市民がつくり 市民が守り育てる 市民の森

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場内ガイド(2018年11月~)

更新日:2019年4月15日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり・・・ 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、きまぐれではなく毎日、緑の王国の今を更新しています。

 こちらもぜひご覧ください。)

いちめんのなのはな、さくらの陰(4月11日)

いちめんのなのはな 

いちめんのなのはな 

いちめんのなのはな 

いちめんのなのはな 

いちめんのなのはな

 

 こんな延々と続く詩を目にしたことがあるだろうか。山村暮鳥(やまむら ぼちょう)の「風景(純銀もざいく)」。国語の時間に習った人も多いだろう。当時も今も、見る人の意表を突く、ユニークな詩である。時に「かすかなるむぎぶえ」が響き、「すずめのおしゃべり」が聞こえ、「やめるはひるのつき」ということ以外「いちめんのなのはな」がどこまでも一面に広がる。同じ言葉や単語をいつまでも見続けていると、じきにその意味がわからなくなってしまう現象を「ゲシュタルト崩壊」というそうだが、存分に「崩壊」させてくれる作品である。読み終える頃には目の前が黄色くなって、菜の花にハチが群がっている光景さえ見えてくる。そう思いさえすれば。

  山村暮鳥は1884年、今の高崎生まれ。本名は土田八九十。「はくじゅう」である。貧しい家庭に生まれ育ち、神学校で学び、伝道師としても活動した。

 最初彼の詩は奇抜でシュールな作風だったが、やがてその表現は急転回し、平仮名を主にした平易な作風に転化していった。

菜の花畑

イングリッシュデージー

イングリッシュデージー(ヒーリングガーデン)

桜

  • 桜

「桜」

さくらだといふ

春だといふ

一寸、お待ち

どこかに

泣いてる人もあらうに

 

この作品は実際に桜を前にして書いたものではないと思える。「だといふ」との伝聞形式が二度も続く。満開の桜も、それに触発され誰もが実感する春の音信れ(おとずれ)も、暮鳥には大した感動を呼び起こさないかのようだ。それどころかこの人は、「どこかに泣いてる人」の姿を見てしまう。これもまた「あらうに」という推定形に留まるのだが、きっと暮鳥の目には見えたのだろう。

 桃色の花びらの連なりが、迎春の慶びを味わえないほどに悲嘆に暮れる人を隠してしまうことが、暮鳥には見過ごせなかったのだろう。

 「一寸、お待ち」の一言の響きは、花見酒に頬を染める人の酔いを醒ますほどの、意外な強さを持っている。

 桜花爛漫たる樹々の片隅から、泣き声が聞こえてこないか、じっと耳を澄ましてみる。

桜

サクラソウ

サクラソウ

ヒトリシズカ

ヒトリシズカ

  • 桜

室生犀星は暮鳥のこうした作品にあきたりないものを感じていたようだ。どれも当たり前のことのようで、平仮名を用いたというのも、多くの詩人が真に自らの表現を獲得するまでに通る一里塚である。暮鳥は自分の詩の完成に至らずして死んだと犀星は言いたいようだ。(『我が愛する詩人の伝記』より)でも私には山村暮鳥の詩がちょうどいい。大抵の詩人の詩はよくわからないが、この人のものは好きである。詩人の詩らしくないのがいい。平仮名の詩は深みがないという意味のことも犀星は言っているが、私にはその正反対である。平仮名はしみじみと日本語本来のうつくしさを感じさせてくれる。行と行の間でじっと憩い佇むことができる。静かな気分にさせてくれるのだ。

 

「手」

しっかりと

にぎってゐた手を

ひらいてみた

 

ひらいてみたが

なんにも

なかった

 

しっかりと

にぎらせたのも

さびしさである

 

それをまた

ひらかせたのも

さびしさである

 

 一人手を見て黙然とする男。同じく手を見つめている作品と言えば、石川啄木の「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」が思い浮かぶ。啄木はあの歌を通して、克服されることのない生活苦を訴えていたが、暮鳥のこの詩はそれとは違う。一瞬の独語のようなこの詩から、暮鳥の生活は何も読み取れない。しっかりと握った時、その僅かなひとときだけ、暮鳥の「さびしさ」は薄れる。握っているその時は、手は見慣れた形を失う。指は折りたたまれ拳の中に納まり、手は一塊の球となる。しかもその中に何か入っているかもしれないという、ありえないようなありうるようなささいな願望。

 しかし、握り続けることにも再び同じ「さびしさ」がこみ上げ、「それをまた」開くのだ。

 音もなく静かになされる動作。しかも「なんにもなかった」という救いのない言葉。詩を書き子を抱き上げ生活の資を掴んできたその手を見つめ続けているうちに、いつかそれはあらゆるものを呑み込む宇宙空間の暗黒のような深淵となって、なのはなも桜もみな吸い込んでしまいそうだ。

桜

桜

啄木は開いたままの手だけを見ていたから、生活を離れることができなかったのだろう。そこに刻まれた皺や染み込んだ汚れ、皮膚の乾きやささくれは、終日の労働や雑事を彷彿とさせる。暮鳥は握りしめた手から、もっと根元的な感情を受け取り、それと向き合っていたように私には思える。

 

 1924年、山村暮鳥死去。享年40。彼の父母がどういう意図をもって息子に名づけたかは知らないが、「八九十」まではとても生きられなかった。

桃は三年 ゴッホは十年 武者小路は九十年(3月25日)

1888年3月、アルルに居を移していたフィンセント・ファン・ゴッホは妹から手紙を受け取った。ゴッホが画家としての出発期に教えを受けたアントン・マウフェが亡くなったとの知らせだった。ちょうどその時、その風土や気候を日本と同一視していたアルルに心酔していたゴッホは、果樹園に咲く桃の木を描いていた。(写真は通用門付近駐車場裏に咲くハナモモ)

 弟・テオへの返信によると、マウフェの訃を告げる手紙には銅版画による彼の肖像が数枚挿まれていて、「そのうちの一枚がどうした訳か僕を捉えて、その感動で首をしめつけられる思いだった、それで自分の絵に次のように署名した」。

「マウフェの思い出」。

(硲伊之助訳『ゴッホの手紙(中)』岩波文庫より)

ハナモモ

桜

事務所のちょうど裏には毎年今あたりの時期に満開を迎える桜が春を謳歌しています。(下も)

桜
  • ハナモモ

「花咲く桃の木」と題されたこの絵(クレラー・ミュラー美術館所蔵)は、本当にいい絵である。ゴッホの全ての作品の中で、彼が一番充実していたときに描かれたと一枚と言っていい。地面にしっかりと根を張った桃の木は、地中から全ての生命力を吸い上げんとするかのように活き活きとして見える。地面から幹へと向かう幾本もの筋は、恰も若い血が奔流する太い血管のようだ。その根を通って上へ上へ、ついには枝先へと至る栄養分は、終着点で無数の花を咲かせている。いくつもの花が青空を背景に輝いている。最後の一筆を入れたゴッホは、いい仕事をやり遂げた満足感に包まれたことだろう。画家としての充実を感じていたゴッホの、象徴的な自画像とも思える作品だ。そこへもたらされた訃報は、絵にまた違った意味を与えることとなった。画面の左下には、(Souvenir de mauve)との書き込みがある。個性の強いゴッホは、この師とは感情的に対立することもあったのだが、マウフェが桃の咲く季節に旅立ったことを忘れたくなかったのだろう。

