市民がつくり 市民が守り育てる 市民の森

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場内ガイド

更新日:2018年10月16日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり… 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、きまぐれではなく毎日、緑の王国の今を更新しています。

 こちらもぜひご覧ください。)

ふるさと(10月15日)

 10月14日の第10回森の音楽祭で、10回目の記念イベントとして、王国ボランティアが唱歌「ふるさと」を合唱した。ひろばに集まった来場者の方々の声と共に、雲に覆われているが光の差し込み始めた十月の空に、歌声を届けた。 誰言うともなくこの曲が曲目として採用されたということは、どれだけこの国の人達に「ふるさと」が浸透しているかということだ。数年前杉原地畝の映画を見たとき、彼のビザを手にしたユダヤ人達が、船に乗って日本へと海を渡るシーンがあり、そこで誰か一人が歌を歌い始めた。すると周囲の人々もたちまち唱和し始め、やがて船中に充たされた歌声は風に乗って海原に響いていった。私には彼らが何を歌っていたのかわからなかったが、あれがもし日本人だったとしよう。多分、一人が口ずさみ始めた「ふるさと」が、空気のように他の人に伝わって、船内は望郷の思いで膨れ上がることだろう。私達日本人にとっては、第二の国歌といっても過言ではない曲だと思う。

 

ハナミズキの実

トウガラシ?
トウガラシ?

 「ふるさと」の歌詞は、(少なくとも1番は)誰もが知っているだろうが、高野辰之と岡野貞一と言う名前にすぐ反応する人は多くはあるまい。

  前者はこの曲の作詞者、後者は作曲者だ。明治9年に長野県に生まれた高野は、その年代の多くの男性と同じく、上昇志向の強い人であった。同じ信州の由緒ある寺の娘と結婚し、いつか出世してこの寺の壮大な門を人力車に乗って凱旋することを大きな目標として、東京で勉学に励んだ。だが志と違って文部省の下級官吏となった彼は、思いもしなかった唱歌の作成を職務として命じられる。高野は郷里の山野を思いうかべながら、誰もが親しみやすい歌を編み出した。妻の生家の寺は、島崎藤村が滞在し、「破戒」を執筆した場所でもある。藤村の文名は明治の世の中で高まっていく。

  しかし高野が詞を書き、岡野が曲をつけた作品(他にも「春の小川」や「もみじ」などがある)は、ただ「文部省唱歌」としか明かされない。いつか世に名を上げ、故郷に錦を飾ろうという高野の念願は、周囲の状況に流され、容易には叶わなかったのである。しかし彼はあくまで初志を失わない努力の人だったようだ。50歳を過ぎて「日本歌謡史」と言うテーマで博士号をとり、日本学士院賞という大きな賞も受けた。決して早くはなかったものの、高野は車夫に人力車を引かせて、郷里の門をくぐったのだ。「こころざしを はたして」ふるさとに帰ってきたのである。

 

岡野貞一という人について知られている事実はそう多くない。鳥取県出身で、キリスト教系の学校で学んだこともあったようだ。控えめな性格の人であったらしい。自らの仕事について家族に語ることは殆どなかったが、ある日ラジオから「ふるさと」が流れて来たとき、これは僕が作った曲なんだ、と呟いたそうだ。

ふるさと

ある程度の年を重ねたボランティアの皆さんは、この曲からどんな光景を思いうかべるだろうか。どのような風景が、脳裏に広がるのだろう。

それぞれの時間の中で、ふるさとへの独特な思いや別れがあったかもしれない。

破壊されてしまったふるさと、流されてしまったふるさともあるかもしれない。それでも、ひとりひとりの心の中にある「ふるさと」が、曲の旋律と共に蘇り、いつまでも褪せることなく輝き続けることを願う。

蝶

みしのたくかにと(10月4日)

 お城の近くに住むおばさんは、友達からもらった野菜の種を、自分の畑に播いた。でも何の種なのかわからない。いつもなら、播いた種の名前を小さな看板に書いておくのだが、今わたしは何を播いたのだろう?でも、とにかく楽しみだ。心躍る気持ちになりながらおばさんは、看板に「とにかくたのしみ」と書いて畑にさした。美味しい野菜ができますように、と。

鬼灯

鬼灯

 お城に住む王子様は我がままで食べ物の好き嫌いが多い。周囲の召使があれこれと考えて料理をつくるのに、少しも食べようとしない。みんな困っていた。お城の窓から外に広がる畑を見た王子様は、あれと思った。新しく播いた種だろうか。「みしのたくかにと」と看板に書いてある。でも、それがどんな食べ物なのか、王子様は見たことも聞いたこともない。何なのだろう? 興味にかられ、どうしても食べたくなった王子様は、召使たちに言い始める。ほかのものは食べないけど、「みしのたくかにと」だったら、ぼくは食べるよ。そうだ、「みしのたくかにと」が食べたいんだ。

  フローラ班のボランティアさんたちが、ここ何日か、新しく育った花の苗をポットに移している。それを見て、随分前に呼んだ「みしのたくかにと」という絵本を思い出した。まだ字もよく読めなかったのだろうか、王子様が看板の字を逆から読んだために起きた面白い小事件の話である。細かい内容は違っているかもしれないが、大体今書いたようなものだったと思う。その後の展開は、「みしのたくかにと」の正体が畑の看板であることを知った召使たちが、おばさんをお城に呼び、王子様の我がままな性格を知ったおばさんが、一緒に「みし」を育てることを提案し、最終的に王子様はいい子になる、そんな感じだったような気がしたのだが違ったかもしれない。そして肝心の「みしのたくかにと」が何だったのかもよく覚えていない。確かイモだったように思うのだが。

 

 

 勿論花に詳しいボランティアさんたちは、自分達が播いている種の種類はよくご存知だろうが、知らない者の目から見ると、みんな「みしのたくかにと」に見える。芽が出たばかりの時は、みな同じ花に見える。ひとつひとつの苗がどんな可能性を持っているのか、「とにかくたのしみ」。水やりはとても大変だけど。

何の花が出てくるかな?

桜

冬咲きの桜がぽろぽろ咲いています。

桜

金木犀(左手前)と咲き揃っています。

 ところでここまで書いたところで、『みしのたくかにと』を読み返してみたのだが、私が記憶していたはずの内容とは大分違っていることが判明した。私の記憶力などそんなものである。従って興味のある方は一読を。折しも読書の秋だ。

五十年(9月20日)

 中国にはこんな逸話があります。と言ってにこやかな笑みを浮かべながら老舎は話し始めた。ある骨董好きな男が秘蔵の壷を持っていた。別のお金持ちの男はどうしてもその壷を手に入れたい。そこであの手この手を使って所有者の男に取り入ろうとした。だがどうしても手放そうとしない。やがて所有者は零落し、病気になった。しかし、他の愛蔵の品を売り払っても、その壷だけは手元に置き続けている。お金持ちは病人を自分の邸に迎え手厚く看病する。それでも壷から手を離さない。ついに死期を悟った所有者は、庭に壷を投げて割ってしまうと、息を引き取った。

 日本のペンクラブか何かが中国を代表する文人である老舎を迎えた歓迎の席で、彼はこんな話をしたのだった。座中の人々は笑って老舎の話を聞き終えた。「いや、それは違う。」一人の老作家が声を挙げた。「日本人だったら、そんな壷を割るなんてことはしません。」座興の一種として披露したに過ぎない老舎の談話に、老人は真っ向から切りかかったかのようだった。老舎も座中の一同も当惑したが、じき話題は他に移り、散会した後に集まった人たちは口々に「広津さんらしいや。」と笑いあったという。

 広津和郎が1968年に亡くなった時、矢張りその場に同席していた井上靖は、最初にこの思い出が蘇ってきたそうだ。

彼岸花

アサザ

アサザ(花仲間ガーデン)

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ(ロックガーデン)

散文精神。それはどんなことがあっても、悲観もせず、楽観もせず、めげずに生き通していく精神。広津和郎はそんな考え方を持った文士だった。

母と父の不和。困り者の実兄との関係。望まない結婚。長男の夭折。そして戦争。彼の人生には人並み以上に様々な苦患が降りかかる。そのたび広津は嵐にもまれても折れることのない草のつるのように乗り越えてきた。それが彼の生き方だった。

60歳を過ぎた広津の前に、新たな転換が訪れる。戦後間もない国鉄を舞台にして起こった三大ミステリーの一つと言われる「松川事件」。検察のでっち上げとも取れる捜査によって、数十人の無実の人々の運命が変えられようとしていた。事件について知った広津は膨大な裁判資料の一つ一つを読み解き、細かい矛盾点を暴き出し裁判の歪みを伝え続けた。作家のくせに司法に口を挟むとは、などと批判や揶揄の声も聞かれたが、広津はおかしいことはおかしいと言う事の正しさを主張し続けたのである。

とにかく彼が松川事件について雑誌に書き続けたことは、世人にこの事件を忘れさせなかった点で大きい功績だ、と松本清張は言う。10年が経過し、被告全員にようやく無罪判決が下った。リューマチを患い不自由な足を引きずりながら裁判所を訪れた広津は、自分の信念が報われたことを見届けた。無論広津和郎一人の力というわけではなかったが、広津は散文精神を貫き、大きな流れを変えることを成し遂げたのだ。

彼は自分の抱えた壷に如何なる価値があろうとも、それを割ることなど思いもよらなかった人だった。

彼岸花

白い彼岸花

白い彼岸花

 中国で文化大革命が始まると、老舎の動静は日本に入りづらくなっていった。井上靖も他の作家仲間たちもあの端正で穏やかな作家が、変動を乗り越えて再び日本に来てくれることを願っていた。広津和郎は松川裁判の無罪判決が出てから5年後、76歳で亡くなった。後には一人娘の桃子が遺された。

 老舎の最期がわかったのは、広津の死から程なくしてのことである。老舎は文革によって激しい糾弾と迫害を受け、湖に投身して果てたのだった。

 その話を聞いた井上は、咄嗟に思ったそうだ。老舎は、壷を割って死んだのだ。見事な壷を庭に打ち付けて、老舎は人々の前から去っていった。

 

