両角市次郎(もろずみいちじろう)

更新日:2023年03月27日

生没年

1865(慶応元)年―1921(大正10)年

解説

両角市次郎は、慶応元(1865)年、長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に生れました。 父・両角庄内(もろずみしょうない)とともに、地元宮川村に「富国館」を創設しました。明治22(1889)年、製糸原料となる繭を購入するため、深谷町(現在の深谷市)を訪れた市次郎は、継続的に繭取引を行い地元生産者との信頼関係を築いていきました。 明治39(1906)年刊行の『日本製糸業の大勢』によれば、市次郎は宮川工場の経営を父に委ね、明治31(1898)年1月、周囲に工場がなく多くの原料繭が確保できることから、現在の深谷市田所町付近に「富国館」を設立し、宮川工場の分工場として操業を開始しました。 操業当初は「分工場」の名の通り、小規模な設備での操業でしたが、市次郎が積極的な拡大策をとった結果、大正時代半ばには、富国館は県下1位の大製糸所となりました。大正8(1919)年刊行の『埼玉縣大里郡郷土史』によれば、全敷地面積8,060坪、工場敷地4,800坪、釜数1,050釜、就業する男工220人、女工1,300人、生糸の年間生産高28,000貫(約105トン)と記されています。 「優良なる生糸の生産は優秀なる工女と器機による」という市次郎の経営理念により、工場敷地内には劇場、浴場、教育施設、動物園が造られ、一つの街のように機能していたといわれています。 大正5(1916)年、渋沢治太郎など地元事業家有志によって、西武蚕業改良組合が創立される際は、これに積極的に参加し、生繭の正量取引の実現に貢献しました。また、蚕の品種改良と繭質の向上を積極的に呼び掛けました。地方蚕糸業の発展に尽くした市次郎は、大正10(1921)年57歳で亡くなりました。 市次郎が亡くなった後の深谷工場の経営は娘婿の幸助が引き継ぎますが、大正15年(1926)年3月、大規模な火災により300万円(現在の70億円以上)に及ぶ損害を被り、機能を焼失した工場はついに再建されることなく、深谷の富国館はその歴史に幕を閉じました。(『広報ふかや2015年7月号』より引用)

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