市民がつくり 市民が守り育てる 市民の森

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場内ガイド

更新日:2018年4月20日

櫛引の大地に広がる、市民の憩いの森、ふかや緑の王国。

そこは四季折々の自然、数多くの草木や花々に包まれる普段とはちょっと違った時間の流れる落ち着いた空間です。

自然の豊かさに触れ、失いかけていた日常を取り戻したり、小さな子どもと一緒に芝生を駆け回ったり、ボランティアさんの整備するいくつものガーデンを経巡って、新たな花の知識を増やしたり… 過ごし方は人さまざま。

このページでは、そんな緑の王国に、今どういった花が咲いているのか、どのような風景が広がっているのかを、気まぐれにお伝えしたいと思います。

(ふかや緑の王国のFacebookでは、きまぐれではなく毎日、緑の王国の今を更新しています。

 こちらもぜひご覧ください。)

光影(4月20日)

 あなたの一番好きな日本語は何ですか? と聞かれたら、どう答えますか。 私は以前あるところで「ありがとう。」を挙げる人が多いと耳にしたことがあります。この回答にうなずく人は多いかもしれません。同じ問いを海外の人に聞いてみると、どのような答えが返ってくるでしょうか。これは集めることが簡単ではないクエスチョンでしょうが、私はいくつか聞いたことがあります。二通りの答えを本で読んだことがあり、奇しくもそれは同一の言葉でした。

 

 今年没後20年を迎える須賀敦子のエッセイの中で、彼女はアン・モロウ・リンドバーグが忘れがたい一言だ、と述べたことのあるひとつの日本語を紹介していました。

 

「さようなら。」

 

 大西洋無着陸横断飛行を遂げたチャールズ・リンドバーグの妻であるアンは、この言葉に衝撃を受けたといいます。「さようなら。」別れの言葉であるこの一言は、普段私達は何気なく使っているものですが、彼女には特別な響きを持って聞こえたらしい。

 この国の人たちは、別れに際して「あきらめ」の言葉を口にするのだ。さようなら。これを分解してみると、そうしなければならないのなら。こうなる。あなたと別れなければならないのなら、そうしなければならないのなら、「さようなら。」日本の人々はこの言葉を口にする。

 

 

 そう言えば彼女自身、まだ幼い息子と、悲劇的な「さようなら」をせざるを得なかった人でした。

チューリップ

 日本を愛し、日本人と結婚し、日本に骨をうずめた外国人作家、といえば、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを思いうかべる人が多いでしょうが、実はもう一人同じような人がいました。ポルトガルの海軍士官だった彼は、恐らくハーン以上に深い愛着と鋭い批評心を持って日本を見つめた人でした。徳島に住んだ彼の名はヴェンセスラオ・デ・モラエス。

 モラエスの残した文章は、日本に対する熱烈な愛情に満ちたものです。読んでいて歯痒くなるほどですが、この間読んでいて、おやと思わせるところがありました。

 

 その言葉は、優しい日本語の中でもとりわけ優しい響きを持っている。最初にその言葉を聞いた人は、恍惚となるだろう。しかし、いよいよ日本を去る間際にその言葉を聞くと、かなしい気分になるに違いない…

 

「さようなら。」

 

 モラエスはオヨネという日本人女性と結婚し、彼女が亡くなると、その姪のコハルと再婚しました。彼女が早世した後は一人で暮らしていました。1929年の夏の夜、モラエスは井戸の水を飲もうとして、縁側から転落しました。翌朝、冷たくなっていた彼を、近所の住人が発見しました。

 

 

 そう言えば、ありがとうは漢字で書くと「有難う」となります。有り難い、そんなことはなかなか起こり難い、そういうことに接したとき、私達はこの言葉を口にするのです。どうやらひとを魅了する日本語とは、一歩引いた、やや消極的な響きを持ったものが多いようです。