ハクモクレン

ハクモクレン

ヒーリングガーデンのハクモクレン。ひときわ背の高い木が白くて大きい花をたくさん咲かせています。

ハクモクレン

他の種類や色のモクレンもあちこちのガーデンで咲き誇っています。

 桃は種を播いてから三年で芽が出るという。柿は八年。達磨大師は壁に向かったまま座禅を組む修行を九年も続けた。見かねた弟子が自分の腕を切り落として師の注意を惹こうとしたがそれでも動かなかった。柚子に至っては発芽まで十八年である。そんなに長い間地面の中で何をしているのか。実際「大馬鹿」なのか。「桃栗三年 柿八年 だるまは九年」。この言葉を色紙に書き付けた武者小路実篤は、続けてこう書いた。「俺は一生」。

 ゴッホが画家になることを決めてから死ぬまでおよそ十年。その間に、彼の画風は三度も大きく変わった。郷里オランダでぎこちない手つきながら絵筆を持ち始めた段階、三十二歳でパリに上った後、そして三年後、南仏アルルに居を移してから三十七歳で死ぬまでの間。これほど短期間に描き方が何度も変わった人はいない。例えばピカソもその画家人生の中で幾度か画風に変化をきたしている。しかし彼の生涯は九十二年である。ゴッホと比較は出来ない。それにゴッホの場合、変えようと思って変えたのだろうか。描いているうちに変わってしまった、ということを繰り返していたようにも思える。そういう人も、絵画の世界ではかなり稀である。

桜

ハクモクレン
キズイセン

武者小路実篤も絵を描いたが、面白いことに彼は生涯絵が上達しなかったらしい。若いときから、九十一歳で亡くなるまで、その味のあるとぼけた画風に大した変化はなかった。自分では勉強して上手くなろうと努力したらしいが、変わらなかったらしい。(読売新聞「編集手帳」2004年3月23日より)

 十年ほどで見違えるほどの変化を遂げる人がいれば、九十年生きても殆ど同じ人もいる。それぞれの花を咲かせられたか、どうだったか。桃も栗も柿も人間も、芽を出さなければ何事も始まらない。

旅人の春(3月18日)

レンギョウ(写真下)は、韓国ではケナリと呼ぶ。作家・鷺沢萠(さぎさわ めぐむ・1968~2004)がそのことを知ったのは、韓国留学中のことだった。その時鷺沢は25歳。既に作家として地歩を固めつつあった彼女にとって、それは単なる語学留学というものではなかった。気風のいい女性だった鷺沢の祖母が他界したのは、彼女が20歳を過ぎた後のことだが、鷺沢はこの頃、その父方の祖母が韓国出身者だということを始めて知る。つまり鷺沢の体内には四分の一、韓国の血が流れていたのだ。それは作家にとって少なからぬ衝撃であったに違いない。この留学は、言わば「四分の一祖国」を体験するという意味合いが大きかったようだ。

レンギョウ

帰国後に纏めた留学体験記『ケナリも花、サクラも花』(新潮文庫)は日本と韓国の間で生じるさまざまなギャップや不信に悩む彼女の姿が活写されている。日本から見る韓国、韓国から見る日本。彼女には両方の血が流れている。だから両方の立場や考えが見えすぎてしまって、時に引き裂かれんばかりに苦悩する。そして自分は一体どちらに属するのだろう、との根元的な問いは、いよいよ深まるばかりだ。この本を一言で要約するのは難しい。あちこちから棘が生えているが柔らかい部分もある、はっきり言って何とも読みづらい本で、それはつまり彼女が「四分の一祖国」で感じた戸惑い、煩悶、断絶、時に希望がそのまま書き表されているからだろう。

 脳内カオスの実況中継のような本だが、とても忘れがたいシーンがある。

緋寒桜

ヒカンザクラ(緋寒桜)

沈丁花

沈丁花

ある時、現地の雑誌記者から鷺沢は取材を受けた。終わって、写真を撮る時、近くに花が咲いていた。レンギョウだ。これはハングルで何というのか。尋ねた鷺沢に、女性記者は「ケナリ」と答える。ところがなぜか鷺沢はその名前が覚えられなかった。「ナグネ、でしたっけ?」ナグネは「旅人」という意味である。いえ、ケナリです。しかし鷺沢はまた間違えてしまう。「ナグネですって?」半ば信じられないという顔で聞き返した記者は、手帳に大きく「ケ ナ リ」と書いて、鷺沢に示したのだそうだ。

 帰国してから鷺沢のもとに件の取材が載った雑誌が送られてきた。花咲くレンギョウの前に立つ鷺沢の写真の下には、記者の手でこう書かれていた。

「鷺沢萠は、私たちの国が愛する花、ケナリの名前を訊ねた。盛りの季節のケナリのむこうでは、サクラの花も美しく咲いているのが見える。」

 

レンギョウ

レンギョウ(ケナリ)

桜

「ええこと書いてあるやん。」と雑誌を覗いた友人の感想に鷺沢も思わず笑みがこぼれた。もっとも、「私はこの一件を土台として、というわけで相互理解ってものはね・・・とか言うつもりはない」とすぐ付言しているが、嬉しかったことは確かだろう。日本人がこよなくサクラを愛するように、ケナリは韓国の人々にとってはとても特別な花なのだそうだ。その花の名を何度も聞き返した鷺沢の姿を目にした記者には、隣で咲いていたサクラの花がいつもとは違った近しさで映ったのかもしれない。

 でも私には、鷺沢が何度も「ナグネ(旅人)」と呼び間違えたことが面白い。この時鷺沢は日本と韓国の狭間でもがく自分を、何処にも属さない旅人のように感じていたのだろう。

 住む場所や体内に流れる歴史、食、そして価値観が違えば常に仲良くしていることのできないのは当たり前だ。「理解」という安直な言葉は、波打際の砂の塔のように、いつもはかない予感を孕んでいる。

クロッカス

クロッカスとミツバチ

クロッカス(ミツバチが仕事中)

梅

正門付近の梅

  • 花仲間ガーデン

花仲間ガーデン(手前はクロッカス、奥にビオラが広がる)

梅まつり名句紹介(3月13日)

先月の「場内ガイド」で予告した通り、今回の第11回梅まつりでは、今までコンテスト形式で行ってきた「俳句吟行会」を、詠んだ作品を壁面に張り出し、期間中に誰の目にも触れられるようにした。その結果3月2日、3日両日で101句の作品が寄せられ、ハナミズキ通りに面した掲示板でそれぞれの俳句の魅力を放ったのである。当日会場に足を運び、その様子を目にした方、自身投句した方もいただろう。今日はその作品群の中から(私が)面白かったものを選りだし、盛りを迎えた梅の写真と共に春を楽しんでいただけたらと思う。(作者名は明記されたものもあったが、ここでは全て無記名とした。)

 

梅林

梅林

梅は見ごろの峠を越すかどうかといったところ。ほぼ全ての木が満開です。

「梅見るや至福のときは流れけり」

美しきものは永遠のよろこび、とは英国の夭折詩人ジョン・キーツの言葉。春を告げる声なき使者・梅の花を見て、普段では味わえない至上のひとときがおとずれた。それは一瞬に過ぎないかもしれないが、永遠の一瞬として、心に留まり続けるだろう。