 9月21日、広津和郎が世を去って、ちょうど五十年が経つ。

彼岸花

 父方の祖母が他界したのは、私が11歳の時だった。坂の上の家から出発した棺が、坂下に広がる広い沼の前を通りかかると、沼の淵に彼岸花が列を成して咲いているのが目に付いた。それで、私には彼岸花は葬列の花という感じがしている。正確な命日を忘れていたので仏前を見ると、9月16日とあった。彼岸花を見なければ、きっと思い出すこともなかっただろう。その年の正月だったと思うが、祖母はベッドの上から私と妹を呼び、「もうこれが最後かもしれないから」と言葉を添えながら、それぞれに封筒を渡した。「そんなことを言うな」と隣で父が声を荒らげていた。その年頃の子供にはいくらか過分な額だったあの年のお年玉を、何に使ったのか、もう覚えていない。

月の話(9月13日)

 戦後間もない頃、幸田文は来客の二人に酒と間違ってメチルアルコールを飲ませてしまった。悪くすれば失明したり、命にかかわる危険もあった。幸い何事もなく済んだものの、自分の仕出かしたことに対する衝撃は大きかった。夜、ひとけの無い野外を、彼女は落ちつかぬままにふらふらと歩き回ったという。

 まだ春先の夜だった。空には大きな月が浮かんでいた。それは三日月だったが、とても大きく見えて、鋭い鎌のようにギラギラ光って見えた。あの時の月が、幸田文には忘れられない記憶として、長く残った。

 アポロ宇宙船が月に到達した時期に書かれた「月の塵」というエッセイの中でこの苦い思い出を披露している。その頃、街角でこんなインタビューが行われたことがあったらしい。月世界旅行ができるようになったら、あなたは月に行ってみたいですか?自分は行きたくないと答えた一人の老女に、幸田文は同感している。あんな荒涼としたところに行く気にはならない、自分には恐ろしい、と。

 月には、いくつもの時代、様々な人たちが、たくさんの思いを埋めている。どこにも持って行き場のない心の重みを、月に託している。

 もし月に行ったとしたら、あてもなく広野を彷徨い歩いていたあの日の自分にでくわしてしまうのではないか、と彼女は考えていたのかもしれない。

オオモクゲンジ

場内ガイド

 井上靖の母は、忘れる病気にかかってしまった。月日とともに息子の顔もわからなくなりつつある。ある夜、隣で寝ていたやすしがいない、と言い出した。自分が寝かせて見守っていたはずなのに、どこかへ行ってしまった、探してくる、と慌てた様子で外へ出て行ってしまったという。母は今、幼い自分を育てた若い頃に返ったつもりでいる、と思いながら、足は相変わらず達者な母を追って、井上も外に出た。

 彼は一つの画像を思いうかべた。満月のかかった空のもと、まるで月へと続くかのようにまっすぐ伸びる野中の道を、幼子を探すまだうら若い母が、息子の名を呼びながら走っていく。一方半世紀余りが過ぎた今、老いた息子がどこへとも知れず駆けて行ってしまった老境の母を、月明かりの中追っていく。二枚の光景が時空を超えて、一つに重なり合い、風の音だけが静かに渡っていく。

 

オオモクゲンジ

季節の花:オオモクゲンジ

    中国原産で国内では西日本に多く植えられています。「Golden rain tree」の異称を持ち、

    鮮やかな黄色が遠くからも際立ちます。

場内ガイド

 雲を出でて われに伴う冬の月。明恵上人の歌を思い出した。幼い日、どこかへ出かけた帰り、後部座席に乗っていた私は、月はずっと自分達についてくるけれど、いつ家に帰るのか、と母に聞いたことがあったらしい。(風が身に凍みないか、雪が冷たいのではないだろうか。)と、心優しい明恵さんは気遣っている。

場内ガイド

文さんの感性(9月6日)

 幸田露伴という人は、池の水の色を見ただけで、そこにいる魚の種類がわかったという。信じがたい話だが、この明治の文豪の博学を伝える逸話は他にも数多い。そんな人を父親に持つと、息子は反発するだろう。だが、露伴の息子・成豊(しげとよ)は若くして亡くなった。 

 一人残された娘・文(あや)は、露伴から家事や日常のしつけを徹底的に教わった。なぜなら、お前は学問向きではない、芸術家向きでもない、だから家事を覚えろ、ということだ。その日々の中で文さんは思った。自分には五官しかない。知識でも技術でもない、自分自身の感覚を働かせて物を見、聞き、感じることが、自分にできる精いっぱいのことなのだと。

秋咲スノーフレーク

  • 王国の今

 文さんが文章を書き始めたのは、文化勲章も受章した父・露伴が終戦後に80歳で亡くなった後のことだ。高名な父の終焉の模様を、文さんは自分の感性で掴み取ったままに書いた。それがきっかけで、執筆の依頼が増えた。それら初期の作品を今読み返してみると、ちょっとごちゃごちゃしていて読みづらいところもあるが、視点は定まっていて、地に足がついている。商人の家に嫁ぎ、やがて一人娘を連れて実家に戻ってきていた文さんは、当時40歳を過ぎたころだった。

樹肌

  • 木に蔦

 作家として名を馳せると、文さんは「思い出屋」と呼ばれるようになった、という。確かに文さんの随筆を読むと、過去の経験や、昔の思い出から材をとったものが多いことに気づく。「思い出屋」には揶揄の意味合いも混じっていたことだろう。でも文さんは、そんなこと別に何とも思っていなかった筈だ。どんな記憶を持ち、そこから何を感じ取ったか、ということは、自分の感性の問題だ。だから自分自身との闘いだったかもしれない。思い出の中には、昔の自分もいる。それと今の自分を比べて、何と変わっていないことか、と嘆息する文さんもいれば、いや、まだまだ何とかできる、と踏ん張っている文さんもいる。

 本を読んで得た生半可な知識とは違う、文さんの感性。それは明らかに一つの知性だ。この人の数多い作品のなかでも、日本各地の崩落地を訪ねて歩いた『崩れ』は、他の作家には書けなかった、まさにこの人ならではの傑作だと思う。山や崖の崩れの情景にそこはかとない哀愁を感じた文さんは、70歳を過ぎた身でそれらを旅して回ったのだった。自分の足で行けないところは、作業員に背負われてまでも、どうしても行かずにはいられなかったようだ。

  じかに見、感じて記憶の中に堆積していく「崩れ」の山を、そこから伝わってくるかなしさを、文さんは一冊の本にまとめたのだった。実は幸田文が生前最後に本を出したのは亡くなる17年前のことであり、没後残された原稿が次々と出版されて、世人を驚かせたのだ。幸田文は、作家としてはずっと休火山状態だと思われていたのである。

メタセコイア

メタセコイア

  • 虎視眈々

 ひとは何のかんのと偉そうなことを言っていても、足元に動かない地面があってこそのこと。私はこの一文が忘れられない。崩れが文さんに伝えた、叡智の言葉であり、何と恐ろしいことを言う人だろうと思ったものだ。

 そう言えば幸田文さんの誕生日は1904年9月1日である。彼女が数え年20歳になったその日、関東大震災が起きた。自然や人間の世界が崩れていく光景が文さんの仲で蓄積し、いつか一冊の本を書かせることとなったのだろうか。感性というのは不思議なものである。

HA・NA・BI(8月29日)

 花火は天に咲いた花。それで花火と呼ばれだしたのかどうか知らないが、真夏の夜空に一瞬開いてすぐ消えてしまう広大な火の輪は、花の様に鮮やかで、にぎやかで、時に寂しい。私は狐の尾のような流線が空を駆け、目一杯に開くまでの瞬間が好きだ。そして開ききってのち、柔らかに消滅していくわずかな時間が好きだ。打ち上げ花火の誕生と終焉を見届けるのは面白い。赤や緑や黄金色が視界の限り撒かれるが、それ以上広がることを諦めたかのようにすぐ全ての色が消滅して、最後に余韻のような金色が微かに白い煙を引きながら降下していくのがわかる。しかし金色も瞬きする間もなく闇に呑まれ、こうして一発の花火は終わるのだ。

 私はあのやや渋みを帯びた最後の金色が、老兵の表情のような疲弊した色に見えることがある。老兵は死なず、ただ消え行くのみ、ダグラス・マッカーサーはそんなことを言ったが、花火の末期の光も、ただ消え行くのみである。

 花火ではない開いた花は、その姿のまま長い期間を過ごす。勿論大抵の花は朝開き夜閉じる。花火のように一瞬で消えない分つまらない感じもするが、咲いている間はじっくり眺められるから悪くはない気もする。まあ、こんなこと誰も考えはしないだろう。しかしもし、早回しの映画を見るように、目の前の庭に植えられた花々が目まぐるしく蕾をつけ開きそして閉じを繰り返し、回数を追うごとにその花々が次第に膨張し空を覆うほどになったとしたら、これもまた途方もない花火に見えるかもしれない。

フローラガーデン

秋海棠

季節の花:秋海棠(シュウカイドウ)

中国から伝わってきた花であり、「海棠」とは高貴な人・美人を意味する言葉です。同じ名前を持つ花に似ており、秋に近く花をつけることからこう呼ばれるようになったとか。

レンゲショウマ

季節の花:レンゲショウマ

どちらも山野草ガーデンで見ることができます。ひっそり咲くのが好きな花なので、注意して見つけてあげてください。

サンクンガーデン

 夜、時おり空を見ると遠くで雷光が音もなくきらめいているのを目にすることがある。遠くの雷だから遠雷と言うのだろうが、これは音も聞こえる場合に言う言葉らしいので、私は雷華、とか静雷華と一人で名づけて楽しんでいる。何の前ぶれもなく雲の中から慌しく光が溢れると、その周囲に潜んでいる雲が明々と照らし出される。そこだけ夜が破られ、昼間見た雲が姿を見せるのだ。雲は平然としてそこにいるが、見る私は、君まだそこにいたのかと本当に昼間から時間が経過したのかそれともまだ止まったままであるのに自分が気づいていないだけなのか、狐につままれたような気分になる。

 あの現象がどういう名であるのか知らないが、空を見上げて感嘆するという点では花火のようなものではないか。(しかし私の周囲に感嘆している人はあまりいない。)花火は人工的な現象でありあの雷は自然現象だが、どちらも私の目を楽しませてくれる。あの雷に名前をつけるなら「花」より「華」の方が相応しい。「華」の字は「花」よりもどこか凛とした感じがする。容赦ない、酷薄な感じもする。沈黙したまま光を放つ「雷華」。「静」の字もつけて「静雷華」だ。