チューリップ

あの厳冬の時期には、本当に咲くのだろうかと思っていたチューリップが、今王国のあちこちで満開です。

花より団子(4月14日)

 八重の桜を見るたびに、ああ、うまそうな花だな、と思います。ふっくらして、はっきりと桃色に染まって、幾枚も重なった花びらは少し縮れていて、大きい。ソメイヨシノは対象的に、花は小さく期間も短いので、長く楽しめる八重の方が、どこか図太くて、儚さとは違うものを感じさせて、また面白いものです。

 花がうまそうだなんて言うと、花より団子、と言われそうです。でもそう感じるのだから仕方がない。そう言えば、作家の正宗白鳥に「花より団子」という随筆がありました。面白い文章です。

 

1879年生まれの正宗忠夫(白鳥の本名)少年は、まだ明治が始まって間もない頃、小学校に上がりました。

 その頃、今までやらされたことのなかった「作文」の授業があったそうです。ところが、忠夫少年は書くことが何もない。仕方がないので、そのまま白紙で出しました。

 すると先生、「なんで白紙で出したのか、何か書きなさい。」

     忠夫少年「何も書くことがありません。」

     先生「なんでもいいから書きなさい。今は花の盛りだ。花は桜木、人は武士という言     

        葉を君は聞かないか。」

     忠夫「聞きません。」

     先生「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散るという歌を君が知らないか。」

     忠夫「知りません。」

     先生「それじゃあ、花より団子だ。花見をして団子を食べたと書いたらいいではないか。」

  うん、それはそうだと思って、忠夫少年は「花より団子」で作文を書くことにしました。それで、自分の家の庭に咲いている立派な八重桜を見ているうちに、なんだか不思議な気持になりました。

 

八重桜

花はなぜこんなにきれいなのだろう。そんな当たり前と思われたことが、急に不思議に思われだした。そう思いながら桜を見ていると、桜の花が団子のように見えてきた。花の塊が串に刺されて立っているのが、満開の桜の姿か。

 

「団子が咲いた、咲いた」と作文に書いたそうです。この先生も面白い人だったようで、それにいい点をつけてくれたのだとか。

 

 作文でいい点をもらい、家に帰った忠夫少年は、またきれいだなあと思いながら満開の八重桜を見ていました。すると今度は、あの桜を食べてみたいと思い始めた。「味はどうあれ、美しいものを口に入れてみたいという気持ちになった」そういう意味の言葉で振り返っています。

そして、木にするすると登り、花をもぎとると、そのままむしゃむしゃと食べたのだそうです。

美味しかったのか、まずかったのか、そこのところは言及していませんが、美しいと感じたものを自分の体の中に収めたことが、当時6歳か7歳の彼にとっては余程忘れがたい出来事となったのでしょう。白鳥がこの文章を書いたのは、78歳の時だったのですから。

 正宗白鳥は、澄んだ心と水晶のような透き通った魂を持った、一羽のスワン(白鳥)のような人でした。

 

 桜にも様々な種類があります。早い時期に咲く寒桜、春の真ん中に咲くソメイヨシノ、そして八重桜は咲くと、もう桜の時期も終わりかと思わさせられるものです。

 でもこれからの時期こそが、花の競演の始まりだとも言えそうです。

八重桜

沈黙の意味(4月11日)

 関西へ向かう食堂車の中で、その人は遅めの夕食をとっていました。

 四人掛けのテーブルに一人で座り、車窓を流れる見慣れぬ景色に時折目を走らせながらフォークを動かしていると、空いていた向かいの席に一組の老夫婦が近づいてきました。

身ぎれいで品の良さを漂わせている二人ですが、ひとつ、異様な点がありました。

 

 妻が、大きな人形を抱えているのです。しかも、かなり汚れている。席に着いた二人は、静かに食事を始めました。妻の方は、必ず人形の口元へスプーンを運んでから自分自身が食べる。