梅を楽しむ片手には、美味しい食べ物が握られていたかも。それもまた、至福の時に味覚の花を添えてくれる。

 

「順番は食べ物飲み物梅の花」

こんな正直な句を詠む人は、きっと性格も正直で嘘を言わない人だろう。腹が減っては梅も楽しめぬ、とばかりにまず口腹の欲を満たし、次いで木を見上げ、桃色や白、赤の花を楽しむ。たくさん美味しいものを食べ、きれいな花を見て、お腹いっぱい、目もいっぱい。

ふかや村の白梅

梅林
  • 梅林

「梅まつり人とつながる吟行会」

受付で投句用紙をもらう。園内を散策し、テーマを発見し、ささと用紙にペンを走らせる。「あら、あなたも句を詠んでいるんですか?」「そう、経験はないけど、つい花に誘われて、ちょっと詠みたくなって。」「あら、どんな感じ?」「だめだめ、下手だもの。」「そんなことはないわよ。詠みたいという気持が大事。自分の率直な気持を表せば、きっといいものができる。できたら、一緒に貼りに行きましょうよ。」「ええ、そうね。」

 

梅林

ふかや村の白梅

「梅の花ついばむ鳥と空の青」

個人的には一番いい句だと思った。一幅の掛け軸のようで、誰もが思い浮かべるであろう春の情景を正確な目で捉えている。一輪一輪杯から少しずつこぼれ落ちるように咲くのもいいが、矢張り満開の梅林の中に立つのもいい。梅の写真を撮るにしても、青空を背景にした方が断然花は映えるのだ。風のある日には、花吹雪を楽しむことができる。それに煽られて、波のように花の匂いが自分の四囲を取り囲む。少し鼻にツンとくる、その匂いに惹かれて、鳥も木にとまる。鳴き声が聞こえる。

 

「うぐいすのひとなきほしや梅まつり」

確かに。梅ときたら鶯。鴨ときたらネギ。富士の山にはサクラソウ。二つ並べてなお引き立つ。でもそう都合よくはいかないもの。今年はカワセミの姿も見ていないが、鶯も、鳴くのはもう少し先か。もうじき鳴く練習が始まるだろうか。最初は下手で、回数が増えるにつれ「ホーホケキョ」に近づいていく。歌を忘れたカナリヤは童謡の中ではひどい目に遭うが、鶯はだんだん上手くなるから大丈夫だろう。

梅林

「梅まつり花よりピザがいいにおい」

正直第二号。王国のピザは王国の梅と同じように歴史の積み重ねがある。梅も咲く月日を重ねるにつれ、匂いも花の咲きぶりも良くなっていく、ということがあるのだろうか。ピザは年々美味しくなっていく。味も売り方も焼き方も試行錯誤を重ね、研究を繰り返して。でも来年は少しヘソを曲げて、「ピザより花が」となってくれると・・・。

ふかや村の白梅

忘れはしない(3月11日)

 誰しも忘れられない日付を持っている。一番初めは、誕生日。その次はなんだろう。受験に合格した日、働き始めた日、結婚した日、子どもの生まれた日。多くの人にとっては、そんなところだろうか。

 けれど、そういう個人の軌跡を取り囲むように、もっと社会全体にとって、記憶から去り得ない日付というものがある。昔、青木雨彦というコラムニストがいた。この人は、女性に会うと、あまり礼儀のいいこととは見做されないが、必ず年齢を聞くことにしていたという。例えば昭和20年8月15日という日付の時、その人はいくつだったのだろう。学生だったのか、働いていたのか。そうやって、同時代の人みなの人生に打たれた一つのコンマ記号から、その人個人をうかがってみたかったのだと言う。

 

シナマンサク

梅に青空

クロッカスにリュウキンカ
  • クロッカス足元から

 ある日新聞をめくった私に、一つの記事が目に留まった。それはめくった時の映像のまま私の脳裡に残された。2017年9月24日、読売新聞朝刊社会面。その半年前の同年3月、栃木県那須町で、雪山を登山中の山岳部の高校生たちが雪崩に巻き込まれ、教師を含む多数が犠牲となる事故が起きた。当時、まだ事故の話を聞けば誰もが悲しみに衝かれるほど、比較的記憶に新しかった。だが、その場に居合わせた他の生徒、そして不意の別れを余儀なくされた家族にとっては、半年という歳月に既にある種の危機感が感じられたようだ。あの日自らも遭難したが一命を取り留めた16歳の男子高校生が寄せた手記をもとに、記事は、語り継ぐことで事故の風化を防いでいこうとする声を報じていたのである。その高校生は言っていた。いつも顔を合わせていた仲間たちが落命した、あの悲劇的な事故。発生したその時は報道を聞く世の中の誰にとっても衝撃的な惨事だったに違いない。だが、日が経つにつれ、「世間的には様々な情報の波にのまれて薄れていってしまう」。それが悔しいと。

三色の梅

クロッカス黄色
梅園
  • 梅

本当にその通りである。毎日様々なことがありすぎる。そして新聞の一面は、日々変わっていく。長い期間に渡って、特等席ともいえる紙面の見出しを占め続ける出来事は、そう多くはないのだ。だから事件の起きた翌日は、完全な忘却への第一日目とも言えるだろう。16歳の彼は事故を通して、時間の流れの過酷さを、真に自分の実感として受け取ることとなった。それは彼の心に埋め込まれた、一つの道標となり、記念碑となった。きっと、一生忘れることはない。

2011年3月11日。これもまた、多くの人にとって、コンマとなった日であろう。あの時自分は何処にいて、何をしていたのか、いまだ記憶には新しいはず。しかし、もう8年が過ぎた。ざっと2928日である。あれほど大きな災害でさえ、毎日の出来事の波に洗われ、いずれは薄れてゆく。そんなことあってたまるものか。そう思うことはできる。

 私が学生の頃に知り合った東北出身のある男は、在学していた高校の校舎が、地震の衝撃で3階建てから2階建てに変わってしまったという。最上階にいた彼ら生徒が大きな揺れを感じた直後、誰もいなかった真ん中の階が潰れてしまったのだ。それもまた、校舎が建て替えられれば忘却の霧の中へ歩みを進めてしまう。「そんなことあってたまるものか。」

 

フローラガーデン

白梅と紅梅
梅園
  • シナマンサクの木

ユダヤの人々が先人から受け継いだ知恵の言葉には含蓄あるものが多い。「許す、しかし忘れない」というのもその一つである。したたかで手ごわさを感じさせる言葉だ。しかし自然に向かってこの言葉を発しても、どこにも届きはしない。どれほどの災禍を人間に与えても、自然には無念も慙愧もない。地水火風を前にして、「許す」はいつまでも無効の言葉だ。人間には「忘れない」ことしか残されはしないのである。

「忘れはしない」。押し寄せる時の波濤の前で、自分の内側にそう刻み込むのである。

梅に誘われ一句(2月20日)

 梅園も桃色の集合体となって目に付き始めた。日に日に暖かくなってきているように人間にも感じられるが、蕾の中の花びらは眠りを破って外界を初めて見る時、自分もその一員である春を確認するだろう。花は産声を上げはしないが、開花するまさにその瞬間、周囲の空気は花びらの大きさだけ微かに僅かに揺れ、その揺れは周囲に飛ぶミクロの虫にしか聞こえない程の小さな音を立てるだろう。

