深谷の偉人

更新日:2023年04月02日

近代日本経済の父、日本資本主義の父といわれる明治の大実業家・渋沢栄一をはじめ、深谷市は、多くの逸材を輩出しています。

深谷の偉人とその功績をご紹介します。

富岡製糸場と深谷の三偉人

近代日本資本主義経済の父 渋沢栄一

(写真)渋沢栄一

深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。

20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜の名代昭武に同行し渡欧しました。

明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。

34歳で、大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

富岡製糸場初代場長 尾高惇忠

(写真)尾高惇忠(深谷市教育委員会所蔵)

深谷市下手計に生まれ、17歳で自宅に塾を開き、近隣の子どもたちに教えました。

水戸学の影響を受け、尊皇攘夷思想を抱き、討幕を計画しますが、栄一が徳川慶喜に仕えたのをきっかけに考えを変えていきました。

明治維新後は民部省に招かれたのをきっかけに、富岡製糸場の設立に計画当初から関わり、建築資材の調達や工女の募集に尽力しました。

設立後は、初代場長をつとめました。

富岡製糸場建設資材調達のまとめ役 韮塚直次郎

韮塚直次郎(個人所蔵)

深谷市明戸出身で、富岡製糸場を建設するにあたり、資材調達のまとめ役をつとめました。

地元の瓦職人たちを束ね、当時日本で普及していなかった煉瓦を試行錯誤の末に焼き上げたほか、石材や瓦、セメントなど多くの資材調達を請け負いました。

製糸場の完成後には、事業の成功を感謝する意を込め、製糸場の絵馬を永明稲荷神社(深谷市田谷)などに奉納しています。

鎌倉武士の鑑

畠山重忠

(写真)畠山重忠像

畠山重忠は長寛2年(西暦1164年)、武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)畠山荘(現在の深谷市畠山)に生まれ、幼名は氏王丸といわれています。

さわやかな気概と数多くの戦功は特に目立ち、鎌倉武士の模範とまで讃えられた武将でした。

重忠の先祖は埼玉県の秩父地方に大きな勢力を持っていた秩父氏で、父・畠山重能(しげよし)の代に畠山へ移り住んだため、その地名を姓として名乗りました。

重忠は少年時代をこの畠山の地で過ごしますが、やがて菅谷(現在の埼玉県嵐山町)に館を構えました。

源平合戦での重忠の活躍ぶりは、数々のエピソードを残しています。また、重忠は文武両道の人物であるといわれています。

歌舞伎や浄瑠璃などの題材にもなり、現在の人々からも大いに尊敬の念を集めています。

児童文学作家

北川千代

(写真)北川千代

大正から昭和期を代表する児童文学作家である北川千代は、明治27年(西暦1894年)に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)の日本煉瓦工場内の社宅で生まれました。

父の北川俊は日本煉瓦工場の初代工場長で、千代は工場に暮らし、深谷で小学校時代を過ごしました。

女学校に入学した頃から雑誌「少女世界」などに投稿し、文学活動を始めます。また、社会主義婦人団体の「赤瀾会(せきらんかい)」に参加するなど、女性の自立を求めて活動を始めるほか、娼妓解放支援などの社会運動に参加する中で、社会的矛盾に直視した作品を多く発表します。その業績を記念して、昭和44年には、日本児童文学者協会により「北川千代賞」が創設されました。

日本煉瓦工場や小山川の土手などを舞台とした「雪の日」「らっきょう」「汽車の婆の話」には、自叙伝としての深谷の思い出が描かれています。