「二人分」の食事は、なかなか進みません。

向かい合ってこの光景を見ていたその人は、気づきました。人形は、老夫婦の息子だ。戦争で亡くしたのだろうか。その衝撃で、妻は精神の平衡を失い、夫が人形をあてがったのか。

しかし、ここまで平然と振る舞えるようになるまで、彼女の心は随分苦しみ、傷ついたことだろう。それでも人形を持ち続ける意志を貫くほど、その悲しみは深いのかもしれない。

 

やがて、空いていた最後の席に、女子学生が腰を下ろしました。彼女は一目でこの光景の意味を見て取り、何事もないかのように、空腹を満たし始め、やがてこの不思議な会食は、沈黙のまま皆が済ませたということです。

 

どこかで読んだという人もいるかもしれません。小林秀雄の「人形」という文章です。

この文章をどう捉えるかは人様々ですが、私はある人の意見が忘れられない。

仮に誰かが、「その人形は何なのか」と聞いたとしても、妻は平然として「息子です。」と答えただろう。息子は戦争でもう帰ってこない。その存在は忘れられていく。

しかし、自分はそれが許せない。いわば、息子に忘却という二度目の死を与えたくないのだ。だから、他人の視線はどうあれ、私は人形を何処にでも連れて行く。

忘れられないように、一緒に闘っている…

 

ヒトリシズカ

 大きな声を出さなければものが言えない人がいます。しかし、そういう人は、実は何も言っていないことが多いのです。

 この「人形」の中で、大きな声を出している人は誰もいません。みな沈黙しています。 

しかし、この沈黙は決して意味のない沈黙ではない。

 

妻の沈黙には、戦争で奪われた息子を、今度は記憶の彼方に奪われたくないという強い意志が込められている。

夫の沈黙には、そんな妻を見守り、自分をも心を共にしている気持ちが。

そして、そんな二人と一瞬食卓を共にした小林秀雄と名も無き女子学生の沈黙からは、この老夫婦の思いをさりげなく受け止め、尊重しようという気持ちが感じられるのではないでしょうか。

 

今日写したのは、「ヒトリシズカ」という山野草です。この「シズカ」というのは、源義経の寵愛した静御前の「静」であり、沈黙の意味の静かとは関係ありません。

でも、一人で静かに咲いている、そんな印象を与える植物だと思いました。

騒ぐことなく、一人、静かに。

ヒトリシズカ

スミレはスミレらしく(4月5日)

 大きな木の根元に、小さなスミレが咲いています。心優しい人に気づかれて、スミレは嬉しがっているかどうかはわかりませんが、一輪だけでささやかに咲いています。

 誰にも理解されなくても、自分の信じた道を進む以外仕方のない人がいます。その人は、どれほど社会的に報われなくても、自分を信じているのだから、それで幸せなのでしょう。

 仮に世間から注目され、脚光を浴びたとしても、それはその人にとって、恐らくどうということもないのです。

 

 

スミレ

…よく人から、数学などやって何のためになるのか、と聞かれる。

 だけど私は、スミレはただスミレらしく咲いていればいいのであって、それが春の野原にどのような影響を与えようと、それはスミレのあずかり知らないことだ、と答えてきた。

 私は、スミレがスミレらしく咲くように、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きてきただけである。…

 

 数学者・岡潔は、こんな意味の美しい言葉を残しています。スミレは、自分の咲く姿が傍からどのように見えようと、あるがままに咲いている。 人から数学の効用性について何を言われようと、数学を愛する自分こそが、真の自分なのだ。

 

 スミレの花を見るたび、この言葉が胸をよぎります。

スミレ

桜花終焉(4月2日)

まだ竹内政明さんが筆を執っておられた頃の編集手帳(読売新聞朝刊コラム)で、忘れがたい一文を見つけました。

 