 

夏は地にも空にも、さまざまな花が咲く。

ネコノヒゲ

ピンピンと突き立った花弁?が何かに似ていませんか。これは「ネコノヒゲ」という花です。

そう言われるとまだ蕾の段階の緑色の部分が猫の鼻のように見えてくるのは私だけでしょうか。

蓮

メタモルフォーシス:変身譚(8月21日)

  ふと目が覚めた。木陰に生い茂った芝生の上で寝転んでいた。夏の暑さのやや和らいだ一日、気がついたら何時間も経っていたようだ。

 体を起こして自分の手を見る。人間の手だ。背中を払う。刈ったばかりの細かい草に触れる。立ち上がり、もう一度しゃがみこむと、目の前に咲いている花に顔を近づけて、においを嗅いだ。

 人間は自分より丈の高い花や木でない限り、大概の植物を見下ろしている。それを特に何とも思わない。

 

花と蝶

青い花

眠る石像

 私は高い木にとまる鳥になっていた。遠くまで緑が広がっている。鳥の目は一枚一枚の葉を見分け、そこにいる他の鳥や葉を食べる虫までをつぶさに認める。空腹のとき、私は空を切って飛び立ち、虫を捕らえるのだ。でも今は、そんな気分ではない。私はこの広い空間を眺めている。木々の切れ目に色とりどりの花を植えた敷地が点在し、鳥の目にも美しい。その周りで作業をしている人もいる。いつも、同じ人だ。よほど花が好きな人なのだろう。

 

鳥の羽

  • 小径と椅子

大きな葉の上でまた目が覚めた。細い溝がいくつも刻まれた緑色の葉。私は鳥になって浮遊していたはずが今度は小さな小さな虫になっていた。

 真ん中の深い溝を滑って柔らかな地面に落ちた私の前には、大きな木。と見えたのは何かの植物の茎だろうか。太くて空まで続いている永遠のようだ。

 私は小さな体も顧みずに上ろうとした。ごつごつして、毛のようなものまで生えている。少し上ってはまた地面に落ち、また上っては落ちた。それでも頂上には黄色い太陽のような花が咲いている。私はどうしても太陽に近づきたかったのだ。

向日葵
ローズガーデン

 ベンチに座っていた。目が覚めた私は人間に返っていた。「随分いろいろな夢を見ていたようだね。」隣にいたあの人が言った。両腕を頭の上まで伸ばして、私は大きく息を吐いた。「うん。」目の前に四角い池がある。大きな蕾をつけた一つの蓮に目を落とした。

夏の花(8月11日)

 昭和20年8月15日は、前の年に亡くなった彼の妻の新盆にあたっていた。その11日前の昼下がり、彼は一輪の花を手にして妻の墓所へ向かっていた。もういつ広島の街も戦火に焼かれるかわからない。そう思いながら彼は花に目を落とした。それは何という名前なのかわからなかったが、黄色く可憐で野趣を帯びた、いかにも夏の花らしい花だった。その2日後、広島は壊滅のときを迎えた。

 原民喜『夏の花』の冒頭である。広島市への原子爆弾投下後の惨状を冷静かつ克明に書きとめたこの作品を、毎年夏になるとめくる人も多いだろう。人間が作り出した一つの兵器が、如何に数知れない人々の生を変えてしまったかが、そこから痛いほど伝わってくる。

 ところで、原が妻の墓前に手向けた花は、一体何だったのだろう。実物を見た彼自身が、名前はわからないと言っているから、私達にもわからない。ただ、黄色くて夏らしい趣というと、私にはすぐヒマワリが思い浮かぶ。実際ある人が調べたところによると、ヒマワリの仲間の品種なのではないかということだ。

夏の花

  原民喜は、天性の詩人だった。それは、この過酷な現実社会では無力でしかありえない人間だったということだ。原はいつも無口で動作もぎこちなく、いじめにあった経験もある。しかし少数の人たちには、一度会ったら放っておけない感じを抱かせる人であった。6歳年下の妻・貞恵との出会いは原にとっては天恵といってよかった。貞恵は原の才能を信じ、その執筆を懸命に支えた。幼い頃から死に怯え、周囲に壁を作って生きてきた原にとって、日溜まりの中で伸び伸びと過ごせた妻との時間であった。その生活は貞恵の発病と死によって、10年余りで終わりを告げた。

  『夏の花』を読むたび思うのは、日常の雑務を一人でこなせないほど繊弱な神経の持ち主だった原が、なぜここまで、あの阿鼻叫喚の有様を精細かつ的確に描写できたのかということだ。繊細な人であれば、むしろ目を背けたくなる光景ではなかったか。

  しかし、原はあの日、炎と廃墟の中でそれを直視し、心に決したのだった。自分は、このことを書き残さなければならない、と。弱弱しく消極的に生きざるを得なかった原民喜が、新たな生を得た瞬間だったと言えよう。彼の中に宿っていた強靭な神経が、立ち上がったのだった。

  被爆しなければまだ生きていたはずの人々の魂が、その無言の叫びが、原の書く原動力となった。無数の悲惨な死の向こうには、暖かく見守る貞恵の姿も見えていたことだろう。戦後の混乱した生活に揺さぶられながらも、原は自分たちが経験した事実を未来へつなぐため、永久の平和を祈りながら、残された時間を机に向かった。全てを書き終えたと判断した彼は、大切な人々へ最後の手紙を残し、自宅付近の鉄路に向かった。終戦から6年後、桜の花の開くのを待たず、原は妻の元へ旅立った。

ポーチュラカ

 フランス留学中の遠藤周作は、原の死から13日後、海の向こうから届いた遺書を受け取った。原と遠藤は20歳程の年の開きがありながら、稀有な友情で結ばれていたのだった。遠藤は、友の死を静かに受け取った。その日の日記に、私は生きていく、と遠藤は書いた。

 

ヤブミョウガ

 広島と長崎を襲った原子爆弾は、二度とその地に植物を生えさせないと思われていた。ところが投下から一月も経たない内、被爆者の多くは、焼け爛れた土から青葉が芽吹いているのを認めたらしい。自然は人間がどれだけ愚かなことをしても、黙って乗り越えていってしまうのだろうか。今年も二つの記念日が過ぎていった。これからも広島と長崎の地には新たな草木、そして花が生まれ、咲き続いていくことだろう。そして原民喜が晩年の力を振り絞って残した散文の輝きも、ひとが自らの愚かさを忘れないでいる限り、褪せることはない。

道・七月の蝶(7月31日)

 ここは、様々な人が様々な思いを抱いて通り過ぎていく道。道は世界中いたるところにあれども、ある日ある人がある思いを胸にして通過していく道は、そこひとつしかない。夏の昼下がり、ベンチは座る人を待ちながら、ここを通っていった人の姿を思い出す。このベンチはここに置かれてまだ間もないけれど、そしてこれからも置かれ続けるのだろうけれど、いつか朽ち果てるまでに、ベンチは色々な人が色々な思いに揺られながら生きていくことを知るだろう。

 「俺は兄貴の年を越した。兄貴の生きた年月より生きた。」そんなことを思いながら通り過ぎていった人がいた。それは安堵感だろうか。これからも生き続けようという決意だろうか。或いはもっと黒い感情だろうか。

 「あと3ヶ月で孫が生れる。自分は祖母になる。自分が生むのではないけれど、まさかこの年でおばあちゃんになっちゃうなんて。」そう思いながら通り過ぎる人がいた。普段その人が内省的になることはあまりないのだけれど、一人になると、やっぱり考える。「無事に産まれますように。」

 道の途中で、青く広がる空を見上げた。

道

  小柄な老人は、空を見上げていた。自分の庭の真ん中で。隣家の少女は、毎日家に閉じこもっている老人が庭に出ているときは、いつも空を見ていることに気づく。そのうち、父が隣家のあの老人はホトトギス派の有名な俳人なのだと夕食の席で話題にした。少女は読書が好きだったが、俳句にはあまり興味はなかった。ハイジンという職業もなんだか掴みどころがなくて、そのうち忘れてしまった。

  大人になった少女、須賀敦子は、書店で「原石鼎」と書かれた本を見つける。ハラセキテイ、ああ、昔住んでいた家の隣にいたおじいさんだ。敦子は懐かしさもあって、本に引き込まれていった。(須賀敦子『遠い朝の本たち』より)

 

  道を歩いていった人の姿はいつか見えなくなる。人は意識しなくても日々たくさんの道を歩いている。でも、姿は消えてしまっても、その人の欠片は空気のように道に漂い、道の記憶としてゆっくり沈殿していくようにも感じられる。

  一羽の蝶が、ひらひらと道を通っていった。緑に囲まれた道を、白い点が一つ過ぎてゆく。誰もいないときに、誰にも知られずに。やがて蝶は見えなくなった。

道

 夕月に七月の蝶のぼりけり     原石鼎

 

 暑かった七月も、終わる。

蝉時雨(7月26日)

 茂った木々のあちこちで蝉が鳴き始めた。木にはりついているときはどこにいるのかよくわからないが、不意にジジと言って飛び立ったり、地面に転がって骸を晒していると、この近くに蝉がいたのだということに気づく。

 「閑さ(しずかさ)や岩にしみいる蝉の声」芭蕉のこの句に登場する蝉はアブラゼミかニイニイゼミかでかつて論争があった。前者を主張したのは斎藤茂吉。後者は小宮豊隆。結果は芭蕉が句を読んだ7月、アブラゼミが山形で鳴いていたはずがないことから、ニイニイゼミに軍配が上がった。アブラゼミの鳴き声では「岩にしみいる」に相応しくないとも小宮は述べたとか。それは一理あるだろう。自分の主張の正しさを確信していた茂吉も、あとでニイニイゼミが正しいと認めたそうだ。

蝉時雨

 今を盛りと鳴きしきる蝉は、一本の木にどれくらいいるのだろうか。色が樹肌に同化していてよくわからないが、もしあの色がとてつもなく突飛な色で、離れた場所からもよくわかるのだとしたら、それはそれで嫌なものかもしれない。

