北川千代(きたがわちよ)

更新日:2023年03月27日

北川千代

生没年

1894(明治27)年―1965(昭和40)年

解説

北川千代は、明治27(1894)年6月14日に榛沢郡大寄村(現在の深谷市上敷免)で生まれました。父・俊は日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場長を務めており、当時としては大変進歩的な人物で、夫婦平等、子どもも長幼男女の別なく平等に扱い、家の中は自由な雰囲気だったようです。千代は恵まれた環境で育ちますが、煉瓦工場で働く職工やその子弟たちと自分との格差を肌で感じ、不平等や差別を嫌う女性へと成長していきます。 明治38(1905)年に上京し、東京の三輪田女学校在学中から雑誌『少女世界』や『少女の友』に投稿するなど創作を始め、大正初期から本格的に少女小説、童話を書き始めます。また、社会主義婦人団体の「赤瀾会」に参加するなど、女性の自立を求めて活発に活動を始めます。そうした活動をする中で、ただ甘いだけの少女文学ではなく、社会的矛盾や現実を直視した作品を数多く発表します。 その中でも、上敷免の煉瓦工場を舞台にした『「汽車の婆」の話』では、汽車の掃除をする女性労働者が、工場長の娘である「私」に、汽車に落ちていたと言って、きれいな貝のおはじきをくれますが、後に、そのおはじきは、工場長の家に取り入るために、わざわざ女性労働者が町で買ってきたものだと知り、複雑な思いが残る子ども心を描いています。 また、太平洋戦争中に多くの児童文学作家が戦争協力の読み物を書いていた時代にも、千代は決して子どもたちを戦争に駆り立てるような作品を書くことはしませんでした。 晩年、入院した際には、仕事をするために右腕には注射はせず、作家としてペンを持ち続ける意志を強く語ったと言います。昭和39(1964)年に第6回児童文化功労賞を受賞して、昭和40(1965)年10月14日に没しました。 千代の死後、彼女の児童文学に対する情熱は、昭和44(1969)年に日本児童文学者協会が千代の名を冠する「北川千代賞」を創設したことで、次の世代へと受け継がれることとなり、「北川千代賞」は新人児童文学者の登竜門となりました。(『広報ふかや2016年9月号』より引用)

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