…私は桜の花舞い散る時期、道を歩くのに時間がかかる。 何故なら地に落ちた花びらを踏んで歩くことにためらいを覚えるからだ。

 夭折した命。薄桃色に染まった小さな花びらの踏まれた姿を見ると、そんな言葉が思い浮かぶ。…

 

 優しい心持の人もいるのだな。もう10年も前の文章ですが、そう感じたのを覚えています。

 その文章の中で取り上げられた詩人・杉山平一さんの作品にも感銘を受けました。

 桜の花びらは、神様にはさみを入れられた切符のように見える。そしてそれを手にした人は、たった一度の旅に出る、旅人のようだ。

…そういうような意味の作品でした。杉山さんは優しさとつよさが静かにみなぎった、数多くの詩を残した人でした。 織田作之助と仲良しで、34歳で亡くなった彼の弔辞を読みました。

 杉山さんは、数年前、97年の生涯を閉じました。

 

桜

 旅立ちの時期に散って行く桜は、卒業や、今までの生活との別れと、結び付けられることが多いものです。一枚一枚の花びらが群をなして散華していく光景には、はっと息をつかせるものがあります。

 桜は生徒。幹は先生。いつからか、私は満開の木を見上げるたびにそう思うようになりました。

毎年毎年、誰に教えられるわけでもないのに、桜には蕾がつき、花開き、そして散って行きます。

幹は毎年、自ら育てた生徒を、時の訪れと共に送り出す先生なのかもしれない。

でも、空に向かう可憐な花びらは、すぐ地に落ちて、いずれ茶色く変色し、朽ちていく。

どうとふく刹那の風に散らされていく無数の花びらは、幹の流す涙のように見えてくるのです。

 

(私から旅立っても、君たちの行く末は見えている。)

それは、人にはどうすることもできない、自然の摂理ですが、せめてそんな風に感じてやることが、ひとつの情けになるのかもしれない。 所詮、人間の勝手な感傷に過ぎないのでしょうが。

 

桜

  • 桜

手向けの言葉(3月26日)

 その時28歳のビリー・ワイルダー青年はアメリカとの国境沿いの領事館にいました。

 ナチスの迫害が顕著になり始めた1934年。既に脚本家としてデビューしていたユダヤ系のワイルダーは、半年間のビザを取ってハリウッドで修行していたのです。

 しかし半年は瞬く間に過ぎ、アメリカの居住権を失いかけることに… 切羽詰まったワイルダーは、移民申請する以外、手だてはなくなりました。ところが必要な書類はほぼ手元にない状態。

ワイルダーは必死にアメリカに留まりたい思いを領事に伝えます。黙って聞いていた領事は一言、「あなたの仕事はなんですか?」「脚本を書いています。」 領事は申請書にスタンプを押して、ワイルダーに言いました。

「いい脚本を書いてくださいね。」

 

50年後、アカデミー賞の名誉ある賞を受けたワイルダーは、「あの時の名も知らぬ領事に最大の感謝を伝えたい。」 受賞スピーチでこの話を打ち明け、満場の拍手に包まれました。

「私は絶対に彼を失望させないような、いい脚本を書こうと努めてきた。」

…あの時の何気ない一言が、ワイルダーを支え続けたのです。

 言わば、ワイルダーにとっての「手向けの言葉」だったのでしょう。

 

3月。別れと、新たな出会いの季節が、今年もまたやってきました。

学校で、職場で、見慣れていた場所を去る人もあれば、緊張感や不安とともに、またやってくる人もあります。

去る人にかける言葉。どんなさりげない一言でも、それは、その人に影響を与え、励まし続ける「手向けの言葉」となりうるものです。

桜は「手向け草」とも呼ばれるそうです。 これから咲く桜。やがて散る桜。

旅立つ人を、見守っています。

 

桜

桜

桃と若葉が春を謳歌しています。

桜と桃

桃と桜。青空を背景に見ると色の濃淡が際立って見えますね。

  • 桜

サステナブルガーデンの桜は今が見ごろです。

桜の花の開くとき(3月19日)