梅林

梅林

  • 梅林

 毎年の梅まつりでは俳句吟行会が行われ、梅、梅まつりの情景を織り込んだ力作が披露された。今手元に過去の作品を印刷して並べてみた。 いくつかの句について、思ったことを思いつくまま書いてみる。(あくまでも、素人の卑見ですから)

 

「百樹には百の貌あり梅の花」 石澤無涯 第六回 入選作品

「佳き名得てそれぞれの香の梅の花」江本史朗 第十回 入選作品

ちょっと似通った趣のある句である。共通する感情は、梅、梅と一括りにするな、梅と言ってもいろいろな種類があるんだ、というものだろうか。前者の方がややシビアでインパクトの強い句だ。この「貌(かお)」は文字通り人間の顔と受け取ってもシュールで面白い。木の性格と言ってもいいし、咲き方や匂いの違いかもしれない。後者は梅の名に触れている。緑の王国の梅園には100種を越える梅がある。皆名前が違うのだ。皆風流な名だ。「寒紅」、「玉牡丹」、「大盃」、「蝶の花形」。源氏物語の章題を読むよう。

 

梅林

梅林

「梅林や雨中に進む車椅子」青柳進 第六回 入選作品

雨をおして梅を見に来てくれたのだ。行こうと決めたのは、車椅子の主か、或いは家族か。なかなか外に出られない、足の不自由なその人を気遣い、春のさきがけを見に行かせてあげたいと思ったのか。しかし、外は雨だ。車椅子の人を気遣うなら晴れた日を選ぶはず。とすると、これは当人たっての希望で、わざわざ足元の悪さの中やってきたと見るべきだろう。そこまでして、車上の人を駆り立てたものは、何か。

梅林

「紅梅や袱紗をさばく指白し」 田代泰子 第九回 入選作品

色と色の対比を強調した句だろうか。この形式の作はよく目にする。茶道具などを包む袱紗の赤、それを扱う肌の白。対照的な色彩を並べることで詠む人の目に色鮮やかさを際立たせる。過去の出品作を見ても、このコントラストに目を留めた句は多い。一度は詠みたくなるのだろうか。しかし多いということはすぐマンネリ化、没個性化してしまうということ。凡句のオンパレードが目に浮かぶ。

そんな中でもこの句は「指白し」と止めたところが面白い。紅梅、袱紗の赤を眺めたあと、ふとそれに触れる指に視点が一気にクローズアップされ、白だけが残る。他の大抵の句は、色を並べただけで終わってしまうのだ。

  • 白梅

「連れだちて手話美しき梅の園」 柴崎すみ(さんずいに此)子 第七回 入選作品

 美しい句だ。句そのものが美しい。詠まれた情景もまた。作者の目には、美しいものをみた喜びを手話で表す二人(たぶん)の姿が美しく見えたのだ。こういう時、手話での会話はどんな風に行われるのだろう。それほど長々しくはならないはずだ。数語の限定された言葉が、指と指の間を行き交う。その表情も優しげに、柔らかくほころんでいることだろう。如何なる形であろうとも、ものに感動した気持を伝えたいという人間の心の働きに頭の下がる一句だ。見下ろす梅の花も、今日は誇らしげに微笑んでいる。

 

「梅一輪かほりの高さへ肩ぐるま」 石郷岡るり子 第八回 入選作品

「名月をとってくれろと泣く子かな」。この小林一茶の句が自ずと連想された。輝く月に触れてみたいという子どもの気持はわかるが、それは無理な話だ。でもそれほど高くない位置に咲く梅の花なら、大人の肩に乗れば届く。花には、皆それぞれの香りがあるんだよ。さあ、花びらの中に鼻を近づけてごらん。肩車をしているのは、お父さんかお祖父さんか。この重さも愛しい記憶として香り続けることだろう。

第11回梅まつりポスター

・・・と、まあこういった具合である。今年の梅まつり(3月2日及び3日)では趣向を変えて、投句箱に入れられた句を審査するコンテスト形式から、詠まれた句を梅林の手前に掲示し、通り過ぎる人の目にすぐ触れられるようにする予定だ。巧拙を気にすることはない。参加することが大切だと思って、是非多くの来園者の方に「梅に誘われた一句」を作ってもらえたらと思う。

鬼の梅(2月7日)

  梅にまつわる人。たとえば菅原道真である。学問の神様、天神様、そんな天にも昇りそうな敬称が先行しがちな人であるが、「東風(こち)吹かば においおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」の歌人という感覚が私には強い。左大臣藤原時平に謀られて、九州の太宰府へ流される時、自邸の庭に咲く梅を顧みて詠んだとされている。

 彼の幼名は阿呼(あこ)と言ったそうだが、まだその名であった五歳の頃にも、梅の歌を残している「梅の花 紅(べに)の色にも似たるかな 阿呼が頬にも つけたくぞある」。卵のようにつるつるとした自分の肌に、壷の様な形を思わせる梅花の蕊の底から、頬紅を掬い取ってそっとつける。本当はそんなこと出来はしないが、子どもの自由な発想をそのまま歌い上げた一首に、聞いた当時の人々は思わず頬をゆるめ、この幼い歌人に拍手を送ったことだろう。

梅

ロウバイ

 人は自分が望みもしなかった姿にいつしか変わってしまうものである。道真は政治家になった。それは彼の望んだ道であっただろう。しかし優れた能力に恵まれた彼には、やがて敵となる人物が出現した。息子ほど年の違う藤原時平。後世模範とされた醍醐帝の御世、二人の政治家の対立は次第に深まっていった。やがて時平は道真を陥れる。

道真が帝を廃そうとしたなどというありもしないことをでっち上げられ、政治の中枢の都から、辺境九州の太宰府へ、道真は流されることとなる。長く親しんだ梅、毎年春のおとずれを律儀な手紙のように告げてくれた梅、それは、あの五歳の日に見上げたものと同じ木だったかもしれない。その梅ともお別れ、恐らく今生の。

 903年、道真死去。配流されて、僅か二年後のことであった。梅は主なき春を変わらず迎えたことだろう。

 その頃から、都を天変地異が襲い始める。疫病の流行。飢饉。時平は病死し、醍醐帝も病に倒れ、のち息子に帝位を譲る。かの有名な清涼殿の落雷では、名のある公卿も落命した。―――道真の祟り。そんな声が、どこからともなく上がる。本当にそうであったのか。人間の心と科学が結びついていた時代のことである。 

白梅

クロッカス

クロッカス(ハナミズキ通り)

梅
  • 空を背に梅

 清涼殿に雷鳴が轟き渡った時、突如出現した、黒雲に乗った道真が描かれている絵巻を、ものの本で見たことがある。その道真は、もう人間の姿ではない。異形の者、鬼のようななり。傍らには、刀を抜いて鬼に立ち向かう時平の姿。鬼の目には、最早人の感情は宿るのをやめている。しかし、じっと見ていると、こんな道真の声が聞こえてはこないだろうか。

 