 蝉をタイトルに持つ本といえば、やっぱり藤沢周平の『蝉しぐれ』だろう。夏休み、毎日一章ずつ涼しい室内で読みふけったのを覚えている。しかし内容は全て忘れた。ただ一つ覚えているのは秋山駿氏による解説の一部分だ。フランスの批評家アルチュール・ティボーデが、大人になるにつれて読書に対する情熱は散漫になるものだが、時おり寝るのも忘れて一心に読み通してしまう本があると言っている。まるで少年の日に戻ったかのように。自分にとって『蝉しぐれ』はまさにそういう一冊だった、そう秋山氏は書いていた。

蝉時雨

蝉時雨

  蝉の鳴き声は人を遠いところへ連れて行くような気がする。過ぎていった記憶、忘れてしまった思い出、木の下に立って、蝉時雨に体内を充たされているうちに、今いる時空から別の場所へ、飛び去っていくような、そんな気分になる。私はお寺でお経を聞いていると、なにやら異次元へ連行されそうな思いがして寒気を覚えるのだが、蝉時雨にもそれと似たようなところがあるように思える。最も蝉が羽をすり合わせるあの音は、経文どころか求愛の合図なのだが。

  立石寺で芭蕉の聞いた蝉の声は、岩にしみたばかりではない。芭蕉の心にもしみたのだ。だから永遠の名句が生れた。蝉は七日で地上の生を終える。私はこの夏、どれだけの蝉の命を聞くだろう。蝉時雨は、ひとの心を通り、季節の中心を通り、やがて秋の幕開けを告げる。それが絶えた頃、私はこの地上に生きている歳月が、またひとつ増えていることに気づく。

蝉時雨

目をとじて(7月16日)

 フランスの芸術家ソフィ・カルの「盲人」という作品が、ふと意識に浮かぶことがある。それは三枚のさほど大きくないパネルで構成される作品で、少なくとも私には、忘れがたい印象を残したものだ。左斜め上に生まれつき視力のない男性の顔写真があり、隣にはその男性が一番美しいと感じるものの定義を記した文章が、そして下段には、それを写した写真が置かれている。

 この男性にとって最も美しいものは、碧く果てしなく広がる海。それを受けて、写真には上方から光の差し込む穏やかな海面が写されている。

 特にどうということのない海の写真が、一度も見たことのない人にとっての一番美しいものである、そう思うと、それはとても尊いものに感じられてくるものだ。しかし、男性がこの写真を見ることは決してない、なのに作品の前に立つ人は、なんら苦労せず見ることができる。それが、残酷なことのようで、あるいはかなしいことのようで、私は次第に心に錐を沈められたような気持になっていく。

 しかし、男性の心の中には、現実の海よりもっと美しく豊かな海が広がっているのかもしれない。見えるものには見ることのできない、見えないものにしか見ることのできない、たった一つの海。

ニコチアナ・シルベストリス

 視力をなくした人の感覚の鋭さ、そういうことを考えるにつけ私は、新垣勉氏の姿を思い出す。

 その頃私の通っていた学校には礼拝の時間があり、ある時牧師の肩書きも持つ沖縄出身のこのテノール歌手が、説教と歌唱のため来訪したのだ。

 いずれの内容も忘れたが、ただ一つだけ強く記憶に残ったことがある。壇上に新垣氏が立つと、なぜか傍らに控えていた職員が、氏の目の前に置かれたマイクを、やや横にずらした。話しやすいようにするためだったのか。直前になって、余計なことをするものだ。氏は訂正されたマイクの位置に気づくだろうか、と思っていると、彼はごく自然に置き直された位置のマイクに首を傾け、話し始めたのである。なんと言うことのない一瞬の出来事だったが、私は、この人は余程感覚の鋭い人なのだと密かに感嘆したものだ。

  氏の重厚な歌声の定評は言うまでもないが、音楽的な側面以外での感覚の鋭さも、あの歌唱力を支えているのではないか。

 

アロックス・パニキュラータ

  五感が全て揃っている人間が、自分のそれが十全に機能していると自覚する機会はあまりないものだ。自分は今匂いを嗅いでいる。ものを見ている。形あるものに触っている。そんなことをいちいち意識しながら日常生活を送っている人はあまりいないだろう。

  自然の中に身を置くことは、眠っている感覚を生かすことへつながる。目をつむり、鳥の歌声や風が木々や葉を撫でる音を聴く。花弁の感触を確かめ、その甘い香りに陶酔する。ここ緑の王国では、そんなひと時を過ごすことができる。

シダレカツラ

今日掲載した写真は、上から

「ニコチアナ・シルベストリス」(フローラガーデン)

「アロックス・パニキュラータ」(花仲間ガーデン)

「シダレカツラ」(写真上方から垂れ下がっている葉・ヒーリングガーデン)

です。括弧内のガーデンで見ることのできる花・植物たちです。

ラクウショウ

大きな木が作る木陰に逃げ込みたくなるような猛暑が続きます。熱中症にはご注意ください。

サステナブルガーデン

サステナブルガーデンも夏の装い。涼やかな花々に一瞬暑さを忘れます。手前の本の中には多肉植物が丁寧に寄せ植えされています。一見の価値ありですよ!

槿と人と(7月5日)

 槿(むくげ)は韓国の国花だという。ヒーリングガーデンで、哀れなほどに短く刈りこまれたその木を見つけたのは四月頃のことだったか。あ、こんなところに槿が、と初めて気づいて意外に思った。槿という名前を持った人がいることを思い出した。

 私はその人の人生を知れば知るほど言葉をなくす。一体こういう人生があっていいものだろうか。それは人智を超えた計り知れないものに操られていたような一生とは言えないか。

槿

 その人の悲劇は生れた環境そのものからきざしたように思える。彼女が9歳の時、彼女の父はその国で起きた政変の立役者となり、国家の舵取り役となった。彼女は幼くして、最高権力者の子息として緊張感ある日々の中に身を置くこととなる。その状態は以後18年間続く。その間、彼女は母を凶弾によって失った。22歳の時だった。それから5年後、彼女の父は酒宴の席で、部下の放った銃弾によって、やはり命を失った。それは彼女にとって、物心ついた時から連綿と続いた当たり前の日々の終わりをも意味した。父の後継者が国家の実権を握れば、彼女は所詮ただの人である。父の全盛期に側にいた人間は、ことごとく去った。このような環境に育った女性には珍しいことではないが、結婚して家族を持つという選択肢は、彼女には現実的なものではなかった筈だ。兄弟はいたが、兄は薬物中毒で、妹とは疎遠だった。自分がどうしようもなく一人であることに、宿命のようなものすら感じていたのではないか。

 

 たとえそうとわかっていても、なお誰かを求めずにはいられないのが人間というものである。どんなに冷然とした印象を持たれがちな人にもそういう側面はあるもので、そうと知ればひとはその人に、人間通有の親しみとかなしみを感じるのである。彼女は一人の宗教家とその娘を信じた。その出会いが、結果的には彼女の人生最大の悲劇の引き金となったようだ。

槿

 父の死から34年目、彼女はかつての父と同じ地位に就いた。親子二代で、また女性としても初めてのことであった。ただ父とは違って、彼女は国民の選択によって昇り詰めたのであった。やがて時は過ぎ、彼女が信じた唯一の人間が、公職者でもないのに国政に荷担していたのではないかという事実が明らかになった。その後の経緯は、まだひとの記憶に新しいことだろう。かつて彼女を最高の地位に押し上げた大衆の歓声は、今や底知れない怒号と憎悪に変わった。 彼女は国会によってその地位を停止され、やがて裁判所の決定によって失った。皮肉なことに、これもまた初めてのことであった。彼女は塀の中の住人となり、今も、そしてこれからも自由とは程遠い日々が続くのだろう。

 「槿の恵み」と名づけられたその人は、今年の槿の花をみたことだろうか。誰か彼女の殺風景な独房の中に、あの柔らかな花を届けたひとはいただろうか。

 海の向こう側、日本の片隅にある槿は、次々柔和な花を咲かせている。だがその一輪に誰がどんな思いを託そうと、花は何も知らずに咲いているのである。

王国風景

 外に出やすい季節を通り越して、暑くてたまらない夏になりそうです。緑の王国は気軽にくつろげる場所があちこちにあるので、暑さをいとわず是非足を運んでみてください。

雨の日に(6月25日)

   しとしとと降り続く雨に空が煙り、大気も地面も暗く沈んだ色調に閉じ込められる季節。水無月。

 天空からやって来た無数の垂直の雫は傘に落ち、或いは地面に打ち付けられてその垂直を崩し、平面体に変わる。この時初めて「雨粒」になるのだ。

 晴れた日には、太陽が世界を祝福しているように感じられるが、無関心な表情で曇天を過ぎ去っていく白けた雲に嘆息をつく雨の一日は、また道を行くひとの靴音と心も、地の下へ潜っていってしまいそうな予感に襲われる。

 

 しかし雨がなければ、私たちは地上に出現しなかった。地球が誕生すると直ちに途方もない量の雨が降り注ぎ、その七割を占める海が出来た。そして生命が誕生したのだ。

 そこまで考えを遡行すると、雨を恨むこともできなくはなる。

 

 いつの間にか姿を現しまたいつの間にか姿を消していく蜘蛛の巣。この時期、王国の中を歩くとき、木の密集した場所を通り抜けるのはやめた方がいい。大きさも太さも様々な蜘蛛が家を作っている。そしてそこを何も知らずにそこを歩く人間は、蜘蛛の家庭を破壊したお返しに粘着糸に顔面を覆われる。誰も身に覚えはあるだろうが、こんな不快な経験はない。

 

 しかし雨の日の蜘蛛の巣はいいものだ。ほら、この通り。

蜘蛛の巣

 静かに巣の主が紡いだひとわたり毎の糸に雨滴が宿り、見慣れた虚空に突如繊毛細工が出現する。

 あちこちの草花の中にも蜘蛛は居を定める。これはアジサイの葉。左右の葉に橋を架けるようにして、せっせとその仕事にとりかかる。ここにも真珠の如き雨粒が誰も知らないうちに舞い降りる。侵入者を怪しく思った蜘蛛は、何事だろうとそこら中を歩き回るのだろうか。いや、その神秘の光景を見ることなく、葉の陰で青空を夢見ていることであろう。