今年もまた、桜の開花を皆が待ち望む時節となりました。

咲く前から散る瞬間まで常に注目され続ける花も、桜くらいしかないでしょう。

お正月よりも桜の花が開くとき、私は、「また一年経ったんだなあ。」と実感します。

桜は春を告げるだけではなく、人間にとってもっと大事なことを静かに伝えてくれる花なのかもしれません。

桜

コブシ

緑の王国のあちこちで、純白のハクモクレンの花が開いています。まるで燈火を捧げ持つかのように、この花は天を向いて開いています。

不思議な感性かもしれませんが、満開の桜、特にその一枚一枚の花びらを見ていると、私は海底から引き上げられたばかりの魚のうろこを思い浮かべます。 まるで一本の桜の木自体が、潮水を切って海の底から生えてきたようにも思われるのです。

 

桜

手前に桜、奥にマンサク。桃色と黄色の春告げ花が、事務所の裏で競うように咲き誇っています。

花の名前(3月14日)

花

人の数ほど花の数もあるのでしょうか。何気なく王国の中を歩いていると、自分の聞いたこともない花の数の多さに驚かされます。 それは自分の無知を痛感させられるまたとない機会でもありますが、同時に、私の心の中にはちょっと違った感想も巻き起こるのです。

 

小林秀雄の「美を求める心」という文章をご存知でしょうか。読んだことのない方は、いますぐ最寄りの図書館の棚から小林秀雄全集の何巻かを取り出して心読してください。あれは全文を壁に貼り付けておきたいほどの名文ですから。 内容はここで詳しくは言いません。

しかしこの中で小林秀雄の言うことはとても面白いことです。 先にまとめるなら、彼は知識で頭をいっぱいにするなと言っているのです。

 

…例えば、君たちが野原を歩いていて、スミレの花を見つけるとする。 すると君たちは、「ああ、スミレが咲いている」と思い、ちょっとスミレを一瞥してすぐ歩き去ってしまう。…

だが、そうしてスミレの名を知り、その名前と花の形を一致させる人のどれほどが、スミレの花をみたことがあるだろうか。その花びらの一枚一枚を、その色彩の微妙さをどれほどの人がつぶさに眺め、見えざる者のはからいに驚嘆するだろうか。…

 

名前をつけるとは、それを所有することです。花に名前をつけて、それを他の花とは違う人間の所有物だと明らかにしたいのです。

しかし、そうやって所有しているもの、つまり名前を知っている花の姿を、私たちはどれほど知っているのでしょうか。

…例えば、二分間でもいい。一輪の花を見続けていれば、どれほどたくさんのことがわかるだろう。 しかし、たとえきれいな花であっても、たとえ二分間に過ぎなくても、同じものを見つめ続けることのつらさに、人はすぐ気づくだろう。…

小林秀雄はこのようなことも言っています。

 

さあ、今日ここにあげた花の名前は、あえて書きません。

そして、一分間でも二分間でも、この花を見つめてあげてください。

その瞬間、あなたの気ぜわしい日常が少しでも遠くへ行きますように。

梅に託す詩心(2月22日)

春の温かさに至るまでは、まだ一進一退といった気候が続きますが、王国の梅は日に日に開く花の数を増しています。

今回は、過去の梅まつりで行われた俳句吟行会における入選作品から、梅を詠み込んだものを取り上げ、梅に託された詩の心を感じてみたいと思います。

梅

遠く離れた場所からも、梅園は紅の塊となって目に立つようになりました。

しかし、いまだその全てが咲いているわけではありません。これから美しく花開くために、時を待っている蕾もあるのです。

兼好法師いわく、月は満月のみが趣のあるものではない。 満開になる前のあと二、三歩といったところの梅が、かえって面白く、いいものに写る人もいるでしょう。

 

梅守る咲かぬ枝にも目を掛けて 石澤無涯(第六回・入選作)