「俺は、こんな姿になどなりたくはなかった。何が嬉しくて、他人を祟らなければならないのだろう。自分から進んで人を憎むことがなぜできようか。俺は、いつまでも梅の花を詠んだころの、あの幼い心のままでいたかった。成人して後の俺の身に降りかかった出来事に、一体何ほどの価値があったというのだろう。梅の花を頬紅に見立てて俺が披露したあの歌。父上も母上も、幼い俺を囲んだ大人は、皆、あの時の俺に笑みを向け、褒め称えてくれたものだった。あの場の誰が、今、俺がこんな変わり果てた姿になっていることを知るだろう。それを想い見たことだろう。だが、これも人の世のむなしさなのか、かなしさなのか。人は生れ落ちてしまえば、あとは望むも望まないもなく、変わりたくはない、今の、このままでありたいと思いながら、歩いていくしかないのだろうか。」

白梅

立春の卵(2月4日)

 実際の肌感覚はどうであれ、暦の上ではもう春である。立春―――春がたつと書いて、新たな季節の始まりを告げる言葉の戯れ。しかし、この日に「立つ」のは、春だけではないという説がある。何と、「卵」も立つというのである。

 戦後幾らか経った頃のある日(多分立春の日だったのだろう。)人工雪の研究で知られる科学者・中谷宇吉郎(1900~62)は朝食の席で新聞を開いた。立春に卵が立つといった題目の記事がデカデカと出ている。何でもある中国人が、自国の古典を調べてみたところ、そういった主旨のことが書かれているのに出くわし、試みたところ、見事上手くいったというのだ。その話を聞いた米国人ジャーナリストも同じく実験に乗り出したところ、矢張り卵は立ったというのである。紙面には、その人物がテーブルの上にきちんと卵を整列させた写真が掲載されており、中谷はまさかと目を疑った。

白梅

紅梅

ふきのとう

王国内のいくつかの場所で「ふきのとう」が芽を出し始めています。

ふかや村水車小屋付近で撮影しました。

ふきのとう

こちらは山野草ガーデン。やや見えづらいですが、落葉をかき分けると中からいくつも顔を出しました。

 ただ見ているだけでは真偽はわからない。実験精神豊富な科学者中谷はさっそく妻に卵を持ってこさせ、机上に立てようとする。なかなか上手くいかない。何度も繰り返す。すると上手く立てることができた。要するに、卵とは立つ構造のものなのだと中谷宇吉郎は言う。それは立春に限らない。注意深く、慎重に立てようとすれば、卵はいつでも立てることができるらしい。しかし、何故立春なのか?中谷宇吉郎はその点には関心がなかったらしく、追求していない。

(「立春の卵」、『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫より)

 卵が立つという事実は彼を喜ばせたものの、その構造的な問題や立つに際しての条件といった科学的な側面にしか、注目しなかったようだ。理系人間の限界。

白梅

白梅

オニグルミ

通用門付近の池のほとりに立っている「オニグルミ」という木の葉痕(ようこん)部分を見ると、サルやシカの顔のように見えます。この時期にしか見ることができず、じき変貌してしまうそうです。

オニグルミ動物の顔

あなたには何の顔に見えますか?

ふきのとう

 この間福寿草の芽が地面から顔を出している写真を掲載したが、あれを卵だと思えば、机の上で整列している卵はこれから来たらんとする春を期待して待っているように見えてこないだろうか。どんな生き物も寒い冬に次ぐ温暖な春を待ち望むものだが、無機物の卵までもが、おとなしく並んで春を今か今かと待ち受けているとは。まさに自然の神秘・不可思議なことよ。

 

 

 と、こんなメルヘンチックなことを言って中谷宇吉郎のあくまで科学精神一本の随筆に楯突いているのは、私はいくら卵を立ててみようとしてもついに上手くいかなかったからである。熱中すること30分。卵は自由を求めて私の手をすり抜け、床へ向かって垂直降下・・・ 後は推して知るべし。

 他に何もやることがなくて、天井を這いそうなほど暇で暇で仕方ないという人、是非挑戦してみてはいかが?勿論、茹でたものではなく、生の卵で。

謙虚であれ(1月17日)

 1997年から2004年にかけて、米国のCIA(中央情報局)長官を務めたジョージ・テネットに微笑ましいエピソードがある。ある日テネットは執務室から出て来ると、それに続く応接室で待機していた局員に、10分後に予定されている会議を少し遅らせてくれないか、と頼んだ。

 「食堂に食べ物を取りに行ってくる。ついでに、何か必要なものがある人はいないかな?」すると、室内で何か雑用をしていた若い研修生の女性が元気良く手を挙げた。「はい、私にピザを持ってきてくれませんか?」室内は緊張感に包まれた。どういうわけか女性は、自分が使おうとしている相手が組織のトップであることを知らなかったらしい。

 だがテネットは微笑んで食堂に下りていくと、やがて嬉々とした表情でピザを運んで来て、女性に渡したという。その後テネットは研修生の振る舞いを少しも気にした様子もなく、会議を始めたそうだ。

フクジュソウ

フクジュソウ

通用門付近のフクジュソウがぽちぽちと開花し始めました。

八重寒紅梅

梅園では八重寒紅梅という種類が咲き始めました。

スノードロップ

花仲間ガーデンでは「スノードロップ」が見られます。見落としてしまいそうな、可憐な「雪のしずく」です。

 もう一つ挙げよう。かつてFBI(連邦捜査局)副長官を務めたウィリアム・サリバンは駆け出しの頃、中西部の田舎の支局に配属された。そこの長は伝説的なギャング、ジョン・ディリンジャーを倒したことで知られるチャールズ・ウィンステッド。有能だが非常に偏屈な人物として局内では知られており、新米の部下をいびっては追い出してしまうことで有名だったそうだ。例によってサリバンも、まともに仕事を教えてくれず乱暴に自分に対してくるウィンステッドに相当当惑したらしい。ある時、二人は車に乗っていた。すると目の前を牛が通り過ぎて行く。東部の農場で育ったサリバンは、思わず知らず牛の値踏みを始めていた。「お前、牛の価値がわかるのか。」怪訝そうに聞くウィンステッドに、サリバンは牛の世話をしながら育った幼少期の思い出を話した。「それから、私達は本当の親友になった。」とサリバンは振り返っている。つまりウィンステッドは勉強しか知らない頭でっかちの新人にはうんざりしていたのである。ひょんなことがきっかけで、サリバンはこの豊かな知性を持った先輩の内面を深く知ることが出来た。二人は仕事に関する事もそうでないこともとことん語り合える仲となり、上司と部下というより年の離れた親友同士のようであった。

「ウィンステッドは、私がそれまで出会った人間の中でも最も深い知性を持った一人だった。彼は正規の教育を受けているとは言えなかったが、わからないことは何でも自分で学び、身につけていた。大学を卒業すると途端に勉強をやめてしまう大方の人間とは、彼は正反対だった。」

 ウィンステッドの死後、サリバンの下には、この友人の愛用していた帽子と銃が遺品として届けられたという。

働く上で学ぶ大切なことの一つは、自分にも他人にも謙虚であれ、ということだ。

スノードロップ

冬来たりなば春遠からじ(2019年1月8日)

今年生誕140年を迎える作家・正宗白鳥(1879~1962)は、生前手のつけられないニヒリストと世人に思われていた。否定的、後ろ向きの発言しかしない。冷徹無残で、夢や希望を語らない。

 ところが、誰もがそう見做していたわけでもない。どんな人でも片一方の側面から見た姿だけが、その全てではないのだ。

 

「私は「菊の香や奈良には古き仏達」と詠じた古詩人の心境を追想するとともに、若くして死んだ異国の詩人シェリイの「西風に寄せた」詩の激情にも心が動かされるのである。」