アジサイ葉に蜘蛛の巣

 これはクローバー。通路に生えているから普段は足に踏まれるにまかされて気に留めるものもない。

 だが雨の日に目を近づけてみると、どうだろう。ふんわりと開いた三つ葉(時おり四つ葉!)に空の色を反映したメダルのような色をした雨の子がここにもそこにも。それは、やがて自らの重さでつるんと滑って地に還る。たまたま近くで雨宿りをしていたテントウムシが、その音に眠りを破られる。

クローバーと雨滴

ラクウショウの門の向こうには、異世界が広がっているような気がする。誰も見たことのない、雨の魔法が開く世界が。

ラクウショウ梅雨

白百合への挽歌(6月18日)

 梅雨の晴れ間、というのだろうか。日夜降りしきる雨に、普段からあまりいいとは言えなかった体調が、また下降していた。それに連れて気分も下り坂。ようやく、幾日振りかで眺めた青空は、久しぶりに顔を見る知友のようで、懐かしく、嬉しかった。

 

 緑の王国、といういい名前のところへ来た。娘に連れられて。最近のわたしの気分の沈みようを見て、気遣ってくれたのだろう。

 こんなに空が広いことを、しばらく忘れていた気がする。無辺の青空へ向かって、真っ直ぐと何本もの木々が伸びる。青々とした葉が鈴なりのようだ。葉が鈴なりと言うのはおかしいかもしれないけれど、そう感じた。

 

テッポウユリ

 もう孫がいる年になると言うのに、どうしてわたしはこう迷い続けているのだろう。我ながら呆れることがある。日常の小さなこと、人とのあたり方、そして健康のことも。母の年を、わたしは既に越している。あの気丈な母だったら、今のわたしの年齢で、わたしが向き合っている様々なことどもを、どうやりすごしていくだろう。

 ひとりになると、そんなことを考え、ふと鏡にうつる、年々そこだけは母に似てきたと誰からも言われる自分の顔につぶやく。ねえ、お母さん、あなたはこんな時だったら、どうする。気づいて、笑う。あすこに写っているのはわたしだ。母ではない。それでも、つぶやきたくなるのだ。そんな時間が、すこしずつ増えている。亡き後もそうして慕うことが、ひとつの親孝行なのではないか、と、勝手なことを考えたりもする。

オリエンタル百合

 ああ、お母さん、百合の花だよ。はしゃいだ娘の声に、ふと彼女の指の先を見ると、白い百合の花が咲いている。あの高い木々に勝てはしないけれど、これも空へ届けとばかりに生きている。そう言えば、おばあちゃんは百合が好きだったよね。百合は意思が強くて、はっきりと物を言う、私みたいな人間に見える、なんて言っていたっけ。そう、母はそんなことを言っていた。だからわたしは、自分の性格とは反対の母を、百合に感じて、ずっとこの花を敬遠していたのだ。

  • テッポウユリ黄色

 娘は、そんなわたしの気持も知らずに、今度は別の色の百合に見とれている。あの子の性格は、母に近いのだ。そんなことをぐじぐじ思っている自分に嫌気が差して、頭から振り払いながら、わたしはそっと百合の花びらに手を伸ばした。そのしっとりとした触り心地が、ふと最後に握った母の掌の感触に似ている気がして、わたしははっとした。

 「あなたなら、大丈夫よ。」わたしの耳に、そんな母の声が聞こえた。わたしは百合に向かって小さく頷くと、その凜とした佇まいをしっかり目に焼き付けようと、少し下がった。しばらく花を眺めてから、わたしは自分を呼ぶ娘のほうへ、一歩踏み出した。

 

(Inspired by「紅梅や母より老いて母恋し」 国松恵子 第九回梅まつり俳句吟行会特選作)

アジサイ白

アジサイ園の白いアジサイが梅雨空へ呼びかけるかのように開いています。

あじさい日記(6月11日)

 今日は緑の王国へ来た。初めて来たのかもしれないけれど、もしかしたら前にも来たことがあったかもしれない。父と一緒に来た。なぜ二人で来たのかはわからない。

 正門の掲示板には「スズメバチに注意」と書かれている。そんな凶暴なものが飛んでいるなんて、怖い場所だ。でもこちらから刺激しなければ、多分大丈夫だろう。けやきなのだろうか。天に向かって伸びる木が何本も並んでいる。なんて自分は小さいんだろうと思う。

 道に沿ってまっすぐ歩くと、左手に池が見える。池の向こう側にアジサイが咲いている。青いアジサイ。そこに何も言わずに息を潜めている生き物みたいだ。

 一つのアジサイの塊がみんな青い。そう言えば、いつだったか卒業式でみたような、送られる人達が胸に薔薇みたいな大きな花をつけていた。あれは本物ではなく、作り物の造花なのだと、後で誰かに教えてもらったけど、あのアジサイをとって、そのまま胸につけてあげたら、すごく見栄えがするんじゃないだろうか。

 アジサイのブローチだ。

 

あじさい

  • あじさい

 あちこち歩き回ったけれど、あのアジサイが一番僕の印象に残った。誰かが自分の中に落し物をしていった、それがあのアジサイのブローチだった、そう気づいたかのように。

 

 父はまだ口をきかない。

 

あじさい
あじさい

 再び池の前に戻ってくると、アジサイは変わらず対岸で咲いている。

 アジサイの花が目になっている、とふと僕は思った。ぎゅっと詰まった無数の目が、じっとこちらを見ている。目・目・目・目・目。

 ふとさっきまで握っていたはずの父の手の感触が消えたことに気づいた。左手に視線を落とすと、僕は一本のアジサイを手にしていた。

 四十五個の目が、僕を見ていた。

  • あじさい

一期一会(5月29日)

 八代目市川団蔵は、2歳で舞台に上がり、以後82年間を歌舞伎役者として生きました。1966年の初夏、引退興行を終えた団蔵は、一人、かねてからの念願であった四国巡礼を終えると、帰りの船から瀬戸内海に身を投じ、果てました。84歳という老齢ながら、自らの身を潔く決した行動は、当時大きな反響を呼びました。

 

 彼は歌舞伎役者としては不思議なくらい地味な存在でした。「華がない」というのが、団蔵に対する定評でした。従って大きな人気を博した役者でもありません。それでもその存在感に惹かれる人がいなかったわけではないのです。

緑の王国

 自分も作家として華がないと言われつづけて来た。到底書くことで生活してはいけまいと言われながら生きてきた。そういう私は、団蔵に対して同病相憐れむといった感情を持っていた。作家網野菊はそう書いています。性別や職業は違えども、同じ性質、というか気質を持っている役者に、ひとかたならぬ親愛と共感の心を持って、網野は団蔵の舞台を見てきたのです。

 確かに網野菊の作品は、華やかさとかきらびやかさといった言葉とはかけ離れています。自分の感情をあからさまにすることは稀で、いつも控えめで抑制的、しかし太い芯の通った、譲らないものを持っている作品です。

 

 団蔵の死に動かされて、網野菊は「一期一会」という文章を書きますが、彼女は一人暮らしの気安さで、部屋の中で声を上げて泣いたと描くのです。団蔵の死に方は自分でこうと選んだものだ、長い間のつとめを終え、後継ぎにも恵まれている。それでも…と。彼女には珍しく、自分の激しい心の動きをさりげなくですが、ありのまま書いています。

緑の王国

(カルミアの花)

緑の王国

 この文章がひとの心をうつのは、複雑な家庭に育ちながら、めげることなく剄く生きてきた網野菊の老境の寂しさが、団蔵の死をめぐるやや事務的な記述の中にもしんしんと滲み渡っているからです。「一期一会」とは、団蔵がある演目で扮した老僧が菅笠に書いて舞台から立ち去る、その言葉なのですが、網野菊と団蔵も、また「一期一会」であった筈。それは、日々様々な人間関係の中で生きる私達にも、無縁ではありえない言葉です。

 

 早稲田の演劇博物館で、亡くなった団蔵の遺品の展示を見終えた網野菊の目に、もう一度涙が溢れます。団蔵の肉体は二度と水上に上がらなかっただけに、かえって遺品に彼の存在感は刻み込まれているように感じられたかもしれません。直接の面識はないが、あたかも魂の分身のような存在であった団蔵への哀悼の思いは、深く、尽きません。そして読者の心は、残された網野菊の背に向けられるのです。

睡蓮考(5月23日)

 ある種のひとにとっては、睡蓮といえばすぐクロード・モネの名が浮かぶでしょう。ルーアン大聖堂や積み藁と並んで、この印象派の画家が繰り返し描いた花です。有名なものでは、上野の国立西洋美術館に常設展示されている76歳の時に制作された大きな一枚が思い出されます。彼は自宅の広大な敷地に池を作り、日本風の太鼓橋を架け、水面に睡蓮を浮かべたのです。

 晩年に近づくにつれ、モネの描く睡蓮池は青みを増しているように見えてきます。それには大きな理由があって、モネの白内障の進行によるものだったのです。「チューブからひねりだす色がみな青に見える」と老いたモネは友人の手紙に書いているそうですが、それでも描き続けている彼の姿を想像すると、畏敬の念のようなものも感じられてきます。

睡蓮

  • 睡蓮

 亡くなる数年前の時期に手がけられた作品は、最早何が描かれているのか、一目見ただけではわかりません。画面全体が目を刺すような黄色や赤に覆われ、中央に辛うじて太鼓橋の輪郭が認められるに過ぎません。これは美術というものなのか、それを根底から問い直す程の力を持っている、とも言えましょうか。

 そこに描かれたのは、寧ろ画家の業だったかもしれません。

優雅な生活が最高の復讐である(5月16日)

Living well is the best revenge. これはスペインの諺です。いかにもスペイン人らしい言葉だと思います。私はスペインに行ったこともなければスペイン人の知り合いもいませんが、頷けます。堀田善衛によれば、スペインを明るい太陽の国とか、フラメンコやカルメンに見られるような情熱の国と見做すのは誤りで、実はあの国の人々はとてもどす黒いものを底に秘めているのだそうで、言うなれば赤と黒が入り混じった混沌が彼らの本質であるとか。(これは堀田の言葉ではなく、私自身のニュアンスです。)「優雅」というお陽さまさんさんの言葉と、「復讐」という夜闇の言葉が同居しているこの諺は、今言ったスペインらしさ、スペイン的というものをよく感じさせるひとつだと思えます。

 

この言葉をタイトルに持った一冊の本があります。そこに書かれているのは、まさに「優雅な生活が最高の復讐である」を地で行く人生を送ったある夫婦の物語。彼らの名は、ジェラルドとセーラのマーフィ夫妻です。