 

王国ボランティアさんや職員は、日々開花の状況を気にかけています。

あの枝はまだ咲かない、いつ咲くだろうか、そんな風に見守っているうちに、必ず可憐な花びらが答えてくれるのですね。

梅

青空の中に、白い雲が浮かび、赤や白の花をつけた梅が浮かぶ。自然の持つ色彩の豊かさを実感する瞬間です。 江戸期の俳人、服部嵐雪は「梅一輪いちりんほどの暖かさ」と詠んでいますが、一輪同士が集まりあって色彩の団塊となった木からは、暖かさ以上に木の持つエネルギーのようなものを感じ取れるかもしれません。

 

探梅や空の広さに歩を伸ばす 武井猛(第八回・特選作)

 

晴天の空の広さに誘われて、作者は生き生きと歩いている。 空へ枝を伸ばす梅の木々も、今を盛りと花を咲かせている。 人と梅が交歓し合い、生命力を謳歌している様子が伝わってくる、そんないい一句です。

梅

日本人は梅と桜に春の訪れを感じる人たちです。しかし、ただその色を楽しみ、花の形を愛でているわけではないでしょう。 枝を見上げているその瞬間、その人の中では、他の誰にも起きないドラマが展開されているかもしれません。 あるいは、梅や桜に触れて思い出す、記憶や思い出も多々あることでしょう。 花を愛でる時、人には沈黙が訪れます。 その時、傍らの人が何を噛みしめているのか、それは、その人にしかわからないのです。

 

梅東風(うめこち)や媼(おうな)の杖の重からず 青柳進(第九回・入選作)

 

東風に吹かれて、媼(おばあさんの意味)は自分の持つ杖が軽くなったように感じました。しかし、杖だけが軽くなったのではありません。おばあさんの体が、一瞬、若い頃に返ったのです。梅の間を吹く風によって、おばあさんは身も心も若返ったのです。それは不思議で嬉しい、しかしほんのひと時おばあさんの身に起きた、誰も知らないドラマなのでした。

梅4

梅まつりは3月3日、4日に開催されますが、その頃にはほとんどの梅が花開いていることでしょう。 今年も多くの方々に、冬の寒さに耐えた梅の美しい姿を堪能していただきたいものです。

 

小康の友の笑顔や梅真白 荻野善子(第八回・入選作)

 

おととしの梅まつりを、お友達と一緒に訪れた方の一句でしょう。 体調を崩されていたのでしょうか、それがやっと落ち着いたお友達が、元気に花開いた白梅を見て久しぶりに笑顔を見せた。 早く全快して、来年は完治したお友達とまた梅を身に来たい。そんな作者の切なる思いが感じ取れます。

 

私の一番好きな一句です。

春の兆し(2月16日)

厳しい冬の寒さも、ようやく出口が見え始めてきたのでしょうか。王国の数多くの梅たちにも、赤や白や桃色の小さな花が目立ち始めました。まだ満開には遠いですが、これも今年の春の兆し。 地上に目を向けてみると、凍てつく土の中からも、春を告げる植物や花々が、静かにその存在を私たちに伝えています。

梅

福寿草1

福寿草の花も、王国のあちこちで咲き始めています。

 

福寿草2

ぜひ王国を訪れて、どこに福寿草が花開いているか探してみてください!

フキノトウ

落ち葉をかき分けてみると、中からフキノトウが顔を出しました。握りしめた手をそっと開いたような形。中には、これから訪れる春が詰まっているのかも。

ロウバイ

蝋梅はなんと精巧な花なのでしょう。思わず触れてみたくなります。でも、この花は、あまり人目にたちたくないとでも言うかのように、下を向いて咲くのです。

カワセミ君来園!