 

と何気なく書かれた白鳥の短文を、大西巨人氏(1916~2014)は見逃さなかった。氏はこの一節に蠢く白鳥の心の動きを捉えて、「精神のみずみずしい積極性」と呼んで讃えている。一見冷静沈着で悟達の境地に達しているようでありながら、30歳で溺死した英国の詩人の、その荒々しい代表作に心を動かされている。

 それは、あたかも息を吹きかけられて再び朝陽のように燃え上がる炭火の如き、「ニヒリスト」の情熱として巨人氏の心には映じたのだろう。(『春秋の花』光文社文庫より)

蠟梅

暖冬暖冬と言われ続けてきたが、矢張り時日が経過すれば気候はいつか冬本来の厳しい寒さを生きとし生けるものにひしひしと感じさせる。この時期になると、私は書棚の画集から一枚の絵がどうしても見たくなってしばしば取り出しては眺める。

 17世紀オランダの大風景画家、ヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628頃~82)の「冬景色」だ。

 

さほど大きくない画面だが、地平線を低くとり、画面の半分以上は雲が占め、天空に漲る大気のドラマの壮大さをあますところなく見る者に伝える。そして地上には、こちらに背を向けている幾人かの人々。彼らは、自分たちの頭上で繰り広げられる、音まで聞こえてきそうな程の黒雲の激動と蠢動のスペクタクルには些かも気づいていないが、彼等もまた、この自然と共に地上で生き、耐え、喜び哀泣しながらもまた生命ある限り存在し続けているのだ。

 

早咲きの梅

早咲きの梅(初雁)
  • 正門付近

「彼は当時の他の風景画家たちのように、オランダの自然のにおいや表情を写すだけでは満足しなかった。彼の求めるものは北方の自然―――そこに住み、それに結びついた人びとの生活のしみこんだ自然の性格であり、自然の深さそのものであった。」

 

この作品について解説を書いている美術史家の嘉門安雄(1913~2007)は静かな情熱をもってこう綴り、さらに続ける。

 

「重くたれこめて、風になり、夕ぐれの光に動く、冬の雲。その雲の下、わずかの光に明るむ大地の静寂―――それは自然のきびしさに対する絶望ではなくて、そのような自然に住み、そのような土と大気に愛着をもつ人びとの生活の根強さをあらわしている。・・・この小品にみる画格の大きさと、限りなく深い自然のたたずまい、しかもひそやかに暖かい生活のいぶきは、見る人の心と目に忘れがたい印象を与える佳品である。」

(『世界名画全集7』中央公論社より)

 

 

   単なる一枚の絵の解説という以上に、この文は厳寒に耐え、尚もその地で生きようとする全ての人々の心情を明瞭に、感動的に汲み取っている。

 誰も厳しい寒さを期待する者はない。それは時に災厄ともなり、人の生きる途を脅かすこともある。

 しかし、それでもその地に生き続ける人々は、その土地と、そこでしか展開されることのない天の働きを信じて生きている。時に漏らされるそれらの現象への憤りも、全てがそのままのものではないだろう。「それは自然のきびしさに対する絶望ではなくて、そのような自然に住み、そのような土と大気に愛着をもつ人びとの生活の根強さ」。たぶん、そういう感情も、少なからずにじんでいるはずなのだ。

 

 

こういう文章を書けるということは、この人は北国の生まれなのではないか、と思って調べてみると、嘉門安雄は石川県出身とわかった。日本海に面した、能登半島に位置する旧門前町(現・輪島市)だ。

 能登の地を吹きぬける風雪が、時代も空間も越えて寒国に生きる人々への愛情を、美術史家の感性に刻みつけたのだろうか。

 

蠟梅

王国ひろばとヒマラヤ杉

  • 梅

「Drive my dead thoughts over the universe   Like wither’d leaves to quicken a new birth:

  (西風よ、お前が枯葉を撒き散らすように、私の死んだように見える思想を全宇 宙に撒き散らし、その再生を促してくれ!)

And, by the incantation of this verse,

(まだ消え去らぬ暖炉の灰塵と残り火を撒き散らすように、)

 

 

 

 Scatter, as from an unextinguish’d hearth  Ashes and sparks, my words among mankind!

(私のこの詩の呪術の力を用いて、私の言葉を全世界の人々に向かって撒き散らしてくれ!)

 Be through my lips to unawaken’d earth

(西風よ、私の唇を通して、まだ醒めやらぬ全世界に対する)

 

 

The trumpet of a prophecy!  O Wind, If Winter comes, can Spring be far behind?

(予言の喇叭を響かせてくれ! おお西風よ、冬来たりなば春遠からじ、と私は今こそ叫ぶ!)」

 

パーシー・ビッシュ・シェリー(1792~1822)「西風の賦」(平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫より)

 

場内風景

早咲きの梅(王牡丹)

緑の王国の中には115種類の梅があると言われています。一本一本に名前のプレートがかけられていますが、風流な名の多いのに感嘆します。名前の妙を愉しんだ後で、さて、どんな花が咲くのだろうと期待するのもさらに心が充実しそうです。この一輪は「王牡丹」という名を持っています。

  • フクジュソウの芽

王国の中には何箇所か、福寿草の植栽された場所があるが、先日その一部を掘り返していると、小鬼の角のような可愛らしい芽が姿を見せた。早咲きの梅も、ちらほらと花開き始めている。

「冬来たりなば春遠からじ」。ささやかだが確かな足跡を、春は地上につけている。

サンタクロースは誰?(12月20日)

 ヴァージニア・オハンロンは困っていた。学校で友だちと言い合いをしたのだ。わたしは、サンタクロースはいると信じているのに、友だちはいないと言う。釈然としないまま、家に帰ってパパに聞いたら、「わからないことがあったら、サン新聞に聞いてごらん」とパパは言った。ヴァージニアは机に向かって書き始めた。「サン新聞のおじさん、わたしは学校でお友だちと言い合いになったのです・・・。」

 1897年9月21日の朝ニューヨーク・サン紙に掲載されたフランシス・チャーチ記者によるこの問いへの答えは、“全米一有名な社説”として知られ、チャーチが確信と愛情を込めて口にした「Yes,Virginia.There is a Santa Claus」(そうなんだ。ヴァージニア、サンタクロースはいるんだよ。)の一節はあまりにも有名だ。

 

 だが、不思議と、私は何度読んでもこの社説の中身がよく頭に入ってこない。面白くはあるが、さほど共感ができないのだ。ただ、「本当に大切なことは目で見ることができないんだよ。」という、まるで『星の王子さま』のキツネの台詞のような一言は覚えている。別段チャーチがサン=テグジュペリを意識したわけではなかろう。多分、真理を表す言葉はいつも同じようなものになってしまうのだ。

クリスマスホーリー

マンリョウ

風が吹けばふるえそうにたわわな果実をつけたこの植物、なんだろう?正解はマンリョウ。

メディカルガーデンにひょっこりと植わっています。思わずとって食べてしまいたくなりそうですが(やめてください)、「良薬は口に苦し」のたとえのように、味は保証できません。(鎮痛、解熱などに効果があるとか。)

ところで「センリョウ」という同種の植物もあります。こちらも赤い実が成るものですが、問題はこれが葉の上につくか、葉の下につくか。どっちがどっちかわからなくなってしまうのでは?