薔薇

スコット・フィッツジェラルドやヘミングウェイ、ピカソが彼らの友人でした。ジェラルドの父の財産で、二人は文字通り優雅な生活を送るのですが、ただ金持ちが湯水のように財を蕩尽するだけの生活ではない。それは本当の贅沢や人生の愉しみを熟知した、生きる達人の生活でした。

フィッツジェラルドとその妻のゼルダは、そんなマーフィ夫妻の生き方に及びもつかないものを感じていたらしい。フィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』などの作品で流行作家となり、収入にも恵まれますが、死んだ金の使い方しかできない人たちだったのです。

フィッツジェラルドは、表面的に優雅な生活はできても、それは彼ら自身への復讐だったのかもしれない。

 

薔薇

ジェラルド・マーフィはある時、スコット・フィッツジェラルドに言ったそうです。生きるうえでは様々なアクシデントが襲いかかる。自分達はそれを軽視するわけではない。ただ、それに囚われることばかりはしない。つまり何に重点を置いて生きるかという問題だ。自分が一番重視するのは、自分の人生の自分で作り上げた部分だけだ、と。

 

それが何に対する「復讐」になるのかはその人次第でしょう。アメリカ人のマーフィは禁酒法という滑稽な法律が成立した直後、保守的な流れを嫌ってヨーロッパへと旅立ちました。そんな彼にとっては、故国アメリカに対しての「復讐」だったかもしれない。ただ私は「自分の人生の中の自分で作り上げた部分だけだ、」という部分に反発を覚えました。

 

わざわざ自分で意識して「作り上げなければ」ならない優雅など、空疎で高が知れているのではないか。意識せずとも、自らの内面から発してくる空気のようなもの、それが優雅なものだと感じられるなら、それが一番いいのではないか。但しその境地へ達するまでには、幾夜もの絶望が聳えているかもしれないけれども。

 

華麗な薔薇の花に鋭い棘があるように、優雅な生活の裏面には、血のにじむような見返したいという気持がこもっているのかもしれません。

薔薇

アカシアは異国へと続く(5月6日)

 かつてそこは、帝政ロシアの租借地でした。租借地、なんて、今はあまり聞くことのない言葉です。平たく言えば、領土。ロシア人はそこに「ダーリニ」という名をつけました。これは、「果て」を意味するロシア語です。確かにロシア人からすれば、まるで最果てのように遠い遠い領土だったことでしょう。その後日露戦争で日本が勝利すると、この地の租借権は日本に移り、私達の祖先は、そこを「大連」と呼び始めました。

 大連は貿易港として大変栄え、日本からも多くの人々が渡りました。ある時、一人の二十代の青年が、家族の住む大連の地を踏みました。日本が決定的な敗北を喫することとなる戦争の始まる頃、しかし大連は、終始、緊迫感に満ちた場所ではなかったそうです。

 大連に愛着を覚え始めた青年は、此処で青春の鬱屈した一時期を送り、伴侶を見つけ、やがて帰国しました。のちに詩人として地位を確立しながらも、彼はプロ野球の得点計算員や大学教授として生活を続けました。やがて忘れえぬ大連の思い出を、あの地にいつも咲いていた樹木の名前を冠した作品にまとめました。彼、清岡卓行にとっての初めての小説「アカシヤの大連」は、1969年の芥川賞に輝きました。

アカシア

 天に向かってスッと背の伸びたアカシア。実は日本で普通「アカシア」と呼ばれているこの樹木は、「ニセアカシア」という名前なのです。

 どこかで誰かが勘違いしたのか、「偽」などと名づけられてなんだか気の毒な気もします。清岡卓行も「アカシヤの大連」の中でこのことにふれ、この「ニセアカシア」こそ、「ニセ」のつかない本当の「アカシア」に相応しいのだといっています。というのも、「ニセ」でない本来のアカシアは、背が低く、どこかねじけたような樹木で、爽やかさや生命力を感じさせはしないのだとか。大連の中央広場に並んだアカシアと、それが放つ甘い香りは、清岡にとってはいつまでも忘れがたいものだったようです。

 いたずらに背の伸びた中学生のようだ、と以前私は思ったことがありますが、今はその特徴ある細長い花を鈴なりに咲かせています。周囲には芳香が漂い、集まってくる虫の羽音も盛んに聞こえます。植物図鑑で調べると、普通「ニセ」アカシアの花は白いものが多いそうですが、緑の王国に咲く一本は、桃色に染まった房のほうが多いように見受けられます。樹高は22m。ラクウショウと共に、王国を見守っている守護神のようにも思えてきます。

 

 清岡が海の向こうで見たそれとは違えども、今目の前にあるアカシアが、遠い大連へと繋がっているようにも思えてきます。訪れたこともない、かの地への郷愁のようなものさえ感じさせます。それが文学の力というものなのでしょう。

アカシア

ナンジャモンジャ

珍しい花、「ナンジャモンジャ」が今咲いています。(ナンジャ?コンナ花カ?)

猩々

「猩々」という種類のモミジはすでに真っ赤に色づいています。周囲の緑葉とのコントラストが美しいです。

光影(4月20日)

 あなたの一番好きな日本語は何ですか? と聞かれたら、どう答えますか。 私は以前あるところで「ありがとう。」を挙げる人が多いと耳にしたことがあります。この回答にうなずく人は多いかもしれません。同じ問いを海外の人に聞いてみると、どのような答えが返ってくるでしょうか。これは集めることが簡単ではないクエスチョンでしょうが、私はいくつか聞いたことがあります。二通りの答えを本で読んだことがあり、奇しくもそれは同一の言葉でした。

 

 今年没後20年を迎える須賀敦子のエッセイの中で、彼女はアン・モロウ・リンドバーグが忘れがたい一言だ、と述べたことのあるひとつの日本語を紹介していました。

 

「さようなら。」

 

 大西洋無着陸横断飛行を遂げたチャールズ・リンドバーグの妻であるアンは、この言葉に衝撃を受けたといいます。「さようなら。」別れの言葉であるこの一言は、普段私達は何気なく使っているものですが、彼女には特別な響きを持って聞こえたらしい。

 この国の人たちは、別れに際して「あきらめ」の言葉を口にするのだ。さようなら。これを分解してみると、そうしなければならないのなら。こうなる。あなたと別れなければならないのなら、そうしなければならないのなら、「さようなら。」日本の人々はこの言葉を口にする。

 

 

 そう言えば彼女自身、まだ幼い息子と、悲劇的な「さようなら」をせざるを得なかった人でした。

チューリップ

 日本を愛し、日本人と結婚し、日本に骨をうずめた外国人作家、といえば、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを思いうかべる人が多いでしょうが、実はもう一人同じような人がいました。ポルトガルの海軍士官だった彼は、恐らくハーン以上に深い愛着と鋭い批評心を持って日本を見つめた人でした。徳島に住んだ彼の名はヴェンセスラオ・デ・モラエス。

 モラエスの残した文章は、日本に対する熱烈な愛情に満ちたものです。読んでいて歯痒くなるほどですが、この間読んでいて、おやと思わせるところがありました。

 

 その言葉は、優しい日本語の中でもとりわけ優しい響きを持っている。最初にその言葉を聞いた人は、恍惚となるだろう。しかし、いよいよ日本を去る間際にその言葉を聞くと、かなしい気分になるに違いない…

 

「さようなら。」

 

 モラエスはオヨネという日本人女性と結婚し、彼女が亡くなると、その姪のコハルと再婚しました。彼女が早世した後は一人で暮らしていました。1929年の夏の夜、モラエスは井戸の水を飲もうとして、縁側から転落しました。翌朝、冷たくなっていた彼を、近所の住人が発見しました。

 

 

 そう言えば、ありがとうは漢字で書くと「有難う」となります。有り難い、そんなことはなかなか起こり難い、そういうことに接したとき、私達はこの言葉を口にするのです。どうやらひとを魅了する日本語とは、一歩引いた、やや消極的な響きを持ったものが多いようです。

チューリップ

あの厳冬の時期には、本当に咲くのだろうかと思っていたチューリップが、今王国のあちこちで満開です。

花より団子(4月14日)

 八重の桜を見るたびに、ああ、うまそうな花だな、と思います。ふっくらして、はっきりと桃色に染まって、幾枚も重なった花びらは少し縮れていて、大きい。ソメイヨシノは対象的に、花は小さく期間も短いので、長く楽しめる八重の方が、どこか図太くて、儚さとは違うものを感じさせて、また面白いものです。

 花がうまそうだなんて言うと、花より団子、と言われそうです。でもそう感じるのだから仕方がない。そう言えば、作家の正宗白鳥に「花より団子」という随筆がありました。面白い文章です。

 

1879年生まれの正宗忠夫(白鳥の本名)少年は、まだ明治が始まって間もない頃、小学校に上がりました。

 その頃、今までやらされたことのなかった「作文」の授業があったそうです。ところが、忠夫少年は書くことが何もない。仕方がないので、そのまま白紙で出しました。

 すると先生、「なんで白紙で出したのか、何か書きなさい。」

     忠夫少年「何も書くことがありません。」

     先生「なんでもいいから書きなさい。今は花の盛りだ。花は桜木、人は武士という言     

        葉を君は聞かないか。」

     忠夫「聞きません。」

     先生「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散るという歌を君が知らないか。」

     忠夫「知りません。」

     先生「それじゃあ、花より団子だ。花見をして団子を食べたと書いたらいいではないか。」

  うん、それはそうだと思って、忠夫少年は「花より団子」で作文を書くことにしました。それで、自分の家の庭に咲いている立派な八重桜を見ているうちに、なんだか不思議な気持になりました。

 

八重桜

花はなぜこんなにきれいなのだろう。そんな当たり前と思われたことが、急に不思議に思われだした。そう思いながら桜を見ていると、桜の花が団子のように見えてきた。花の塊が串に刺されて立っているのが、満開の桜の姿か。

 

「団子が咲いた、咲いた」と作文に書いたそうです。この先生も面白い人だったようで、それにいい点をつけてくれたのだとか。

 

 作文でいい点をもらい、家に帰った忠夫少年は、またきれいだなあと思いながら満開の八重桜を見ていました。すると今度は、あの桜を食べてみたいと思い始めた。「味はどうあれ、美しいものを口に入れてみたいという気持ちになった」そういう意味の言葉で振り返っています。