今日は緑の王国にやってきたぞー!! なんてったってボクはここのマスコットキャラクターだもんなあ。たまにはマスコットらしく、王国を自由に飛び交うのもいいよね。

あれ、池の氷が溶けている! 鴨たちが悠々と泳いでいるぞ。 ボクも運がよかったらお昼ご飯の魚にありつけるかもしれない! よし、この木にとまってじっと待っていよう…

 

ん?池の向こうにオレンジ色の人間が二人立っている。(注:緑の王国ボランティアは普段オレンジ色のジャンパーを着ています。)… なんかボクの方をずっと見ているような…

ボク、ひょっとして人気者! いやあ、困っちゃうなあ(照) ちょっと、そんなに見ないでよ! 

いやだなあ、カメラまで向けちゃって。 いい男に写るように撮ってくれないと困るよ!

 

…ああっ、そんなことを言っている間に魚が逃げていっちゃった。

やれやれ、人間の相手ももう終わり。 またいつか来てあげるからね。 人間たち、じゃあねー。 (バサバサッ)

 

 

 

(こうしてカワセミ君はいずこへか去っていってしまいました。また王国に来てくれるかな!?)

カワセミ

  • カワセミ2
  • カワセミ3
  • カワセミ4

王国風景(2018年2月2日・雪化粧)

国内各地を稀にみる強烈な寒波と終わりの見えない豪雪が襲来した今年、深谷でもほぼ四年ぶりに、交通や生活に影響がでかねない程の雪が降りました。

と言っても、東北や北陸各地の絶句するしかない積雪状況に比べれば、大したことはないのでしょうが… ここ、緑の王国も、二度の雪によってその広大な敷地がもれなく、雪の白いシーツで覆われました。 それは見慣れた普段の景色とは全く異なる、別世界でした。

まだ雪の降って間もない頃に訪れた方は少なかったことでしょう。 そこで、皆様にも雪の王国を堪能していただきたく、ここに数葉の写真を掲載する次第です。

 

ラクウショウが森を成している一画に足を踏み入れた時、そこは神秘の異界のようでした。

見上げると、無数の枝の先の先まで雪を載せた幾本もの大木が視界の果てまで続き、そこはかとない生命力をちっぽけな人間に伝えます。普段、何気なく見上げている時には、そんなにたくさんの枝があることなど意識しないのです。積もり積もった雪によって、私たちは、いつも見えていないものに気づかされることがあるのです。

ラクウショウ雪

雪が降ったことを楽しく感じなくなるのは、大人になるにつれて必然的に訪れる、悲しいさだめなのでしょうか。中勘助は名作『銀の匙』の中で、子供の世界はいつも小さな発見にみちあふれている、という意味のことを書いていますが、雪の日が子供を感動させるのは、自分を包む世界が比類ない発見の宝庫と化すからでしょう。

それは一年の限られた時期にしか出会えない、まさに天からの贈り物なのです。

雪化粧

 

雪化粧をほどこされたラクウショウの森を歩いていて、私は東山魁夷の作品世界を思い浮かべていました。今改めてこの一枚を眺めていると、チェーホフの世界も脳裏に浮かんできます。

しかし、私とはまた異なった感想や印象を抱く人もいることでしょう。 それが当然なのです。

それを目にした人の、感性や記憶や思い出によって味付けされて、私たちは一人ひとり全く別のものを見、別の世界を生きているかもしれないのです。

雪化粧

雪が降る度私は思うのですが、もし人間が地球から姿を消したなら、誰が雪の美しさを愛でるのでしょうか。 ほかの生き物たちは、せいぜい「寒い」とか「冷たい」としか感じないでしょう。

人間という生き物に生まれた良さを私が感じるのは、雪の美しさを信じ、感じることができる時。

このラクウショウたちは、自分の美しさを知らない。それが残念で、しかし、そういうものでしかないのだとも思います。

 

雪に愚痴をこぼしたくなるのは、自分たちの足元しか見ないからです。

空を見上げましょう。雪の精が、枝の隙間から微笑んでいるかもしれません。

 

雪化粧

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