そこで私が思いついた覚え方は、「マンリョウ(万両)の方が値段が高いから葉っぱの下に大事に隠し持っている」。 覚えやすいと思ったらぜひお使いください。

  • 空に伸びる冬の枝

 「星の王子さま」には印象的な登場人物が多く見られるが、私は鉄道の線路切り替え手(スイッチ・マンと呼ばれている)が特に記憶に残っている。電車に乗ってあちらこちらへ向かっていく人々を見て、どうして人間は色々な所へ忙しなく移動するのかと聞いた王子さまに向かって、さあ、どうしてだろうとスイッチ・マンは一緒に考える。このことが私には既に感動的だった。

 なぜなら王子さまが地球上で出会う人間は、誰もが自分の世界に沈んでいて、王子さまと一緒になって考えてくれる人は他にいなかったのだから。王子さまの問いかけはどれもはっきりした答えを出せないものばかりだ。だから正面から聞かれたら、大抵の人は困ってしまう。「サンタクロースは本当にいるの?」と聞かれたヴァージニアの父親も、どう答えたらよいかわからなかったのではないか。

 フランシス・チャーチ記者のように、素晴らしい答えを用意している人もいなければならないのだ。でも本当は全ての大人が、「それはね、ヴァージニア・・・」と話しかけてあげられたらいいのだと思う。この社説は毎年クリスマスがやってくる度に語り継がれ引用され続けているものだが、それはつまり、チャーチの文章ではなく、自分の言葉でサンタクロースの存在について語れる大人が今も多くはないということなのだ。

薔薇

 一般的に12月24日の晩に枕元に置かれたプレゼントが、赤服で白髭の老人が北欧から持ってきたものではないということにいつ子どもが気づくのか、よくわからないが、私自身は比較的遅くまで気づいていなかったように思う。幸せだったのか、抜けていたのか。

 しかしサンタクロースという夢のある陽気な老人が実在するかどうかということは、実際あまりたいした問題ではない。要するにサンタクロースとは、親(ないしはそれに類する存在)の愛情の化身なのだと考えていればいいのである。

夕日は歳月を宥める(12月14日)

 自分は夕暮れを見るために生きている。いや、自分の生きる楽しみは、一日の終わりの夕暮れを見ることだ。とにかく、物語の終わりで、主人公の執事スティーブンスが出会う男はそういう意味のことを言っていた。カズオ・イシグロの初期の代表作『日の名残り』だ。

 スティーブンスの仕えた貴族、ダーリントン卿は第二次世界大戦直前、暗い方向へ風向きの変わっていくヨーロッパを救うべく、個人の力であれこれと奔走をする。広大な自分の邸で欧州各国の有力者を集め、国際会議を開いたこともあった。しかしその努力は全て水泡に帰し、欧州は戦火の波に呑まれ、戦争が終わると卿は戦前の活動が誤解されたことから世間のあらぬ疑いの目を向けられ、失意のうちに世を去った。

 ダーリントン卿の死後邸宅はアメリカ人の富豪に買い取られ、スティーブンスはそのままアメリカ人の主人に仕えることとなる。しかし彼一人が主要な働きをしても、日々の仕事をこなすのは精一杯だ。そこで彼は昔の同僚であったミス・ケントンに邸に戻ってもらえないか交渉すべく、主人の車を借りて一人、息抜きも兼ねて出掛けるのだ。

すすき

過ぎ去った日々、邸を訪れた人、去った人。旅はひとを普段の毎日や集団から切り離し、本当の意味で一人にする。旅の折々の場面で、スティーブンスは執事として長く過ごした月日を振り返る。

夕焼け

夕焼け

  ずっとひとつの仕事に携わり、それに疑いを持たず誇りを抱いてきたひとが、ある日急にそうして生きてきた自分の姿を信じられなくなったとしたらどうだろう。ミス・ケントンと再会し、来し方を懐かしむスティーブンスだが、結局自分が彼女に会いに来た目的を告げることはできなかった。再び車上の人となった彼は人で賑わう浜辺に至り、一人、夕焼けを眺める。その彼に、今までの自分の人生に対する疑問が波濤のように襲いかかる。

 それは、今もかつての主人を誤解し続けている世間への悲しみ、その人に仕え続けてきた自分の道。そしてひたすら執事一筋を貫いてきた軌跡への疑い。いずれにせよ、もうどうすることもできず、取り戻すこともできない過去の頁だ。

 今まで、恐らく誰にも見せたことのないスティーブンスの動揺する姿。同業の偉大な父の背中を追いかけて一人で生きてきた、三十年にも及ぶ歳月。彼が何者なのかも知らず、しかしその痛々しい言葉を受けとめようとする見知らぬ男は、自分達の目の前に広がっている夕日が、生きるうえでの迷いやためらいも包み込んでしまうことを戸惑いながらも相手に告げるのだ、そして冒頭の言葉がスティーブンスの硬直した心を静かに溶かし始める。彼はポツリポツリと、邸に戻ったらやるべき仕事について、思い浮かぶままに話し始める。

夕焼け

 時には自分を嫌になり、信じられなくなってしまうこともあり、しかしそれは全く無用の感情ではない。その心の谷底から戻ってきた自分は、より確かにそれ以後の日々を過ごしていけるようになるだろう。でも、疑いすぎても良くない。人間にとって最大の不幸は、自分に対する好感を失ってしまうことだ、ある短編でトーマス・マンがそういうことを書いている。

 

しかし一番恐ろしいのは、自分に一度も疑いを抱いたことのないひとだ。

夕焼け

鳥の世・人の世(12月6日)

緑の王国を主催者として毎年開かれている「ジャパンバードハウスコンテスト」の鳥の審査の部は、実際に王国の敷地内に作ったバードハウスを設置し、そこに鳥が入るか否かで「審査」する。今前年度のチラシを見ると、「緑の王国で確認されバードハウスを利用すると思われる鳥たち」として、以下の種類が書かれている。アオゲラ、コゲラ、スズメ・・・ハクセキレイ、セグロセキレイ、そしてオオタカ。このオオタカという鳥は最後に名を連ねていることからも、あまり見かけない稀な鳥かと思っていた。ところがこの間、遠くから小さくだが、私はオオタカを見た。

モミジ繚乱

ふかや村のモミジ

 空に黒く千切って撒き散らされたように無数のカラスが飛びかっていて、しかし彼らの目標はその中に紛れ込んだ一点の白に向けられていた。

 それがオオタカという鳥らしい。

 一匹カラスの群れに入ってしまったらしく、本来カラスより体の大きい鳥なのだが、多勢に無勢で太刀打ちできず、攻撃されるがままの有様であったようだ。雲ひとつないよく晴れた日のためか、とは言え指摘されてそれとわかる程度ではあったが、確かにその白い体は私にも確認できた。散々小突き回されてやがてどこかへ去ったのだろう。彼(恐らく)にとっては屈辱的で哀れな光景とも見えたが、人間にはどうすることもできない事柄である。しかし碧空の中を縦横かつ自由自在に疾駆する彼らの姿を見ていて、地にはりついていることしかできない人間という生き物に幾らか恨みを覚えた。そして丁度去年の今頃ふと手にとって読んだ本を思い出した。