そして、木にするすると登り、花をもぎとると、そのままむしゃむしゃと食べたのだそうです。

美味しかったのか、まずかったのか、そこのところは言及していませんが、美しいと感じたものを自分の体の中に収めたことが、当時6歳か7歳の彼にとっては余程忘れがたい出来事となったのでしょう。白鳥がこの文章を書いたのは、78歳の時だったのですから。

 正宗白鳥は、澄んだ心と水晶のような透き通った魂を持った、一羽のスワン(白鳥)のような人でした。

 

 桜にも様々な種類があります。早い時期に咲く寒桜、春の真ん中に咲くソメイヨシノ、そして八重桜は咲くと、もう桜の時期も終わりかと思わさせられるものです。

 でもこれからの時期こそが、花の競演の始まりだとも言えそうです。

八重桜

沈黙の意味(4月11日)

 関西へ向かう食堂車の中で、その人は遅めの夕食をとっていました。

 四人掛けのテーブルに一人で座り、車窓を流れる見慣れぬ景色に時折目を走らせながらフォークを動かしていると、空いていた向かいの席に一組の老夫婦が近づいてきました。

身ぎれいで品の良さを漂わせている二人ですが、ひとつ、異様な点がありました。

 

 妻が、大きな人形を抱えているのです。しかも、かなり汚れている。席に着いた二人は、静かに食事を始めました。妻の方は、必ず人形の口元へスプーンを運んでから自分自身が食べる。

「二人分」の食事は、なかなか進みません。

向かい合ってこの光景を見ていたその人は、気づきました。人形は、老夫婦の息子だ。戦争で亡くしたのだろうか。その衝撃で、妻は精神の平衡を失い、夫が人形をあてがったのか。

しかし、ここまで平然と振る舞えるようになるまで、彼女の心は随分苦しみ、傷ついたことだろう。それでも人形を持ち続ける意志を貫くほど、その悲しみは深いのかもしれない。

 

やがて、空いていた最後の席に、女子学生が腰を下ろしました。彼女は一目でこの光景の意味を見て取り、何事もないかのように、空腹を満たし始め、やがてこの不思議な会食は、沈黙のまま皆が済ませたということです。

 

どこかで読んだという人もいるかもしれません。小林秀雄の「人形」という文章です。

この文章をどう捉えるかは人様々ですが、私はある人の意見が忘れられない。

仮に誰かが、「その人形は何なのか」と聞いたとしても、妻は平然として「息子です。」と答えただろう。息子は戦争でもう帰ってこない。その存在は忘れられていく。

しかし、自分はそれが許せない。いわば、息子に忘却という二度目の死を与えたくないのだ。だから、他人の視線はどうあれ、私は人形を何処にでも連れて行く。

忘れられないように、一緒に闘っている…

 

ヒトリシズカ

 大きな声を出さなければものが言えない人がいます。しかし、そういう人は、実は何も言っていないことが多いのです。

 この「人形」の中で、大きな声を出している人は誰もいません。みな沈黙しています。 

しかし、この沈黙は決して意味のない沈黙ではない。

 

妻の沈黙には、戦争で奪われた息子を、今度は記憶の彼方に奪われたくないという強い意志が込められている。

夫の沈黙には、そんな妻を見守り、自分をも心を共にしている気持ちが。

そして、そんな二人と一瞬食卓を共にした小林秀雄と名も無き女子学生の沈黙からは、この老夫婦の思いをさりげなく受け止め、尊重しようという気持ちが感じられるのではないでしょうか。

 

今日写したのは、「ヒトリシズカ」という山野草です。この「シズカ」というのは、源義経の寵愛した静御前の「静」であり、沈黙の意味の静かとは関係ありません。

でも、一人で静かに咲いている、そんな印象を与える植物だと思いました。

騒ぐことなく、一人、静かに。

ヒトリシズカ

スミレはスミレらしく(4月5日)

 大きな木の根元に、小さなスミレが咲いています。心優しい人に気づかれて、スミレは嬉しがっているかどうかはわかりませんが、一輪だけでささやかに咲いています。

 誰にも理解されなくても、自分の信じた道を進む以外仕方のない人がいます。その人は、どれほど社会的に報われなくても、自分を信じているのだから、それで幸せなのでしょう。

 仮に世間から注目され、脚光を浴びたとしても、それはその人にとって、恐らくどうということもないのです。

 

 

スミレ

…よく人から、数学などやって何のためになるのか、と聞かれる。

 だけど私は、スミレはただスミレらしく咲いていればいいのであって、それが春の野原にどのような影響を与えようと、それはスミレのあずかり知らないことだ、と答えてきた。

 私は、スミレがスミレらしく咲くように、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きてきただけである。…

 

 数学者・岡潔は、こんな意味の美しい言葉を残しています。スミレは、自分の咲く姿が傍からどのように見えようと、あるがままに咲いている。 人から数学の効用性について何を言われようと、数学を愛する自分こそが、真の自分なのだ。

 

 スミレの花を見るたび、この言葉が胸をよぎります。

スミレ

桜花終焉(4月2日)

まだ竹内政明さんが筆を執っておられた頃の編集手帳(読売新聞朝刊コラム)で、忘れがたい一文を見つけました。

 

…私は桜の花舞い散る時期、道を歩くのに時間がかかる。 何故なら地に落ちた花びらを踏んで歩くことにためらいを覚えるからだ。

 夭折した命。薄桃色に染まった小さな花びらの踏まれた姿を見ると、そんな言葉が思い浮かぶ。…

 

 優しい心持の人もいるのだな。もう10年も前の文章ですが、そう感じたのを覚えています。

 その文章の中で取り上げられた詩人・杉山平一さんの作品にも感銘を受けました。

 桜の花びらは、神様にはさみを入れられた切符のように見える。そしてそれを手にした人は、たった一度の旅に出る、旅人のようだ。

…そういうような意味の作品でした。杉山さんは優しさとつよさが静かにみなぎった、数多くの詩を残した人でした。 織田作之助と仲良しで、34歳で亡くなった彼の弔辞を読みました。

 杉山さんは、数年前、97年の生涯を閉じました。

 

桜

 旅立ちの時期に散って行く桜は、卒業や、今までの生活との別れと、結び付けられることが多いものです。一枚一枚の花びらが群をなして散華していく光景には、はっと息をつかせるものがあります。

 桜は生徒。幹は先生。いつからか、私は満開の木を見上げるたびにそう思うようになりました。

毎年毎年、誰に教えられるわけでもないのに、桜には蕾がつき、花開き、そして散って行きます。

幹は毎年、自ら育てた生徒を、時の訪れと共に送り出す先生なのかもしれない。

でも、空に向かう可憐な花びらは、すぐ地に落ちて、いずれ茶色く変色し、朽ちていく。

どうとふく刹那の風に散らされていく無数の花びらは、幹の流す涙のように見えてくるのです。

 

(私から旅立っても、君たちの行く末は見えている。)

それは、人にはどうすることもできない、自然の摂理ですが、せめてそんな風に感じてやることが、ひとつの情けになるのかもしれない。 所詮、人間の勝手な感傷に過ぎないのでしょうが。

 

桜

  • 桜

手向けの言葉(3月26日)

 その時28歳のビリー・ワイルダー青年はアメリカとの国境沿いの領事館にいました。

 ナチスの迫害が顕著になり始めた1934年。既に脚本家としてデビューしていたユダヤ系のワイルダーは、半年間のビザを取ってハリウッドで修行していたのです。

 しかし半年は瞬く間に過ぎ、アメリカの居住権を失いかけることに… 切羽詰まったワイルダーは、移民申請する以外、手だてはなくなりました。ところが必要な書類はほぼ手元にない状態。

ワイルダーは必死にアメリカに留まりたい思いを領事に伝えます。黙って聞いていた領事は一言、「あなたの仕事はなんですか?」「脚本を書いています。」 領事は申請書にスタンプを押して、ワイルダーに言いました。

「いい脚本を書いてくださいね。」

 

50年後、アカデミー賞の名誉ある賞を受けたワイルダーは、「あの時の名も知らぬ領事に最大の感謝を伝えたい。」 受賞スピーチでこの話を打ち明け、満場の拍手に包まれました。

「私は絶対に彼を失望させないような、いい脚本を書こうと努めてきた。」

…あの時の何気ない一言が、ワイルダーを支え続けたのです。

 言わば、ワイルダーにとっての「手向けの言葉」だったのでしょう。

 

3月。別れと、新たな出会いの季節が、今年もまたやってきました。

学校で、職場で、見慣れていた場所を去る人もあれば、緊張感や不安とともに、またやってくる人もあります。

去る人にかける言葉。どんなさりげない一言でも、それは、その人に影響を与え、励まし続ける「手向けの言葉」となりうるものです。

桜は「手向け草」とも呼ばれるそうです。 これから咲く桜。やがて散る桜。

旅立つ人を、見守っています。

 

桜

桜

桃と若葉が春を謳歌しています。

桜と桃

桃と桜。青空を背景に見ると色の濃淡が際立って見えますね。

  • 桜

サステナブルガーデンの桜は今が見ごろです。

桜の花の開くとき(3月19日)

今年もまた、桜の開花を皆が待ち望む時節となりました。

咲く前から散る瞬間まで常に注目され続ける花も、桜くらいしかないでしょう。

お正月よりも桜の花が開くとき、私は、「また一年経ったんだなあ。」と実感します。

桜は春を告げるだけではなく、人間にとってもっと大事なことを静かに伝えてくれる花なのかもしれません。

桜

コブシ

緑の王国のあちこちで、純白のハクモクレンの花が開いています。まるで燈火を捧げ持つかのように、この花は天を向いて開いています。

不思議な感性かもしれませんが、満開の桜、特にその一枚一枚の花びらを見ていると、私は海底から引き上げられたばかりの魚のうろこを思い浮かべます。 まるで一本の桜の木自体が、潮水を切って海の底から生えてきたようにも思われるのです。

 

桜

手前に桜、奥にマンサク。桃色と黄色の春告げ花が、事務所の裏で競うように咲き誇っています。

花の名前(3月14日)

