さんを悼む(9月9日)

 渋沢栄一翁の新1万円札額面選出が決定して数ヶ月。ますます深谷を語る上で、この希代の実業家の存在は不可欠なものとなってきた。もちろんそれまでも深谷に言及する人は必ず渋沢栄一の名を挙げている。

 

「埼玉県北部の深谷市は「渋沢栄一の生まれた町」をキャッチフレーズにしている。」

 

その人も、その文章の冒頭をこう書き始めている。意外なことではない。幅広い分野に旺盛な興味を抱いたこの筆者のこと、自分自身で知識を整理する意味もあったのだろうが、栄一についての文が続き、ラストにちょっとひねりがある。

 

「「栄一」というめでたい名前を受けた長男は、その名の通り栄えある実業の王国を築き上げた。」

 

へえ、「実業の王国」か。深谷ではなく殆ど東京に築き上げられたわけだが、確かに「王国」といっていいほど、幅広い業種に渡って渋沢栄一は近代日本経済に足跡を残した。筆者はそんな風に栄一の業績に結論を与えたあと、今度は意外な切り口で語り始める。

 

「鉄道をはさんで反対側の南に六キロばかり、渋沢生家と対称的な位置にべつの王国がある。」

 

え、どこどこ? いや、何も迷うことはない。それは、ここ、「ふかや緑の王国」のことなのだ。

 

フローラガーデン

ねこのひげ

ネコノヒゲ(ヒーリングガーデン)

 今まで引用してきた文章は、『人と森の物語』と題されて、2011年に集英社から「集英社新書」として刊行された。筆者はドイツ文学者として著名な池内紀(おさむ)さん。紀行文の分野にも活躍の幅を広げた池内さんは、開国翌年の緑の王国に足を運ばれ、散策されたようだ。 

 

「人がつくり、手入れしてきたユニークな森を訪ね、北海道から沖縄まで列島を縦断した!」

 

とカバーにある通り、山形、富山、和歌山、宮崎と、全国の様々な特徴ある「森」を遊歩したようだ。その中の一つに私たちの「緑の王国」が選ばれたのは、光栄。面白いこと。しかしどうやって知ったのだろうか?

池内さんが王国を訪れた頃は、まだ「本館」と呼ばれるコンクリートの建物があった。今は取り壊されて、ない。私は見たことがない。当時そこにはボランティアの木の名札が下がっており、池内さんもそれを目にしたらしい。文中に並べられる名前は、私の知るものもあれば知らないものも。池内さんは春之助や光子といったその名前の列から、王国に携わる人たちの年代を感じ取ったらしい。

 

「人それぞれに個性があり、春之助や光子世代は人生の蓄積の中で得意ワザを修得してきた。国づくりに生かさない手はないだろう。」

 

外部の人の視点や指摘は鋭く現実的な重みを持つものだ。

 

「行政側と手をとり合って市民の森を実現した聡明なリーダーたちは、組織が固定するときの弊害をよく知っている。たえず新任者を迎え、夢とエネルギーをバトンタッチして活性化していかなくてはならない。」 

 

こんな耳に痛い一言もある。どんな場所であっても、複数の人が集まって何か始めようとすれば避けられないことだ。さりげなくふらりとやって来たようでありながら、池内さんの目は奥深くまで届いていた。文中に残されたいくつかの手がかりから、池内さんが王国を訪れたのは、2010年7月26日と思われる。

花仲間ガーデン清流

正門付近

正門付近の風景。百日紅(サルスベリ)が毎年花を咲かせる。タクシーを降り立った池内紀さんの目にも映っただろうか。

「車から降りて、キツネにつままれた思いがした。予期したのとはまるきり違っていて、古木がうっそうと繁っている。門の周囲から三方にのびた道路に沿って、すべて緑、緑、緑。」

 

緑の王国が一番いい時期は、梅の咲き揃う3月から4月、そして無数の樹木が緑葉をたわわにつける夏の時期だと思う。池内さんがここへ来たのは、とてもいい時期だったのだ。梅が見られなかったのは、残念だが。

 

「ここちいい風が吹いていた。すわりごこちがいいと眠くなるもので、しばらく腕組みをしてうたた寝をした。まさしく王様の眠りである。」 

 

 

 

 恐らくこの本を書いている最中、東日本大震災が日本を襲った。池内さんには、この本を書き続ける意義を改めて振り返る契機ともなったようだ。

 

「章をかえてもたえず語りつづけたのは、土と水と太陽と、そして植物にたいする信頼である。どんなに人間によって痛めつけられ、荒廃させられても、自然は豊かな復元力をもち、春とともに植物は芽ばえ、根を張り、成長する。よく観察して、ほんの少し手助けしてやれば、とたんに鳥や魚たちがもどってくる。」

 

「はじめに」の中で池内さんはこう書いている。緑の王国で周囲を見回していると、確かにそう気づかされる。こんなに剪定しちゃって、また咲くの!?と思っても、春になればどんな木々や植物も芽を吹き、蕾が膨らみ、花が咲き、実をつける。何度でも繰り返して読みたくなる名文だ。

 

ルリマツリ

フローラガーデン

 8月30日、池内紀さんが78歳で亡くなった。専門のドイツ文学の翻訳や評論以外にも、ユニークな視点から綴られたエッセイも巧みな人であった。7月に新聞広告で新刊の著者として名前を見、その旺盛な執筆精神に敬意を覚えてから、まださほど月日は経っていない。私はその膨大な著作の一部しか読んだことはないが、その中では『二列目の人生』というのがひときわ面白かったのをよく覚えている。

 最前列で注目を浴び続けるよりも、あえて二列目に居続け、独特の功績を残した人たちを取り上げた一冊だった。56歳で東京大学教授を引退し、その後は著作活動を主として生きた池内紀さんも、自ら「二列目」を選び取った人だったかもしれないが、その歳月は、とても豊かな実りとなって残されたわけである。

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