モミジ川を流れる

モミジ入り乱れる色彩

 つげ義春の「鳥師」は場末のうらぶれた鳥類専門店が舞台の話だ。専門店というより、鳥屋、と軽い言い方の方が相応しい。ブームとなった時代もあったものの、最早顧みる人も少ない鳥を売る商売。その世外れ度は漫画家をやめて石を売って生きていこうとする主人公といい勝負だ。鳥屋は軽薄でうわっつらだけの流行に踊らされ、深みのない大衆の世を嘆く。主人公もおおいに同調。これもまたよくある話。そう言えば、と鳥屋が思い出す。昔凄いやつがいたんだよ。

 

 鳥屋がある雨の日に街を歩いていると、ゴミ集積場に一羽の大きな鳥がとまっていた。しかし鳥と見えたのは人間だったのだ。その男は鳥が止まり木につくようにゴミ箱の縁に腰かけて弁当を食べていた。再び鳥屋が男を見たのは彼が自分の店に訪ねてきた時である。男は簡単には捕まらない実に見事な鳥を連れてきて、金に換えていった。鳥を捕まえることにかけては天才的な腕を持った。鳥師であったのだ。

 俺もあいつのおかげで随分儲けたよ。野鳥を飼うことが一番流行った時期で、あの頃は俺も得意の絶頂だった。あいつの手がね、すごいんだ。両手の第一関節がみな直角に曲がるんだよ。その手でかかられると、蛇はみな降参してしまう。鷹の蹄に似ているかららしいんだな。その手で蛇を追い出してしまうと、鳥師は口笛で森の中の鳥を呼び集め、肩にとまらせたまま鳥屋に持ち込んだ。

木道に舞い降りるモミジ

モミジ

 でも時代は変わった。野鳥のような奥深いものを愛好する世は過ぎてしまった。あんなに愛好家がいたのに、一人、二人と店から消えていった。あの鳥師のような男には生きづらくなってしまったんだ。

 ある土砂降りの夜、あの男は白鷺を連れて店に現れた。でも、うちでは大きな鳥は扱っていなかったので、断ってしまったんだ。それが、男が店に来た最後だったな。その時、彼はだいぶ弱っているようだったよ。

 最後に鳥屋が男を見かけたのは、街を流れる川でのこと。男は高い水門の上でひっそり座っていた。それが、最初にやつに会ったときと同じよう、まさしく鳥に見えたんだよ。俺は思わず声を挙げた「飛べ、飛ぶんだ!」男はふらりと水門から飛び立った。・・・

 違うでしょ、何言ってんのよ。ろくにものも食べていなかったんだもの、力尽きて転落したんでしょ。今まで二人の側で昼寝していた鳥屋の女房が口を挟む。身元不明で、得体も知れなくて、おかげで知人だというんで三日間も警察に引っ張っていかれたの、忘れたの?まったく、あなたたちのやっていることときたら、一体世の中の何の役に立つの?

モミジ

 鳥屋を後にした主人公は、夜道を一人で歩いていると、ふと川に出た。足元のコンクリートは水門だ。彼は、もしかしたら本当に果てのない虚空に飛翔しようとしたのかもしれない鳥師の最後を思い出す。よし、自分も。そして、体を伸ばした瞬間・・・

 

 

「父ちゃん。」帰りの遅い自分を迎えに来た息子。漫画家は思い直す。息子と手を繋いで家路へ着く彼のうしろ姿で、一編は終わる。

夕空・正門付近

あのオオタカは、どこへ行っただろうか。

平成の終わり(11月26日)

 安岡章太郎の『僕の昭和史』は印象的な書き出しで始まる。大正9年、すなわち1920年生れの安岡が自らの生まれた年号の終わりに最初に立ち会ったのは6歳の時だ。だから安岡は、自分の昭和の記憶は大正天皇の葬儀と新たな天皇即位の御大典から始まるという。要するに安岡にとってははっきり物心のつく頃が昭和の幕開けだったわけだ。

 来年の今頃この文章を読み返すと、もう前の時代に書かれた文ということになる。31まで積み重ねた時代が、新たに1から始まるというのは、知らない私には何とも不思議な感覚だ。

モミジ

ハナノキ

 私は先年京都へ旅行した時に、K堂という店で抹茶パフェを食べて頬の落ちる思いをしたのだが、ふと隣のテーブルの女性二人が立ち去った後を見ると、私が口福を得た同じ抹茶パフェが、ほぼ手を付けられずに残されていた。その二人は言葉つきからして中国人だったと思われる。私や他の日本人には極上の美味と思われる抹茶の味も、彼女達の口には合わなかったのだろう。

 それにしても京都の外国人旅行者の多さには驚くばかりで、その過半は中国・韓国の人々と見て相違あるまい。あの二人の勿体ない食べ残しを平均的な他国人の感覚とすると、海外旅行者による食べ残しという問題は他の京都市中の店でも起きているに違いない。

 とするとここで一つ考えられるのだが、訪問者の大多数が自国人ではなく他国人となってしまった(或いはなりつつある)観光地の食物は、その国の人々の好むように次第に変わっていくということは起こりはしないか。せっかく多くの観光客が訪れるのに食物が口に合わなければ、いつまでも盛況とはいくまい。いずれ廃れてしまうだろう。それを避けるにはやり方を変えざるを得ない。

 抹茶の味を日本人の好み以外に加工することができるかどうか私は知らないが、それが仮にうまくいって、単なる外国旅行の記念食としてではなく、本当にその味を気に入って多くの他国人が押し寄せたとする、すると加工される以前の味を当然の如く美味視していた自国人はまるでおいてけぼりにされたような気持になるだろう。

 仮定の上に仮定を重ねた話で、現実味がないと言われてしまえばそれまでだ。しかし、平成という時代は「グローバル化」という言葉が実によく人の口にのぼり、喧伝されてきたが、その落とし穴というべき側面は、多分こういうところにある。

サステナブルガーデン

フローラガーデンにて

 様々な文化が互いに混融し合って新たなものを生み出すのは有益で面白いことだが、つまりその過程でイニシアティブを握るのは「様々」の中でも人数の上で多数を占める「マジョリティ」なのではないか。すると残された「マイノリティ」は当然取り残された不満を覚える。そこから、時には凶暴で秩序を破壊する方向へ走りかねない感情が生まれる。今世界中のあちこちで実際にこうした感情が噴出しているのだ。

 恐らく日本で「平成」と呼ばれた時代は、みんなが「グローバル」を夢見て歩んだ結果、知らず知らずのうちに大変なパンドラの函を開けてしまっていた時代、として記憶されることになるのではないか。それを引き継ぐ次の時代に待っているものが何なのか、今はまだ何も言いたくはない。

 

モミジ

下から見上げたモミジ

この『僕の昭和史』を書き終えた後の文章の中で安岡は面白いことを言っている。昭和が終わり、新しい年号が発表されることになった時は、特に何も思うことはなかったが、いざ平成という時代が始まってみると、今まで生きてきた「昭和」という時間が、自分の中からすっぽり抜け落ちてしまったように感じたと。その平成時代で一番良かったことのひとつは内外の戦争に巻き込まれなかったことだろう。『僕の昭和史』を読み終えた私が思ったのは、安岡が25歳のときに終わりを迎えた戦争の影が、その後の彼の人生に如何に大きな影響を与え続けたかということだ。

もし私が百歳まで生きるとしたら、平成は私の人生のほぼ四分の一の時間に相当する。いつか平成という時代を振り返る時、それがどういう色彩を伴って自分の眼に映るだろうか。

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