花

人の数ほど花の数もあるのでしょうか。何気なく王国の中を歩いていると、自分の聞いたこともない花の数の多さに驚かされます。 それは自分の無知を痛感させられるまたとない機会でもありますが、同時に、私の心の中にはちょっと違った感想も巻き起こるのです。

 

小林秀雄の「美を求める心」という文章をご存知でしょうか。読んだことのない方は、いますぐ最寄りの図書館の棚から小林秀雄全集の何巻かを取り出して心読してください。あれは全文を壁に貼り付けておきたいほどの名文ですから。 内容はここで詳しくは言いません。

しかしこの中で小林秀雄の言うことはとても面白いことです。 先にまとめるなら、彼は知識で頭をいっぱいにするなと言っているのです。

 

…例えば、君たちが野原を歩いていて、スミレの花を見つけるとする。 すると君たちは、「ああ、スミレが咲いている」と思い、ちょっとスミレを一瞥してすぐ歩き去ってしまう。…

だが、そうしてスミレの名を知り、その名前と花の形を一致させる人のどれほどが、スミレの花をみたことがあるだろうか。その花びらの一枚一枚を、その色彩の微妙さをどれほどの人がつぶさに眺め、見えざる者のはからいに驚嘆するだろうか。…

 

名前をつけるとは、それを所有することです。花に名前をつけて、それを他の花とは違う人間の所有物だと明らかにしたいのです。

しかし、そうやって所有しているもの、つまり名前を知っている花の姿を、私たちはどれほど知っているのでしょうか。

…例えば、二分間でもいい。一輪の花を見続けていれば、どれほどたくさんのことがわかるだろう。 しかし、たとえきれいな花であっても、たとえ二分間に過ぎなくても、同じものを見つめ続けることのつらさに、人はすぐ気づくだろう。…

小林秀雄はこのようなことも言っています。

 

さあ、今日ここにあげた花の名前は、あえて書きません。

そして、一分間でも二分間でも、この花を見つめてあげてください。

その瞬間、あなたの気ぜわしい日常が少しでも遠くへ行きますように。

梅に託す詩心(2月22日)

春の温かさに至るまでは、まだ一進一退といった気候が続きますが、王国の梅は日に日に開く花の数を増しています。

今回は、過去の梅まつりで行われた俳句吟行会における入選作品から、梅を詠み込んだものを取り上げ、梅に託された詩の心を感じてみたいと思います。

梅

遠く離れた場所からも、梅園は紅の塊となって目に立つようになりました。

しかし、いまだその全てが咲いているわけではありません。これから美しく花開くために、時を待っている蕾もあるのです。

兼好法師いわく、月は満月のみが趣のあるものではない。 満開になる前のあと二、三歩といったところの梅が、かえって面白く、いいものに写る人もいるでしょう。

 

梅守る咲かぬ枝にも目を掛けて 石澤無涯(第六回・入選作)

 

王国ボランティアさんや職員は、日々開花の状況を気にかけています。

あの枝はまだ咲かない、いつ咲くだろうか、そんな風に見守っているうちに、必ず可憐な花びらが答えてくれるのですね。

梅

青空の中に、白い雲が浮かび、赤や白の花をつけた梅が浮かぶ。自然の持つ色彩の豊かさを実感する瞬間です。 江戸期の俳人、服部嵐雪は「梅一輪いちりんほどの暖かさ」と詠んでいますが、一輪同士が集まりあって色彩の団塊となった木からは、暖かさ以上に木の持つエネルギーのようなものを感じ取れるかもしれません。

 

探梅や空の広さに歩を伸ばす 武井猛(第八回・特選作)

 

晴天の空の広さに誘われて、作者は生き生きと歩いている。 空へ枝を伸ばす梅の木々も、今を盛りと花を咲かせている。 人と梅が交歓し合い、生命力を謳歌している様子が伝わってくる、そんないい一句です。

梅

日本人は梅と桜に春の訪れを感じる人たちです。しかし、ただその色を楽しみ、花の形を愛でているわけではないでしょう。 枝を見上げているその瞬間、その人の中では、他の誰にも起きないドラマが展開されているかもしれません。 あるいは、梅や桜に触れて思い出す、記憶や思い出も多々あることでしょう。 花を愛でる時、人には沈黙が訪れます。 その時、傍らの人が何を噛みしめているのか、それは、その人にしかわからないのです。

 

梅東風(うめこち)や媼(おうな)の杖の重からず 青柳進(第九回・入選作)

 

東風に吹かれて、媼(おばあさんの意味)は自分の持つ杖が軽くなったように感じました。しかし、杖だけが軽くなったのではありません。おばあさんの体が、一瞬、若い頃に返ったのです。梅の間を吹く風によって、おばあさんは身も心も若返ったのです。それは不思議で嬉しい、しかしほんのひと時おばあさんの身に起きた、誰も知らないドラマなのでした。

梅4

梅まつりは3月3日、4日に開催されますが、その頃にはほとんどの梅が花開いていることでしょう。 今年も多くの方々に、冬の寒さに耐えた梅の美しい姿を堪能していただきたいものです。

 

小康の友の笑顔や梅真白 荻野善子(第八回・入選作)

 

おととしの梅まつりを、お友達と一緒に訪れた方の一句でしょう。 体調を崩されていたのでしょうか、それがやっと落ち着いたお友達が、元気に花開いた白梅を見て久しぶりに笑顔を見せた。 早く全快して、来年は完治したお友達とまた梅を身に来たい。そんな作者の切なる思いが感じ取れます。

 

私の一番好きな一句です。

春の兆し(2月16日)

厳しい冬の寒さも、ようやく出口が見え始めてきたのでしょうか。王国の数多くの梅たちにも、赤や白や桃色の小さな花が目立ち始めました。まだ満開には遠いですが、これも今年の春の兆し。 地上に目を向けてみると、凍てつく土の中からも、春を告げる植物や花々が、静かにその存在を私たちに伝えています。

梅

福寿草1

福寿草の花も、王国のあちこちで咲き始めています。

 

福寿草2

ぜひ王国を訪れて、どこに福寿草が花開いているか探してみてください!

フキノトウ

落ち葉をかき分けてみると、中からフキノトウが顔を出しました。握りしめた手をそっと開いたような形。中には、これから訪れる春が詰まっているのかも。

ロウバイ

蝋梅はなんと精巧な花なのでしょう。思わず触れてみたくなります。でも、この花は、あまり人目にたちたくないとでも言うかのように、下を向いて咲くのです。

カワセミ君来園!

今日は緑の王国にやってきたぞー!! なんてったってボクはここのマスコットキャラクターだもんなあ。たまにはマスコットらしく、王国を自由に飛び交うのもいいよね。

あれ、池の氷が溶けている! 鴨たちが悠々と泳いでいるぞ。 ボクも運がよかったらお昼ご飯の魚にありつけるかもしれない! よし、この木にとまってじっと待っていよう…

 

ん?池の向こうにオレンジ色の人間が二人立っている。(注:緑の王国ボランティアは普段オレンジ色のジャンパーを着ています。)… なんかボクの方をずっと見ているような…

ボク、ひょっとして人気者! いやあ、困っちゃうなあ(照) ちょっと、そんなに見ないでよ! 

いやだなあ、カメラまで向けちゃって。 いい男に写るように撮ってくれないと困るよ!

 

…ああっ、そんなことを言っている間に魚が逃げていっちゃった。

やれやれ、人間の相手ももう終わり。 またいつか来てあげるからね。 人間たち、じゃあねー。 (バサバサッ)

 

 

 

(こうしてカワセミ君はいずこへか去っていってしまいました。また王国に来てくれるかな!?)

カワセミ

  • カワセミ2
  • カワセミ3
  • カワセミ4

王国風景(2018年2月2日・雪化粧)

国内各地を稀にみる強烈な寒波と終わりの見えない豪雪が襲来した今年、深谷でもほぼ四年ぶりに、交通や生活に影響がでかねない程の雪が降りました。

と言っても、東北や北陸各地の絶句するしかない積雪状況に比べれば、大したことはないのでしょうが… ここ、緑の王国も、二度の雪によってその広大な敷地がもれなく、雪の白いシーツで覆われました。 それは見慣れた普段の景色とは全く異なる、別世界でした。

まだ雪の降って間もない頃に訪れた方は少なかったことでしょう。 そこで、皆様にも雪の王国を堪能していただきたく、ここに数葉の写真を掲載する次第です。

 

ラクウショウが森を成している一画に足を踏み入れた時、そこは神秘の異界のようでした。

見上げると、無数の枝の先の先まで雪を載せた幾本もの大木が視界の果てまで続き、そこはかとない生命力をちっぽけな人間に伝えます。普段、何気なく見上げている時には、そんなにたくさんの枝があることなど意識しないのです。積もり積もった雪によって、私たちは、いつも見えていないものに気づかされることがあるのです。

ラクウショウ雪

雪が降ったことを楽しく感じなくなるのは、大人になるにつれて必然的に訪れる、悲しいさだめなのでしょうか。中勘助は名作『銀の匙』の中で、子供の世界はいつも小さな発見にみちあふれている、という意味のことを書いていますが、雪の日が子供を感動させるのは、自分を包む世界が比類ない発見の宝庫と化すからでしょう。

それは一年の限られた時期にしか出会えない、まさに天からの贈り物なのです。

雪化粧

 

雪化粧をほどこされたラクウショウの森を歩いていて、私は東山魁夷の作品世界を思い浮かべていました。今改めてこの一枚を眺めていると、チェーホフの世界も脳裏に浮かんできます。

しかし、私とはまた異なった感想や印象を抱く人もいることでしょう。 それが当然なのです。

それを目にした人の、感性や記憶や思い出によって味付けされて、私たちは一人ひとり全く別のものを見、別の世界を生きているかもしれないのです。

雪化粧

雪が降る度私は思うのですが、もし人間が地球から姿を消したなら、誰が雪の美しさを愛でるのでしょうか。 ほかの生き物たちは、せいぜい「寒い」とか「冷たい」としか感じないでしょう。

人間という生き物に生まれた良さを私が感じるのは、雪の美しさを信じ、感じることができる時。

このラクウショウたちは、自分の美しさを知らない。それが残念で、しかし、そういうものでしかないのだとも思います。

 

雪に愚痴をこぼしたくなるのは、自分たちの足元しか見ないからです。

空を見上げましょう。雪の精が、枝の隙間から微笑んでいるかもしれません。

 

雪化粧

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